ボスルーム
僕は同じ階のハタさんと401号室の前で管理会社の人間を待っていた。ハタさんは犬とドラゴンを連れている。どっちも黒い首輪をしていておそろいだった。二匹とも繋いでなかったが、ちゃんとハタさんのそばにいてよくしつけてあった。
「そろそろ来ますかね」
ハタさんが腕時計を見ながら言った。ドラゴンはすっかりハタさんになついてしまい、ぴゃーぴゃー言いながらそこでおとなしくしている。ケガはもう治っていて、でっかい足でマンションの床を蹴っていた。飽きてきたらしい。犬も同じようでじっとしていたが暇そうに周囲を見回していた。
「あ、来たみたいですよ」
エレベーターのあるあたりから物音がした。どうも401号室からおかしな音がすると僕が申し立てたのが一週間前である。ハタさんは十日ぐらい前にそのことで管理会社に電話を入れたらしい。なので僕達が立会いの下、401号室の確認をすることになったのだった。ちなみに401号室は空き部屋である。ドラゴンと犬が一緒なのはお出かけがばれてしまい、両方とも玄関先で動かなくなってしまったので仕方なく連れてきたのだった。
「どうも、こんにちは」
管理会社の人間がやってきた。二十代半ばといった感じで胸に社員カードを下げている。彼はノノミヤと名乗り、僕とハタさんに挨拶をした後に犬とドラゴンを見てぎょっとした。
「何ですか、それ」
穏やかにハタさんが答える。
「ああ、ドラゴンです。ピースケって言うんですよ。こっちの犬はポンタです」
「あ、はい」
ドラゴンはともかくポンタもかなり大きい犬だった。全体は黒いのだが顔に茶色、胸元に白が入っていてやや毛が長い。ノノミヤさんが尋ねるとハタさんはバーニーズ・マウンテン・ドッグだと答えた。
「このサイズの犬を飼えるところってなかなかなくてねえ。そちらには感謝してますよ」
「あ、ありがとうございます」
ノノミヤさんは犬を話題にしたものの、本当はドラゴンが気になってしょうがないようだった。
「あの、そっちのは……ピースケくんはどうしたんですか」
ああ、とハタさんは笑って言った。名前を呼ばれたドラゴンはノノミヤさんの顔を見た。
「ここで拾ったんです。賢いし思ったよりおとなしいですね」
「はあ」
ここでノノミヤさんは自分がどこにいるのか思い出したらしい。そういうこともありますね、と半ば自分を納得させるように言ってじゃらっと鍵束を取り出した。
「ええと、何かこの部屋から不審な物音がするということで」
「あ、はい」
「そうです」
不審な物音は今も聞こえていた。何というのか、地響きするような轟音である。それが401号室の中から響き渡っているのだった。
「で、ちょっとこのマンション特殊なんで、確認も兼ねて住人であるお二方に来ていただいたわけですけども」
「はい」
「中に入るので一緒に来ていただいてよろしいですか」
「いいですよ」
「はい」
あの、とハタさんが言った。
「犬とドラゴンも一緒でかまいませんか。ちょっとついてきちゃって置いていけないので」
ああ、とノノミヤさんは答えた。
「いいですよ。貸す時にクリーニングかけますからそのまま上がって下さい。お二人も土足でかまいません」
「あ、いいんだ」
ノノミヤさんは401号室の鍵を開けながら言った。
「玄関から直に外じゃないのでそんなに汚れませんし。泥がついてるとちょっと大変ですけどね」
そうしてかちゃっ、とドアを開けた。そして中を見てばたん、と閉めた。
「……どうしたんですか」
もしかしてゴミ屋敷みたいになってて開けたくないのだろうか、などと僕が思った時だった。
「あの」
ノノミヤさんの顔は真っ青になっていた。
「なんか、その、正面に巨大な顔があるんですが」
「え?」
「はい?」
僕とハタさんは同時に言ってしまった。
「この部屋って、真ん中に細い廊下があってその両脇にバストイレやキッチンや個室があるはずなんですが……それが全部なくてその、この401号室全部くらいの巨大な顔があるんです」
僕達は顔を見合わせた。さっきノノミヤさんが言った間取りはこのマンション全体に共通する間取りで、どの部屋も基本的に同じようになっている。ただまったく同じではなくて、たとえば僕の部屋は少し狭くて個室は両側にないし、入ったことはないけどもハタさんの部屋は廊下が短くて正面に大きなリビングがあるらしい。
しかしそれらを全部ぶっとばして巨大な顔が室内にあるというのはやはりただごとではない。どんな顔なんですか、とハタさんが聞いた。
「人の顔です。緑色してて……それが暗い中、ぼうっと宙に浮いてるんです」
ありえない、とノノミヤさんは青い顔をしてつぶやいた。
ホラー映画みたいだったが、そもそもこのマンション自体がありえない状態なので、正直なところ僕達はそんなこともあるのか、と思っただけだった。しばらくしてハタさんが言った。
「じゃ、入りましょう」
「ひえっ?」
ノノミヤさんは呆然とした顔でハタさんを見た。
「顔が浮いてるだけなんですよね? なら大丈夫ですよ。土足でいいんですよね」
あっ、あの、とノノミヤさんがあわてたように言った。
「何があるか分かりませんよ。ぼくは危険だと思うんですけど」
ハタさんは脇に寄ってきたピースケを見た。反対側にはポンタが尻尾を振っていた。
「でもそういうところですからねえ」
ぴゃーとピースケが鳴いた。僕もうなずいた。
「やばかったら帰りましょう」
「そうですね。ノノミヤさんはここで待っていてもいいですよ。我々が見てきますから」
ハタさんが言うとノノミヤさんは少し迷ったようだったが、しばらくして小さい声で「行きます」と言った。
「じゃ行きましょう」
ハタさんはドアを元気よく開けた。犬とドラゴンがその後に続き、僕の後ろにノノミヤさんがおっかなびっくりついてきた。
「うわっ」
ハタさんの声がした。僕もそっちを見た。なるほど、巨大な緑色をした男の顔が真正面に浮かんでいた。後ろからはノノミヤさんの息を呑む音が聞こえる。周囲は暗かったが真っ暗ではなかった。巨大な顔はそれ自体が薄ぼんやりと光っていて、壁や床などの部分にはあやしげな見たこともない植物がびっしり生えているのが見えた。どう見ても僕達の世界の植物ではなさそうだった。
「異世界……」
僕のつぶやきにああ、というノノミヤさんの声が聞こえた。知らずに出てしまったようだった。
そして、しばらくして異変に気づいた。
「……寝てますね」
「ええ」
確かに室内はさっきノノミヤさんが言ったとおりで何もなく、ありえない巨大な顔だけがそこにあった。しかしその顔はヨダレをたらして寝ており、ずっと聞こえていた轟音はいびきの音だった。
「ぴゃー」
「ワンワン」
犬とピースケが鳴いた。だが顔は起きない。ノノミヤさんは僕の後ろから出てきてそうっと寝ている顔を眺めた。
「ここ、どうしましょうか」
「そうですねえ」
「起きないですね」
「そうですねえ」
何の実にもならない会話をして、僕達は顔を起こさないようにそっと401号室を出た。慎重に大きな音を立てないようにしてノノミヤさんが鍵を閉める。そして閉め終わって大きなため息をついた。
「この部屋は貸さないで立入り禁止にします。貼り紙をしておきますので近寄らないで下さい」
「あ、はい」
それだけかと思ったが、現状それぐらいしかできることはなさそうでもあった。続けてノノミヤさんは言った。
「音が止まったらまた教えて下さい」
「来るんですか」
ノノミヤさんは言葉に詰まったようだったが、気丈に答えた。
「……また来て確認します」
「分かりました」
じゃ、とハタさんは僕とノノミヤさんに挨拶をした。
「ちょっとこの子達連れて公園行ってきますよ。飽きちゃってるみたいなんで」
それからポケットからリードを二本取り出し、それぞれに犬とドラゴンを繋いだ。
「行くぞ、ポンタ、ピースケ」
「ぴゃー」
「ワンワン」
どたどたとハタさんと二匹はエレベーターに向かって歩いていった。ノノミヤさんはぼーっとした顔でその場でそれを見送っていて、僕はじゃあ失礼します、と挨拶をして自分の部屋に戻った。