防火槽の主
さっき現れた長毛の白猫は伸びをして、悠々と目の前のアスファルトを歩いていた。赤い首輪をしているので誰かの飼い猫らしい。僕はベランダに干した布団の後ろ側からその猫を眺めていた。
「ミミちゃん待ちなさい」
猫の後ろから今度はキャリーケースを持ったおばさんが登場した。六十ちょいくらいだろうか、見たことのない顔だ。そのおばさんは逃げていく猫を追いかけて僕のすぐ目の前を走っていった。しかし息切れしてそこで止まってしまう。
「ちょっとアナタ」
「はい?」
不意におばさんは振り返ってベランダから外を見ていた僕に声をかけた。猫はとっくに逃げてしまいどこにもいなかった。
「若いんだから手伝って。ひまでしょ」
「え?」
「ほら、早く」
「あ、はい」
なんとなくおばさんに押されて、僕は部屋から出てきてしまった。悪いわね、とおばさんはキャリーケースを提げたまま言った。
「三階に越してきたエンドウって言うんだけど、片付けしてたらうっかりして逃げちゃったのよ。ちょっと手伝って」
本当に悪いと思っているのか疑問に思いながら、僕はまあいいですよ、と言った。ひまなことはひまだったからだ。
「なんでここに越してきたんですか」
エンドウさんは答えた。
「ペット可だしここ安かったのよ。まわりが大変だけどいいですかって言われたけど。でもまあ、スライムくらいならどうってことないし」
「あれ平気ですか」
「ええ、実家のあたりはイノシシやサルが出るから。この辺は雪も降らないし、あれに比べたらたいしたことないわ」
強者の発言である。感心しながら僕はエンドウさんと連れ立って、猫が逃げていったマンションの植え込み付近に歩いていった。ガサガサいう音がする。ちらっと白い体も見えた。さらに奥に進むと例の防火水槽がある。そこに行き着く前に捕まえたかった。防火水槽のあたりはじめじめしていてあまり行きたくないからである。
「ミミちゃんおいでー」
エンドウさんはキャリーケースの前を開け、そこでねこじゃらしを振った。長毛の白猫はやぶから少しだけ顔を出し、すぐどこかへ行ってしまった。ペルシャ猫だった。
「だめか」
猫が奥に行ってしまったので僕達も植え込みに入り、やぶを漕ぐ。前方にいた白猫が立ち止まってこっちを見る。すかさずエンドウさんは細長いチューブパックに入ったおやつを取り出した。
「ミミちゃんおやつよー」
これには反応があった。少し考えた後に白猫はたたた、と駆け寄ってきてそのチューブパックのにおいを嗅いだ。
「ほらどうぞ」
エンドウさんはパックの封を切り、キャリーケースの奥に突っ込んだ。猫がつられて中に入る。パタンとキャリーケースのふたを閉じ、エンドウさんはふう、とため息をついた。
「よかった」
猫は中でチューブパックと格闘している。せっかくの白い毛がべたべたになりそうだったが逃げられてしまうよりはましだろう。僕はエンドウさんは一安心ですね、などど言い、ふと目のはしに動くものに気がついた。
「あれ?」
猫がいたあたりに何か見慣れない動物がいた。形は大きいイタチみたいでタヌキみたいな毛が生えている。大きさは猫ぐらいだった。
「ハクビシンね」
エンドウさんが言った。言われてみれば顔に白い線が入っている。ハクビシンはこっちを見て防火水槽があるほうに向かって走っていった。その時だった。マンションの壁から何かはがれてハクビシンの上に落ちてきた。スライムである。ハクビシンは避けたが尻尾がひっかかり、尻尾の上にスライムを乗っける格好になった。スライムをくっつけたまま、ハクビシンは走ってさらに奥に逃げる。
と、今度は壁からべろんと大きなピンク色の物体が伸びてきてハクビシンとスライムを巻き込み、壁に戻っていった。同時に本体が動いたのでその輪郭が見え、その本体が防火水槽に住み着いているカエルに似た謎の巨大生物であることが分かった。ピンク色の部分は舌だ。
「なにあれ」
エンドウさんはキャリーケースを持ったまま巨大生物を見つめていた。僕もちゃんと見たのは初めてだったが、なんというか、ぺったんこに潰したまんじゅうにカエルの目と口がついているような生物だった。肌もカエルのように濡れていてしかも大きい。おそらく軽自動車くらいはあるのではないだろうか。手足はあるのかどうか分からなかった。それがマンションの壁そっくりに擬態して少し高い中途半端な位置に張り付いていて、こう言ってはなんだが見ていてあまり気持ちのいいものではなかった。
すると今度はその巨大生物の口が開いてぺっと何か吐き出した。さっき捕らえたハクビシンだった。ハクビシンは全身ベタベタだったが生きていて、ぶるっと体を震わせると一目散に逃げていった。
「あれ、この辺にいるんですよ」
僕は我に返ってエンドウさんにこの場所を出るように促した。どっちにしろあまり長居したい場所ではない。
「スライムシューターから流れてきたスライムを食べてるんです。今の感じだとスライムしか食べないみたいですね」
「一匹だけかしら」
「たぶん」
あんなのが何匹もいたらたまったものではない。
「あそこから出てこないの?」
僕達はもう植え込みを出てアスファルトの舗装の上を歩いていた。キャリーケースの猫が時々にゃーにゃー言う。
「ほかでは見ませんね。雨の日は出てくることもあるようですけど、この辺の木のあるところにしか出ないです。湿ってないと駄目みたいで。僕は防火水槽の中にいると思ってたんですけど、普通に外に出てるんですね。知らなかった」
「へえー。まあいいわ。あんなところ行かないし」
「あの、嫌じゃないんですか」
正直かなり気色悪かった。なのでこう僕が聞くとエンドウさんは別に、と言った。
「スライムしか食べないんでしょ。なら問題ないじゃない。猫は外へ出さないから大丈夫よ」
「……それならいいんですけど。ああいうの全然平気なんですね」
ちょっと意外そうな顔をしてエンドウさんは僕を見た。
「マチの子ねー。あんなので怖がってたら山には入れないわよ」
「そうなんですか……」
エンドウさんはどこまでも強者だった。それからキャリーケースの中を覗き込み、危ないんだからお外に出ちゃだめよ、と言った。キャリーケースからにゃーという返事が聞こえる。
「手伝ってもらって悪かったわね。ありがとう」
「いえいえ」
マンションの階段を一緒に上がり、僕は二階で別れた。エンドウさんはじゃーね、と言って階段を上っていった。