謀略の明暗 其の一
三国志の史実と演義の登場人物が出てくる中で、あらゆる策謀が渦巻く中、彼らとどう対峙していくか。
「ユウ殿、どうしました?」
「・・・・・陸伯言殿、」
「・・・・・嫌ですよ、そんな堅苦しく・・・・・もしかして、警戒してますね?」
「・・・・・・・・」
「ほら、前のように”陸遜”と呼んで下さい」
「・・・・・・・・」
結城は躊躇っていた。
というのも、徐庶から”名”についての説明を受けたからだ。
この時代、姓・名・字 の3つで個人を表現していた。
特に”名”はとても大切で 天子や君主・・・・師(上役)や親など、自分にとって尊い者から呼ばれるもの。
陸遜で喩えるなら
普段は、陸参謀や陸伯言殿、または伯言殿といった字で呼ばれる。
軍事的戦略的意図があるか、昵懇の間柄で許されているのであれば陸遜と呼ぶことも可能だろう。
特に言われて気がついたことだが、孔明や徐庶はこれらを良く使い分けていた。
そう、言い換えれば、結城は今まで各国の錚々たる武将や参謀・・・・軍師を”名”で読んでいたのだ。
自身の名は隠しているのに。
― とても失礼なことをしていたのでは? ―
事実を知った以上、訂正はしたい。
しかし、目の前の陸遜は笑うだけ。
「相手である私が怒って無いのですから良いではないですか!」
「でも・・・・」
「恐らく、無意識で呼んでいるから皆気にしないのですよ。」
「は?」
「貴女の国は名で呼んでも平気なのでしょう?」
どうして判るのかと問い返すと、陸遜は笑い出す。
普段の行動に生活の模様が現れるではありませんかと。
無意識で発していた言葉には、現代の親しみを込めて呼ぶ雰囲気がある。
陸遜はそれを言っているのだろう。
「もし、誰かに言われたのなら、それは公の場でのことでしょう。それでも注意には程遠い・・・・」
「私は此方にお世話になっている身ですから」
「またまた、堅い事を言う」
その言いように、先ほどから横で見ていた呂蒙は肩を揺らしている。
陸遜は楽しんでいるのだ。
歳の近い娘が懸命に立ち回っているのを。
「だ・・・・だからっ、公の場で間違えちゃいけないから今練習してるんでしょう!」
「ぷっ・・・・くくっ」
「笑わないで下さいっ陸遜さん!・・・あわっ!!」
感情的になって出た言葉はもっと始末が悪く、”さん”付けで呼んでしまう。
こうなると収集がつかない。
慌てて弁解するが、更に自身をv暴露する結果となった。
「ああっ、すみませんっ」
「良いですよ。別に”さん”でも」
「えっと、私の国には字なんて無くて愛称ぐらいだから・・・個人に3つも呼び方があるなんて・・・・・」
「ほう・・・・字が無いのですか?」
「あ・・・・・」
結城は突如現れた周瑜を見た。
ここは長江の支流の一つ。
軍師が共も付けずに出歩くには些か無防備すぎる場所である。
といっても、呉の水軍の軍事力と名武将達の士気力に自信を持っているのだろう。
周瑜は結城に近づき、後退りするその腰に手をかけて引き寄せる。
手を突っぱねて嫌がる力は、あまりにもか弱く周瑜の腕の中にすっぽりと収まってしまった。
「周公瑾殿、やめてくださいっ」
「名の・・・・呼び方を変えられたか。貴女にならば、瑜と呼んでもらいたいものだ」
「冗談はやめ・・・」
― な・・・何、あれは? ―
対岸の一点を見つめて動かなくなった結城の視線を周瑜達がどうしたのかと追う。
「伯言、ユウ殿を連れて逃げよ!」
「あっ・・・」
「ここは公瑾様がお逃げ下さいっ」
周瑜は結城を陸遜の方へ突き飛ばす。
呂蒙と陸遜は同時に叫んだが、周瑜は剣を抜いて構えていた。
峻烈な殺気と捕獲者の気が対峙する。
周瑜と呂蒙から出た殺気は、対岸の虎に伝わったようだ。
隙を伺っていた様子が、警戒する態勢に変わっている。
「ユウ殿、今は大事・・・・許してくださいね」
そう言うと、陸遜は結城を肩に担いで一歩一歩後退していった。
虎に後ろを見せるのは死を意味する。
しかし、虎は離れていく結城を目で追った。
どうやら捕獲対象は結城のようだ。
ゾクリ・・・と背筋が凍て付くような感覚を覚える。
虎と視線が合い、逆さまになった視界で狙われる心当たりを必死で考える。
― まさか・・・・ ―
辿り着いた結論は絶望的で、結城は咄嗟に叫んでいた。
「陸遜殿、私を置いて逃げて!」
「何を言うのですかっ!」
「虎は・・・・私を狙っている!」
「諦めてはいけない」
陸遜が視線を合わせようと対岸を見た時、ザブンという水音を立てて虎は川に入った。
それが合図なのか周瑜と呂蒙が陸遜の方へ走り出す。
彼らも気が付いていたようだ。
ここから城まで目と鼻の先なのだ。
陸遜も走りながら周囲を気にする。
川を渡った虎は身震いすると、ギラギラさせた目を四人の方へ向け走り出した。
後方から迫る虎に周瑜と呂蒙は剣で威嚇する。
間合いを詰める虎に対して、これ以上背を向けて走るのは危険極まりない。
陸遜は結城を下ろして剣を抜いた。
跳躍した虎は三人の前に爪を立て牙をむき出して低く唸る。
虎が身を躍らせた瞬間、呂蒙の剣がその脇腹を掠める。
周瑜は右手で剣を構えて、竹を掴むと横倒してそれを手放す。
撓った竹が弧を描くように空を描いて虎を襲う。
飛来した匂いの無い敵に、虎はその前足を立ててなぎ払おうとする。
周瑜は竹が払われた瞬間に狙いを定めて剣を振り下ろした。
袈裟懸けに切りつけた剣が見事虎に致命傷を与えた。
すかさず、陸遜と呂蒙が留めを刺す。
「・・・・・」
「怪我は無いか?」
「あ、血がっ、周瑜様、血がっ!」
我に返った結城は、声をかけた周瑜にしがみ付いて赤くなった衣を見て震える。
泣きながら心配する結城。
周瑜は満面の笑みでその体を抱き寄せた。
「此れは返り血だ。私の身を案じてくれるとは・・・・・」
「・・・かえり・・・血?」
「虎は初めてであったか・・・・」
「驚かれたようですね。公瑾様、急がないと血の香が獣を呼んでしまいます」
虎から剣を抜き、陸遜は遠くを見つめる。
血のにおいは命取りになるのだ。
「城に帰って湯浴みをせねばなりませんな」
「では急ぐぞ」
周瑜は結城を抱えたまま走り出した。
大きな門をくぐり、城へ向かう。
城下町の船着場の方から数人の衛兵が武将と共に走ってきた。
町の者は遠巻きに周瑜達を見ては、心配そうに窺っている。
無理も無い、結城以外の三人は揃いも揃って血だらけの格好なのだから。
如何に美丈夫達といえども、血を纏っていては些か興ざめであろう。
特に、周瑜が片手で抱き上げている結城は女と見紛うほど可憐に映させた。
「周軍師、如何なされましたか!」
「おお、子義か・・・・大事無い。これは虎の返り血よ」
「虎を仕留められましたか・・・・無茶をなさる」
「ふん、子義が居たならば一人で仕留めたであろうが」
それほどに強いのか、目の前の偉丈夫は周瑜とは違った美しさを持った男だった。
陸遜が太史慈殿です。ああ、字が子義と仰るんですよと、結城に耳打ちする。
「あ、あの」
「どうした?」
「歩けます」
「くくっ、どおやら恥ずかしくなったか。先ほどまではしがみ付いておったのに」
「・・・・・・おります」
やれやれと結城を下ろすと、周瑜は太史慈と並んで歩き出した。
その背中へ礼を述べようとしたのだが、どおやら機会を逸してしまったらしい。
周瑜邸に着くと出迎えた小喬が、あっと声を出して倒れた。
当り前だろう、自分の亭主が血まみれで帰ってきたのだから。
気にする風もなく、女官に小喬を預けると周瑜達は湯殿へ行く。
しばらくして、血染めになった結城の衣を見て、孔明と魯粛はどうしたのかと聞く。
どこから話して良いのか考えあぐねていると、湯殿から上がった周瑜が話し出した。
「虎に襲われ、退治したまで。ユウ殿、私の返り血が着いてしまったようだ。貴方も湯殿へ参られよ。」
「え・・・」
「勝手が判らぬのならば、私付きの女官と侍女を付けよう。」
何処からともなく現れた女官は、よく見知った顔だった。
案内されるままに湯殿で衣を脱ぐ。
湯を頭からかぶってその温かさを感じ入る。
後ろに束ねた髪にも、錆びた臭いが付いているのか湯気と共に鼻に届く。
「湯にもおつかり下さい。御髪は此方の物で・・・・」
石鹸の原形だろう、女官は侍女に言って結城の世話をさせた。
裸を見られるのは抵抗があったが、使い勝手が判らないのでは仕方が無い。
髪と体を洗われ湯へ誘われる。
温かい湯が、この時代に来たことを忘れ去らせてくれるような気がした。
呉の周瑜邸へ戻ったのには訳があった。
矢と食料の件が終っただけで、肝腎なことは何一つ先に進んでいないのだから。
孔明が呉を再び訪れたのは、曹操軍と対峙する場所を何処にするかなど、具体的な提案をするためだった。
明日、軍議が行われる。
またもや 心理合戦が始めるのかと思うと、少し不安げに水面を見つめた。
読んで下さって、ありがとうございます。
毎日、一話ずつ投稿できたらと思います。
貴重なお時間を使って頂き、心から感謝します。
誤字脱字に関しては、優しく教えて頂けましたら幸いです。




