白龍の逃避行 其の十三
「うそ‥‥」
結城は”周”の旗がたなびく船を見て口元を押えた。異変に気がついた陸遜が、その横に並び船の淵に佇む柚をとらえた。それは孔明と徐庶も同じだった。
船の影が重なり停止すると、互いの状況は把握する事が出来た。
「孔明、貴殿‥‥我妻を何処へ攫う気か!」
「公瑾様、あれに見えるは大喬様と姫君では?!」
呂蒙が身を乗り出して、孔明の後ろに居る貴人を見つめる。
「何を言われます公瑾殿。これは祭事の続き故、御三方に願い出て協力して頂いているのです。」
「東南の風は吹き、赤壁での火計は成功を収めた。これ以上に何があると言うか!」
問答のような会話が船越しに続く。その中で結城は柚から目を離せないでいた。
彼女が此処に居るという事は、捕虜として捕らえられた可能性が高い。周瑜の気性を見ても女性に無体なことを強いることはしないだろう。
しかし 結城には耐えがたい。
― 柚を助けなくては! ―
握り締めた拳が震える。下手に動けば、孔明達の邪魔をすることにも為りかねない。
「孔明軍師殿は孫姫様方に槍舞と天舞を奉納させて、陽気を保たせようという腹らしいですよ」
陸遜はチラリと孔明を睨みながら、孔明の手口を明かした。その間も孔明は涼やかな顔で反応を見ている。
周瑜は結城の手元にある羽扇と徐庶の格好から、祭事が本当に行われている事を覚った。
しかし、納得する理由が見つからない。
東南の風は暖かい。陸遜は、陽気を保たせると言った。呉は資源豊富な富国。
しかし、この度の戦で内政の柱に揺らぎがでているのも確かだった。
― この陽気が一変すると言うのか?! ―
東南の風が吹きつづければ、滞っていた農作も万事上手くいく。まさか孔明がそこを突いてくるとは思わなかったのだ。
― これは策と言うよりも・・・・・・ ―
心理作戦なのだと。周瑜は陸遜に視線を走らせる。この結論に納得いかないのは自分だけではないのだ。
その時だった。
「ふふふ‥‥本当に公瑾様は面白い方」
鈴を転がすような可愛らしい笑い声がしたのは。遠巻きに見ていた柚が船の先端まで歩み出て手を振る。
「ユウ、無事でよかったわ」
「柚!」
「貴方も大変ね。呉の大都督は自然の摂理に理解を示されないみたいだから」
「‥‥柚‥‥」
「如何に孔明様がお心を砕かれても無意味のようよ」
― 柚‥‥一体‥‥まさか?! ―
「それも仕方が無い事です、柚」
結城は懸命に話をあわせた。柚は何らかの形で孔明の手助けをしているのだ。
「そうかしら?私達の国では東南の風が吹いた後は、必ず神々が気温を下げるわ。そうでしょう?」
「‥‥そうです。だからこそ、そこに居る伯言殿を説得したのに‥‥」
「呉は暖かいけど大気の変化に苦しむのは、いつも農民ですものね」
そこまで言って柚はくすくすと笑った。それは周瑜を煽るのに充分で。
「‥‥矢張り顔見知りだったか」
「公瑾様‥‥天下の都督が、理由を知って尚も農民を見捨てては、さぞや恨まれましょうね」
呂蒙が小声で周瑜に采配を仰ぐ。しかし周瑜は落ち着いて切り返す。
「孔明ならば助けられると申すか。それに斯様な事を何故そなたが知っている!」
「私は寵姫、戦況は全て私の手の中。そうねぇ‥‥東南の風を呼ばれたのは何方でしたかしら?」
決定打だった。
曹操の寵姫である柚は、彼の傍で全ての情報をみていたのだ。矢のことも、南ぺい山に壇を築き、孔明が拝みに上がった事も。
神頼みをする酔狂な軍師だと兵士が笑っていたのを思い出す。
寵姫に事細かな戦況が伝わるほどの情報網を曹操軍が持っていたという脅威と、東南の風を吹かせた孔明の偉業。
周瑜は奥歯を噛み締めて柚の言葉を吟味した。
――あともう一押しね・・・・・――
柚は微笑を絶やさず、寵姫としての気品を醸し出す。
「神々の賜物を無下にする方を始めてみましたわ」
「何と?!」
「東南の風は吉祥の風、神が去れば呼応して戌亥の風に戻る‥‥そうだったわよねユウ?」
囀るように仄めかす柚の話術は、その場に居た孔明と徐庶に光明を与えた。
呉に居なかった筈の柚が、結城と同郷というだけで同じ事を口にしている。聡明な周瑜も、この罠は見抜くことができなかった。
説明すれば、これは神がかりのようなものではない。
東南の風とは湿った風が山を越える時に雨を降らし水分を無くして 山の反対側に乾いた風を送るフェーン現象のこと。
フェーン現象は山間部に雲があるかないかによって温度差の高低がつく。吹き始めは山間部にも雲が少なく、乾いた風が吹き荒れる。
しかし、風が断続的に巻き起こり、水分が溜まって必然的に雨雲を山の反対側に押しやって波状雲をつくるのだ。
乾いた風は大地に降り立つが、湿った雲が次々と来て空気の熱を吸収して温度を下げる。俗に言う、乾燥断熱の効果。
それに伴って山の反対側でも、風の温度は当初より低くなる。
また、山を越えて出来た波状雲が熱を吸収し、相乗効果で気温を下げていく。
孔明はこの現象が起こることを知っていた。結城は現代の知識として知っていた。柚も本を読んだからこそ知っている訳で。まさに自然の現象を利用した心理作戦。
周瑜を翻弄する柚の鮮やかな言葉。その裏に、孔明は全てを垣間見た。孔明は周瑜に切り出す。
「奥方の心配もありましょう。我々はこのまま玄徳様に報告があります故、祭事は其方で」
「何?!では‥‥ユウ殿、祭祀として居残り願おう!」
「それは無用の事。口上は孫姫が行ってくれます故」
「此方にはユウ殿の友人も居るが‥‥如何いたすか」
孔明と周瑜の攻防。周瑜が詰め寄った時だった。
「私がどのような顔で孔明様の元へ参れます?」
「何?!」
柚は結城の顔を焼き付けるように見つめ、徐庶に視線を移した。
「貴方が元直様ね‥‥」
「柚?」
唯一の助かる好機。
「私は全て知っていてやったの‥‥貴方に恨まれても仕方が無い」
「柚‥‥何を言って‥‥」
「私の罪は‥‥愛する人を業火に彷徨わせた罪‥‥そして‥‥貴方の母親を死の淵へ追いやった罪」
涙して懺悔する柚は、死してもこの罪は余りあると告げた。
「ユウ、Don't go!‥‥Enemy waiting!‥‥Run!」
― 行くなって‥‥待つ?Enemy‥‥何かが待ってるの?Run‥‥逃げろってこと? ―
「どんなに足掻いても、歴史はまわるわ‥‥その人から離れちゃだめよ‥‥大好き‥‥ユウ‥‥ありがとう‥‥」
「だめ‥‥やめてっ‥‥柚!公瑾様柚を止めてぇ!!」
柚は水音と共に結城の視界から消えた。
無意識に河に飛び込もうとする結城を陸遜が止める。続いて水音がして徐庶の上着が空を舞った。
動ける唯一の人間は徐庶。皆が全てを許せるはずも無い、しかし柚の立場なら己も同じ事をしただろう。
牽制しあう中、柚を救う徐庶の心境を考えると、結城は胸が締め付けられた。柚も徐庶も大切な人には変わりない。




