偽物と罵られた聖女は水の精霊に抱きしめられて雨を降らせる
「お前のような役立たずは、この国から直ちに去るがよい!」
玉座から放たれた王の恫喝は、アンナの体を震わせた。
「我が民を苦しめた罰として盛大な処刑を行うべきだが、占いでは偽の聖女の命を天へ捧げるのではなく、真の聖女を据えることで恵みの雨がもたらされると出たのだ。占いに感謝することだな」
いつの間にか、王の隣には、妖艶な笑みを浮かべた女性が立っている。
その装いはアンナと全く同じ。つまり、聖女という役目を与えられていた。
「貴様は偽物。真の聖女は、このマリーサだったのだ!」
俯いたまま、ひたすらアンナは堪えた。
王の罵声はその後も続いたが、ひとしきり憎悪を吐き出して満足したのか「もういい。早く出て行け!」という命によりアンナは両腕を近衛兵に捕まれて、文字通り城外へと放り出された。
砂埃にまみれた城の外観はくすみ、やけにぎらつく陽の光がその色を奪っている。
「……」
茫然としていたアンナだったがはっと我に返ると、勢いよく首を左右に振った。
(いつかこんな日が来るとは思っていたけれど、実際に起きると、何もできないものね)
聖女アンナ。
青空を写しとったような瞳は、天候を操る聖女だという啓示の証明だ。
編み込んで後頭部にまとめていた淡い金髪を解くと、髪を留めていた髪飾りを両手でぎゅっと握りしめる。
金色のそれは神へ祈るための魔導具で、アンナにしか扱うことのできないものである。
「……雨よ、降れ」
しかし、空に変化は起きない。
「雨よ降れ!」
今度は声を張る。しかし、何も起きない。
アンナに異変が起きたのは一月ほど前のことだった。祈っても祈っても、天候を変えられなくなったのである。一切雨が降らなくなり、大地は乾き、民は飢えはじめた。
何度も何度も祈ったが、アンナは死にゆく国に対して何もできなかった。
無力な己を呪えば涙こそ出るものの、アンナを嘲笑うかのように、空には雲ひとつ現れない。
「……ごめんなさい。ごめんなさい……」
「しかたのないことです。貴女は何も悪くありません」
「えっ?」
アンナは顔を上げた。
すると目の前には中性的な顔立ちをした、長身痩躯の男性が立っていた。艶のある長い白髪をひとつに束ね、同じような色合いのローブを身にまとっている。足は、裸足だった。
「貴女の手にしている髪飾りは、偽物です。聖女の魔力と反応して神と会話できる本物の魔導具は、あの男がすり替えて奪ったのですから」
「えっ? えっ?」
突然のことに理解が追いつかない。
アンナが口をぱくぱくさせていると、男性は思いついたかのように言った。
「あぁ、私は通りすがりの水の精霊です」
「……水の、精霊?」
男性が口角を僅かに上げた。
アンナがよくよく彼を観察すると、瞳は人のものならざる朱色。両頬には紅の代わりに、鱗のような入れ墨が施されている。
「私は各地を旅して清らかな水を探している旅精霊です。つい先日、この地に辿り着きました。ところが、美しく豊かな水があったというのに、日増しに大地が渇いていくではありませんか。水自体の質は非常にいいのに、何かがおかしい。興味本位で調べていくうちに、国王と名乗る人間が、聖女の媒介をこっそり盗んでいた。何とあさましい!」
まるで役者のように大げさに、水の精霊は両手を掲げた。
「待って。あなたの言葉が事実だとして、どうして国王さまがそんなことをしたのかしら」
「私には人間の考えなんて分かりませんし、知りません。そうですね。私の発言が真実であることを証明しましょう」
きゃっ、とアンナは小さく悲鳴を上げた。
突然水の精霊がアンナを抱きしめてきたのだ。温もりはない。しかし、人間と同じ質感はある。
アンナの耳元で水の精霊が囁いた。
「私を媒介として、天へ語りかけてください。雨よ降れ、と」
(く、くすぐったい)
吹きかけられた吐息にアンナの耳があかく染まる。
この状態から早く解放されるためにも、アンナは水の精霊に従った。
「雨よ降れ」
――次の瞬間、言葉が光の粒子となった。
光は空へと昇り――
ぽつり。
地面を、濡らした。
ぽつ、ぽつ。
久しぶりにもたらされた恵み。
「ほ、本当に雨が……」
アンナが空を見上げると、水の精霊はぱっとアンナから体を離した。
「ほら、言った通りでしょう?」
「だけど、もしかしたらマリーサ……国王さまが真の聖女だと宣言した、あの方の力かもしれないし……」
少なくとも、アンナを追放してすぐに雨が降ったことで、国王は確信したに違いない。
しかしそんなアンナの不安を払拭するかのように、水の精霊は片目を瞑ってみせた。
「では、私と一緒にこんなところから出てしまいましょう。そして私の望む場所に、望むように雨を降らせてください」
水の精霊がアンナへ向かって左手を差し伸べてきた。
(断ったとしても、行くあてなんてないし……)
「分かったわ。わたしをどこへでも連れていってちょうだい。だからまず、あなたの名前を教えて?」
「これは失礼いたしました。私の名はアクキューアといいます」
「わたしはアンナよ。よろしくね、アクキューア」
アンナは、アクキューアの手を取った。
*
*
*
アクキューアは言葉通り、世界を旅しながら美しい水を求める精霊だった。
ふたりがまず訪れたのは濁った湖のほとり。
異臭が鼻をつき、アンナは顔をしかめた。
しかし嗅覚がないのかアクキューアは涼しい顔を崩さない。
「この湖には、危険な気体が発生しています。美しい雨を降らせることで浄化して、魚や他の生き物が住めるようにしたいのです」
「どうすればいいの?」
「簡単です。最初にしたように、貴女が祈るだけで、この地には雨が降りますから」
ぎゅ、とアクキューアがアンナを抱きしめる。
背の高いアクキューアの両腕のなかに、アンナはすっぽりと収まってしまった。
(これ、毎回やるの……? 慣れない! ううん、慣れるのもそれはそれでこわい!)
どきどきどきどき、ばくばくばくばく。
心臓は早鐘を打つ。というか、心臓が今にも口から飛び出そうだ。
異性に対する免疫などない。
いや、水の精霊なので正確に言えば性別はないかもしれない。
(深呼吸、深呼吸……)
なんとか、動揺は隠す。
聖女たるもの感情を表に出してはいけないと教えられてきた。これはアンナのなけなしのプライドによるものだった。
「雨よ降れ」
効果はてきめんだった。
あっという間に青空は雲に覆われて、ぽつりぽつり、ざーざーと降り出す雨。
……。
雨が止む頃には、水面は澄んで輝いていた。嫌な臭いも嘘のように消え失せている。
「貴女は、濁った水を澄んだものに変える力も持っています」
アクキューアがアンナから離れる。
驚くアンナの横に立ち、水の精霊は尋ねた。
「貴女自身が信じることができそうですか? その力を」
アンナはアクキューアを見上げた。
彼は、初対面で見せた、皮肉めいたものとは違う穏やかな笑みを浮かべていた。
*
*
*
それからふたりは、様々な場所で雨を降らせた。
人々は言う。偽物の聖女を追放した後、何故だか王都以外では雨が降るようになった、と。
やがて、川や湖に生き物が戻ってくる。
どんどん、小さな村に作物が実る。
空気が、澄んでいく。
一方、アクキューアはアンナと旅することで、人間のふりをしなければならない場面が増えた。
食事は人間と同じものを取る。
宿に泊まるときは別々の部屋。
周りに誰かがいるときは、精霊の力を使わない。
人前でアンナのことを抱きしめない。
それらがふたりで決めたルール。
裸足だと目立つので、アンナはアクキューアへ靴を買った。
髪色に似合う白い革靴で、編み上げ紐の結び方は覚えるまで何回も教えた。
ある日、ふたりが食堂で向かい合って座っていたときのこと。
「何を見ているんですか」
「いえ、あなたって意外と、好き嫌いが多いなって思っていたの」
アクキューアの器の上には、見事に色の濃い野菜だけが残されている。
「……味が濃すぎるんです」
アクキューアは眉間に皺を寄せた。
元々、人間の食べ物を口にする習慣はなかったらしい。
水の精霊は水さえあれば永遠に生きていられるのだ。
人間とは違う。こんなとき、アンナはアクキューアが自分と違うことを実感する。
「そういうことにしておくわ」
この精霊は時々子どもっぽい。ふてくされてしまわないように、アンナは追及するのをやめた。
「だけど、食べる仕草は、国王さまよりきれいね」
するとアクキューアは虚を衝かれたように朱色の瞳を見開いた。
瞳孔が縦に開くので、人間より爬虫類に近い存在なのかもしれない、とアンナは思う。
「貴女は時々、おかしなことを言いますね」
「おかしなことなら、アクキューアには敵わないわ」
ふたりは顔を見合わせて、同じタイミングでぷっと吹き出した。
*
*
*
痩せた畑の前に、アンナとアクキューアは立っていた。
「よろしくお願いします、アンナ」
アクキューアがいつものようにアンナを抱きしめてくる。
そのとき、初めてアンナは両腕をアクキューアの背に回した。
深い意味はない。
つもり、だった。
「……っ!?」
ところが驚いて体を離したのは、アクキューアの方だった。
「ごめんなさい。だめだった?」
「い、いえ。まさか抱きしめ返されるとは思いませんでした……これはこれで」
アクキューアがアンナから視線を逸らす。
「悪くは、ないですね」
「そうでしょう?」
この頃には、抱きしめられることにアンナも緊張しなくなっていた。
アクキューアはもう一度、アンナを抱きしめた。
今度はアンナの両腕が背に回っても驚かない。
アンナはアクキューアの胸板に顔を埋めながら、一気にまくしたてた。
「どきどきして慣れないけれど、ずっとこうしていたいって思うようになったの。また変なことを言っていると思う?」
「いいえ」
一呼吸おいて、アクキューアは続ける。
「私も、ずっと貴女のことを抱きしめていたいと思うようになりました。貴女がおかしいなら、私の方がもっとずっと、おかしいことをのたまっています」
しばらくの間、ふたりは無言でいた。
メロディーを奏でるのは静かな雨だけ。
やがて、アンナはぽつりと零した。
「わたしの生まれ育った村は国の外れにあって、家はとても貧しかった。思い返せば、聖女として王都へ連れて行かれるまで、両親から抱きしめられたことは一度もなかった……」
聖女となったことで、実家にはたくさんの報奨金が送られたはずだ。
その後のことは知らない。
連絡は禁止されていたし、破ってまで、現在のことなんて知りたくなかった。
それでも。
「きっと、わたしから抱きしめてみればよかったのよね」
ふたりが出逢ってから数年が経っていた。
その間に、国王は謀反に遭って失脚し、偽の聖女は処刑されていた。
この国は新たな賢王が統治するようになっていた。
人々の間に新たな噂が流れ出す。
真の聖女が国じゅうをまわって、水を清らかなものに変えているのだと。
アンナの頬を、彼女の雨が濡らす。
「……アンナ」
アクキューアは体をほんの少し屈めて、アンナの頬へ、その涙へと口づけた。
弾かれるようにアンナは顔を上げる。
アクキューアの朱色の瞳にアンナが映っている。
今度は躊躇うことなく、ふたりの唇が重なった。
いつしか、ふたりは宿でも同じ部屋に泊まるようになっていた。
*
*
*
賢王の子が新たに玉座につく頃、王国は農業国として豊かになっていた。
アンナとアクキューアが訪れたのは辺境の小さな村だった。
ゆっくりとした足取りで、しかし迷うことなく、アンナは一軒の家へと向かった。
とうの昔に主を失った家。
屋根は半分なく、煉瓦が崩れ、蜘蛛の巣が張り巡らされている。
曲がった腰をさすりながら、アンナは隅に落ちていた木の人形を拾い上げた。
「捨てられていなかったのね……」
しわがれた声はどこか潤んでいる。
咳き込むアンナの背をアクキューアがさする。
そして、辛うじて足の残っていた椅子に座らせた。
「アンナの家族もきっと、アンナを想って生きていたんだろう」
「ふふ。そうだとしたら嬉しいわ」
アンナはアクキューアへ微笑みかけた。
アンナの微笑みは水の精霊と出逢った頃から変わらないが、アクキューアの美しさは、髪の一本すら衰えていない。
皺だらけになった手で人形を撫でるアンナ。
アクキューアは眉尻を下げて、アンナを後ろから椅子ごと抱きしめた。
そして、彼女の首に己の顔を埋める。
アンナは膝の上に人形を置くと、アクキューアの両腕に己の手をそっと重ねた。
「ただの人間に戻ったわたしに、ついてきてくれてありがとう」
聖女はとうに代替わりしていて、アンナにはもう、天候を変える力はなかった。
「私は私の望む場所へ行きたいだけです。それがたまたまあなたの望む場所と重なっただけ」
「もう。意地っ張りな水の精霊さんね」
「何とでも言いなさい」
「そうねぇ」
アンナは何かを思い出すかのように、青い瞳を細めた。
「わたしを助けてくれてありがとう。誇りを取り戻してくれてありがとう。色んなところへ連れていってくれて、ありがとう。それから……」
あいしてる、とアンナの唇が動いたが、音にはならなかった。
ぱたり。手から力が抜けて宙に落ちる。
「……アンナ?」
アクキューアはアンナから離れて、俯いたままのアンナを覗き込む。
その満足そうな表情が意味するところを悟り、アクキューアはすっと背筋を伸ばして立った。
それから、雲ひとつない空を見上げる。
「本当に、人間というのは不可解な存在ですよ」
憎々しげに。
青い空を、睨みつける。
「雨よ、降れ」
何も起こらない。水の精霊に、天候を操る力はない。
「雨よ降れ!!」
どれだけの時間、澄みわたる青空を見上げていたのだろうか。
ぽたりと地面を濡らすのは、何百年も生きている水の精霊が初めて流した涙。
アクキューアははっと何かに気づいたように、唇を震わせた。
「あぁ。貴女の瞳と、同じ色だったのですね」
最後まで読んでくださってありがとうございました。
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