天命 其の五
三国志の史実と演義の登場人物が出てくる中で、あらゆる策謀が渦巻く中、彼らとどう対峙していくか。
いつしか芽生えた孔明への淡い気持ちは、現代との違いによって苦しむ恋になった。
「どうしたのだ孔明?」
「‥‥少々、過ごしすぎたようです。酔いを覚まして参りましょう‥‥」
玄徳の問いかけに、羽扇で口元を覆って眉間に皺を寄せる。関羽の失態騒ぎの後、ようやく酒宴となったのだが‥‥
張飛を始めとする将軍達が、挙って孔明と徐庶の杯に酌をしたため、二人共幾分か飲み過ぎていた。
酒気漂う天幕から出て、涼やかな風に当たって空を仰ぐ。一段下がった大地には篝火が点々と続き、久々の安らぎを味わっていた。
そのまま酒宴の天幕から離れ、自身の天幕へ向かう孔明。別に何かの策を考えた訳でもなく、結城の体調を気遣っての行動だったのだが‥‥
天幕に辿り着くと、番兵が平伏して振るえていた。
「‥‥」
彼らを咎める訳でもなく、無言で入り口の布を開け放つ。静まり返った中は、待つ人がいるわけも無く。
奥の朴の隣に置いた灯明を見て、孔明は羽扇を強く握り締めた。
くるくると手の内で回転させ、パシリッと柄を持って平伏した番兵を呼び寄せる。徐庶を呼んでくるように申し付けた声は、氷のように冷ややかなもの。
程なくして、天幕へ徐庶が現れたが‥‥二人から酔いは無くなっていた。
「曹公の寵姫、柚殿は君に任せた筈」
無感情の声が徐庶へ向けられる。確かにと、徐庶は答えたが、彼が殺気立っているのを読み取り言葉を返す。
「柚殿は腹の子共々、私が面倒を見ると告げた。が、ユウ殿の友であることも事実」
「元直、君が‥‥私が築き上げた信頼関係を絶とは‥‥」
水鏡の元で共に学んだ者同士、互いに理解し合っていた。友とも呼べる同門の語り人。
「柚殿を逃がすつもりなのは、この際見逃しましょう」
「ユウ殿にも心がある。私は孔明、君と同じ事をしたまでだ」
徐庶は痛烈に孔明を批判した。
この場合の同じ事とは、関羽が曹操を打てないと判っていて差し向け、受けた恩義を返した事だが。
批判の矛先は別に有る。
「君はユウ殿の慣習を知り、それでも黄氏のことを説明しないではないか」
黄氏とは、孔明の正妻である月英のことを指している。徐庶は母を助けられた時から、結城を守る側に立っていた。
それが、長年の友を裏切る形になっても。
「説明をするよりも事実を見せるしかないでしょう」
「孔明っ!」
「君が心配してくれるのは有り難いが、真実は自身で見極めねば納得も出来ない」
徐庶は深く溜息をつきながら、目の前の孔明を見て天幕の外へ向かった。
孔明も後に続いて出て行く。
「軍略策略に長けている君も、意外な一面で不器用なのだと安心した」
呆れたように告げる徐庶の顔を見て、孔明は困ったように肩を揺らした。酷い言われ様だと、言い返しつつ口元をほころばせる。
そこへ様子を見てくるように言われたのか、趙雲が現れた。
「軍師殿!お二人で如何され申した?」
誠実そのものの声色で、二人を気遣う姿に徐庶も孔明も満足そうに頷く。訳の判らぬ趙雲だったが、二人が元気そうなので安心した顔つきで近寄ってきた。
「少し酔い覚ましに、小川の涼やかな風に当たりに行こうと話していたところです」
「では、拙者がお供仕ります。賊が出ては一大事でござろう」
趙雲の申し出を受け、三人は小川の傍にやってきた‥‥当にその時だった。
― ユウ‥‥今宵こそ、そなたを迎えに来た。―
「!!‥‥軍師殿、これは!」
聞こえてきた声に趙雲が反応したが、孔明は咄嗟に羽扇で彼を制した。結城が何かを答えたようだが、消え入りそうな呟きは聞き取る事ができない。
― 甘すぎるのよ!そんなことだから、此処にいる仲達や呉の周瑜に横恋慕されるんだわ! ―
変わりに聞こえてきたのは 甲高い柚の批判する声。その内容から先程自分達が話していた話を徐庶は思い出していた。
― 何処までを智謀というの?人心さえ謀略の手段になってしまう中で愛に生きる‥‥それは難しいこと‥‥ ―
― 貴女がそんなに強欲だったなんて初めて知ったわ!なんて高慢なのよ! ―
ようやく聞こえた結城の言葉は苦悩に満ちたもの。徐庶は横に並ぶ孔明の顔を見て慄く。
「‥‥」
関羽への叱責を見ていたと推測できる言葉に、孔明の視線が鋭いものに変わったからだ。
未だ嘗て、友のそんな形相を見たことがなかった。
― 仲達‥‥今しかない。結城を愛しぬく自信があるのなら‥‥貴方が手に入れる機会は今しかない! ―
柚の声が孔明を殺気だたせる。危うい状況を趙雲も徐庶も、固唾を飲んで見守った。
― 来るのだ‥‥そなたの居場所は我腕の中にある ―
孔明と並ぶ男が、今、結城が一番欲している言葉を口にしている。
はらり‥‥と音を立てず羽扇が地に落ちた。
長い沈黙の末‥‥
― ごめんなさい‥‥私は‥‥万民の為に生きます‥‥ ―
仲達の誘いを拒絶しただけのものではない。何よりも結城の心が閉ざされてしまった事を意味していた。
「柚をお願いします。もう一人の体じゃないんだから‥‥自分の事だけ考えてね‥‥」
そう言うと、結城は仲達が止めるよりも早く、天幕の並ぶ孔明達の近くを横切って走り去った。
二人の娘‥‥結城と柚は、この時自身の天命に従って各々の道を歩み始めた。
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