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自暴

 香ばしいにおいが鼻腔をくすぐる。悪夢のような日々を忘れたまま、穏やかな気分でレッドは目を覚ました。

 視界に映るのは白い天井。首を動かせば本棚と書物、テーブル、椅子、父と母の肖像画、妹が遠征先で買ってきた陶器の小熊。

 見慣れた自分の部屋だった。

 レッドは夢でも見ていたのかと思ったが、下腹部に走る疼痛で現実に引き戻される。首に手を伸ばせば、そこには革の首輪がされたままだった。

(そういえば、僕の家を住処にすると言ってたな……)

 気を失う前の出来事を思い出す。思い出して、死にたくなった。もはや自分は、この家から一歩も外に出られそうにない。

「ん、起きたッスか」

 どんよりとした気分でいたところ、左から声がかかる。白いエプロンをつけたバストがドアの前に立っていた。エプロンは小さく、腹の辺りまでしか裾がない。

「そんなエプロン、この家にはなかったと思うが……」

「買ってきたッスよ。もちろん、お金は使わせてもらったッス。レッドさん、めっちゃ金持ちッスね」

「……………………」

「んんー? 怒ってるッスか?」

「違う、驚いてるんだ。お前が律儀に物を購入していることに」

「別に、自分で稼いだお金じゃないッスからね。ていうか、まだ口の利き方がわからないんスか?」

「もういい、好きにしろ」

 レッドは両手を広げ、ベッドに体重を預ける。

「僕は何もかも失った。魔導騎士として築き上げた地位も、矜持も、人々からの信頼も。何もかもだ。もう生きてたって甲斐がない」

「何ヤケになってるんスか。アタシの奴隷になれるんだから、それだけで儲け物ッスよ」

「寝言は寝て言うんだな、ブタ」

「あれだけタマタマいじめてあげたのに、そんな態度取れるなんてすごいッスね」

 バストが近づいてくる。また睾丸を指で弾かれるかもしれない。それどころか、蹴り潰されるかもしれない。

 怖かった。全身の震えを抑えることができない。しかし、絶対に悲鳴はあげないつもりだった。あげてなるものか。

 目をつぶり歯を食い縛るレッドだったけれど、急に手を引かれる。

「ご飯作ったから、食べるッスよ」

 降ってきたのは優しい声色だった。

「……どういう風の吹き回しだ?」

 これまでにバストに餌として与えられたものといえば、山菜に小動物や魚、はてに昆虫である。火で焼いただけの簡素な食事で、何とも味気ないものだった。

「いいからほら。来るッスよ」

 手を引かれるまま、隣室へと向かう。

 テーブルの上にはホカホカと湯気をあげるシチューに、ライ麦パン、スライスされたチーズ、ミルクが置かれていた。パンやチーズは出来合いのものだろうけれど、シチューは一から作ったようだった。

「……どういう風の吹き回しだ」

 先ほどと同じセリフを、レッドは口にする。

「料理の支度なんて、それこそ奴隷の仕事だろう」

「それ、自分が奴隷って認めるってことスか?」

「自分の分だけならともかく、どうして僕の分まで用意する?」

「こう見えてアタシ、料理が趣味なんスよ」

 エッヘンと胸を張り、いまいち質問の答えになっていないことをバストは教えてくれる。

「……どこで覚えたんだ?」

「一年くらい前ッスかね?」

「僕はどこで覚えたのか聞いてるんだ」

「アタシのおばあちゃんッスよ」

「だから、場所を……。おばあちゃん? お前のおばあちゃんも、知性あるオークだったのか?」

「違うッスよ。人間のおばあちゃんッス。本当のおばあちゃんじゃないッス」

「お前、人間と暮らしていたのか? それで言葉を……?」

「んー、そういうわけじゃないと、思うッスけど……? とにかくアタシはおばあちゃんに料理を教わったから、料理が大好きなんッス」

「そのおばあちゃんとは、どこで暮らしてたんだ?」

「なんでそんないろいろ、聞いてくるんスか?」

「純粋な興味だ」

 実際は違う。話を聞くことで、どうしてバストが人の言葉を理解するのか、その理由を突き止めることができるかもしれないからだ。それだけでなく、魔法が効かない理由についても。

「ま、食べながら話すッスよ。せっかくのご飯が冷めちゃうッス」

 促されるまま、レッドは着席する。どうしてバストが己の分まで料理を用意したのか……。

まさか、毒が入っているわけではないだろう。そもそもレッドを圧倒しているバストには、毒を用いる必要がない。

 だとすれば、単純に食べてほしいからか。料理が好きであるのならば、奴隷相手でも振る舞いたくなるのかもしれない。

 何はともあれ、まともな食事にありつけるのは久々だった。バストの気が変わらないうちに、胃に収めておいた方がいいだろう。

 向かい合って座ったところ、バストは自身の分には手をつけず、じーっとレッドのことを見つめてくる。

「食べないのか?」

 尋ねたところ、「先に君に食べてほしいッス」という言葉が返ってくる。

 何だか観察されているようで居心地が悪かったけれど、木製のスプーンでシチューをすくって口に運んだ。クリーミーな味わいが舌全体に広がっていく。具材にもしっかり熱が通っており、素直においしいと思える味だった。

「これは、うまいな……! こんなにうまいシチュー、食べたことがない。ほっぺが落ちてしまいそうだ」

 いささか大げさすぎる感想を口にする。先ほどはヤケを起こしたものの、決してバストからの解放を諦めたわけではなかった。おだてられる時におだてておいて、損はないだろう。

「そんなにうまいッスか? ブヒ、ブヒヒヒ、頑張った甲斐あったッス……!」

 途端にバストは顔をほころばせる。やはり純粋に、自身の料理を食べてほしかっただけのようだ。

「味付けが絶妙だ。これほどの味を出すには、相当の修行が必要だろう」

「やだなぁ……。そんなことないッスよ」

「この牛肉も軟らかくて、うまいな」

「それ、豚肉ッスよ」

「……そうか」

 オークは決してブタ人間というわけではないのだけれど、何だか釈然としないものをレッドは感じた。

 レッドが食べるのを見届けたからだろう、バストも食事に手をつけ始める。料理の量は、バストの方がレッドよりも多かった。シチューは深皿ではなく、鍋ごと置かれている。

 これまでの日々でわかっているけれども、バストは巨体に見合った大食いだった。たとえ常人の十倍以上の量であろうとも、ペロリと平らげてしまうに違いない。

(……悔しいけれど、本当にうまいな)

 恐らくバストは、食べることそのものが好きなのだろう。その結果として、料理に熱意をそそぐようになったのだと考えられる。

 これならば奴隷としてコキ使われたとしても、料理を作らされることはないと思った直後……レッドは悲劇に見舞われる。

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