天地の嘆き 其の十
「今頃はどうしているであろうか‥‥」
劉備は椅子に深く凭れながら呟く。何度口にした言葉だろうか。溜息と共に出たそれを、孔明は小さな声で笑った。
「玄徳様、それでは皆が心配しましょう‥‥」
「孔明よ、娘を思う父の気持ちなぞ、外聞など気にしていられぬもの」
「ふふ‥‥確かに。ですが、呉の使者が来ております故、今しばらくはお忘れください」
珍しく人前で笑う孔明に、劉備は不思議そうに魅入った。白く涼やかな顔が、笑みを湛えるだけで雰囲気は一変する。
「何か良いことでもあったのか?」
「善き事が起こるのは玄徳様でございましょう」
「私に良きこと?」
何やら意味ありげな笑いを繰り返す孔明は、さも可笑しそうだ。とは言え、劉備に孔明が笑みを浮かべる程の良い事など思いつかない。
「孔明‥‥私には何の事か‥‥」
「善き事とは、これから来るのでございます」
「何、これからと?」
玄徳の脳裏には、結城の顔が浮かんだ。
しかし、それを打ち消すかの如く、孔明は呉の使者が吉報を携えて来ると断言した。
「‥‥孔明、呉は私を疎んでいる。吉報など来るはずも無い」
「いえ、来ます」
言い切る孔明の顔は涼やか。その眼は何処までを見通しているのかと、劉備は不思議でならない。
「ですがそのお話‥‥如何なる条件でも先送りに」
「なんと!渋れと申すか?」
腑に落ちない提案に、それでも孔明の道理は自身の考えを上回っていると納得付ける。その思いに気が付いたのか、孔明は劉備に近づいて告げた。
「先送りにするのは、玄徳様が城を手にされるまでの間」
「私が城持ちになる間‥‥成程。」
劉備軍が荊州の三城を狙っている事は極秘。今の一言で、この縁談にどのような意味があるのか。
周瑜は孔明が何かを画策していることに気が付き、婚姻によってその意味を無効化する算段。
要は、城を持たぬまま縁談を受けて呉に行けば命は無い。
「孔明、そうであったとしても、呉に行くのは危険ではないか?」
「確かに危険ではございましょうが、孫姫が乗り気なら公瑾殿の思惑は水の泡になりましょう」
周瑜を出し抜き、呉との同盟を結んだまま荊州も孫姫も手に入れる。そんなことが可能なのかと、横で笑みを絶やさぬ孔明を見て劉備は溜息を吐いた。
智謀とは、絶えず物事の表裏を見。その先を読み取るからこそ成せる業。策略を巡らすは容易く、智謀で人を動かすは困難。
孔明、どこまでを手中に収めて先を読むか。




