白龍の逃避行 其の十七
三国志の史実と演義の登場人物が出てくる中で、あらゆる策謀が渦巻く中、彼らとどう対峙していくか。
柚を保護し、結城を乗せた船は大河を行く。船上から遠くを見つめる孔明を遠くから垣間見て、結城はこの戦の行末を考えた。
― 勝算が無い約束をする方には思えない ―
柚を招き入れた事によって、劉軍は曹操から荊州の城を争奪することが出来ない。
これで良かったのだろうかと不安がよぎる。
「あまり深くは考えない事だ」
「元直様」
「孔明の思慮深さは君も知っていよう?ならば、待つことだ」
衣服を整えた徐庶が結城の横に立って、独り言のように囁く。
その視線は遥か対岸に出迎える劉軍を見ている。何をしていようと、無常にも時は進む。
時間の経過と共に孔明の策も全貌が見えてくると言いたいのだろう。手数の駒がどのようになろうと、策が廻るうちは彼の”思惑”の一つ。
単純に柚という手駒が増えたに過ぎない。
もともと呉は、今回の赤壁での大勝利の手柄として荊州簒奪を目論んでいたのだから。
― 何も代わり映えしないと言うの? ―
”この先の歴史”を教科書で知る程度の知識では、荊州が誰の物になるのかすら予測不可能。
何よりも結城と柚が動いたことで 歴史が変わってしまったかもしれないのだ。
絶え様も無い不安が結城の心を覆う。
船は洞庭湖をさらに西に進んだ場所まで来ていた。夕暮れも間直の平野には、劉軍の野営所が点々と続く。
布の天幕は呉軍の陣営に見劣りするものの、兵士の劉備に対する気持が伝わってくるような温かさを醸し出す。
「ユウ殿、ご婦人は貴殿の天幕にお運び申そうか?」
「趙将軍‥‥お医者様は陣営にいらしているのでしょうか?」
「積もる話もあると思ったが‥‥典医の華佗殿の所へお連れ申した方がよさそうだな、ユウ殿はそちらの天蓋で」
「重ね重ねすみません。趙将軍‥‥ありがとう‥‥」
語尾は最早言葉になっていなかった。やっと帰ってきたのだ。
劉備の元を勅使という役目を背負って出て以来、張り詰めた糸が切れてしまったような安堵感。ここはまだ戦場なのに思いが心を締め付ける。
無事に孔明と合流して劉備に再び会えたこと。友と再開し、今共にいること。
周瑜、陸遜、諸葛瑾の策謀の数々‥‥。
泣いてはいけないと判っていても、溢れてくる涙は止まらない。船を降りれば、凱旋者として皆の前に出なくてはならないのだ。
無論、劉備への報告の後は 一時程の小さな祝宴が催される。
赤壁の勝利は荊州において、曹操の連絡経路を寸断したことになる。今後の動向は祝宴の時に孔明から明かされるだろう。
故に、今気を緩めることはできなかった。しかし体は意思に逆らうように涙を溢れさせる。
「‥‥どうしました、ユウ?」
「こ‥‥孔明様、な‥‥なんでもありません」
船から兵士が降りていく中、背後から穏やかな声がかかった。泣いていると、一番知られたくない相手が間じかに居る。
― 落ち着かなくちゃ‥‥―
涙をそっと拭いて振り返ると、そこにはいつもの優しい笑みが見下ろしている。魅入ったように孔明から視線をそらすことが出来ない結城。
悟られまいとする程、頬が熱くなるのが判る。陸遜や周瑜に射抜くような眼差しを受けた時とは違った、高揚するような気持が包み込む。
日暮れの篝火が揺れる中、孔明と結城は見つめ合う。
先に動いたのは孔明だった。
ゆっくりと結城の前に歩み寄り、羽扇で隠しながらそっと耳打ちする。
「良く堪えましたね。貴方は充分すぎる程に、我々の為に動いてくれました」
「‥‥孔明様‥‥」
「ずっと張り詰めていたのでしょう。今は泣いても良いのですよ」
「!!」
驚いて見上げた先に、孔明の涼やかな顔が迫る。その甘い蜜のような言葉を聞いた瞬間、結城の心に言い様の無い気持が広がった。
夢うつつの中で孔明を見て、その優しい声を拾おうにも‥‥体から力が抜け、孔明に支えられるように眠りについていった。
読んで下さって、ありがとうございます。
毎日、一話ずつ投稿できたらと思います。
貴重なお時間を使って頂き、心から感謝します。
誤字脱字に関しては、優しく教えて頂けましたら幸いです。




