天地の嘆き 其の八
三国志の史実と演義の登場人物が出てくる中で、あらゆる策謀が渦巻く中、彼らとどう対峙していくか。
いつしか芽生えた孔明への淡い気持ちは、現代との違いによって苦しむ恋になった。
結城は目の前に迫る庵に心を揺らす。締め付けられるような胸の痛みが広がってゆく。
決心した気持ちの萎え様が、嫌というほど感じられて辛いのだ。
「無理をしなくても良いのですぞ」
「‥‥元直様、決めたのです」
馬は二人を乗せて庵の前に止まった。その嘶きを聞いて、子供が庵の戸を開ける。
「黄殿はご在宅かな?私は孔明殿の同門で姓を徐、字を元直と申す者。こちらはユウ殿と申す」
「旦那様にお伝えします」
そういって庵の中に消えていく。その後姿を見送りながら、結城は心に靄が広がるのを堪えた。
しばらくして、若い楚々とした女性が姿を現し、此方へ近づいてくる。結城は羽扇を握り締めて眼を瞑った。
― 痛い‥‥だめ‥‥こんなことで泣いてちゃ‥‥―
震える体を鞭打つように眼を開ける。それでもその視界は地面しか映さず、どれだけ自身が臆病なのかを思い知った。
「遠いところ、よくいらっしゃいました。徐元直様とユウ様ですね。兄の孔明から聞き及んでおります」
「えっ‥‥兄?!」
驚いて聞き返す結城に、孔明の妹は笑顔で頷いた。見れば何処と無く孔明に似ている。
案内されたのは書斎近くの客間。
東と西の窓は御簾が垂れて光を薄明かりにしていた。南の入り口から見える庭の風景は、水鏡の庵を思わせる。
「私、兄の舅を呼んで参りますね」
「お構いなく。我々は待たせて頂きますので」
徐庶が丁重に断ると、孔明の妹は茶を出して下がっていった。途端に大きく息をつく結城に徐庶が覗き込む。
これでは間が持たないのではないかと。
「大丈夫です。心配なさらないで下さい」
「辛い時は回りのことなど考えずとも良いのです」
「‥‥はい」
返事はしたものの、そうはいかない。
濃師の称号を頂いた身の上では、人前で泣くことなど許されぬ。溜息を飲む為、出された茶を含もうとした時だった‥‥
「ようお越しになられました。父の非礼お許し下さいませ」
「‥‥奥方‥‥様‥‥か?」
「はい。生まれ付いての醜女故、御簾越しのご挨拶‥‥ご容赦下さいませ‥‥」
徐庶が受け答えしていたが、結城の頭は真っ白になっていた。声がカラカラで唾を飲み込むことさえできない。何よりも御簾越しとはいえ、影すらも見ることができなかった。
やっとのことで動かした手は、羽扇を握りしめて顔を覆い隠すだけ。
御簾の向こうにいる女性は自分を醜いと言う。しかしその声は透き通るように綺麗で、落ち着き自信に満ちた声。
どんなに頑張っても、正妻は彼女で自分は妾なのだと。
そんな事を考え悲しんでいる自身を醜悪だと罵った。まさに針の筵に座っているような感覚。
「ゆっくりとしていって下さいませ。夫もそれを望んでのことでしょうから」
突き刺さる言葉に結城は打ちひしがれた。カタン‥‥と音がして気配が去ってく。戻った静寂は、結城にとって耐え難いもの。
― まさか奥方がここまでユウ殿を意識されているとは‥‥ ―
徐庶は結城が不憫でならなかった。孔明に目をかけられたばかりに、心を奪われ翻弄されていると。
「‥‥っ‥‥‥‥」
声も無く肩を震わす結城の肩を抱く。
「‥‥なさい‥‥ごめ‥‥さい‥‥」
「気になさるな」
「‥‥いま‥‥だけ‥‥‥‥」
泣いてもいいですかと、声をしゃくり上げる。
今まで堪えてきた分、その悲しみも辛さも止まらない。それが判っているからこそ、黄承彦が現れないことに感謝した。
この日初めて、結城は女性として、その身の辛さに泣いた。
読んで下さって、ありがとうございます。
毎日、一話ずつ投稿できたらと思います。
貴重なお時間を使って頂き、心から感謝します。
誤字脱字に関しては、優しく教えて頂けましたら幸いです。




