6、残された命2
目の前に立っていたのは、キドより少し年下くらいの可愛らしい少女でした。村では見たこともない艶やかな着物を着ています。そして両腕には、あの金色の鹿の毛皮が抱えられていました。キドの胸の内から不安が声をあげました。
「おまえさん、どこでその毛皮を手に入れたんじゃ」
「これは遠く山中に倒れていたご老人から頂いたのです。その方は熊に襲われて深い傷を負っておられました。私にこれを手渡すと、息を引き取ってしまわれたのです」
「山中とは」
「わかりませぬ。私とて、どこを歩いていたのやらわからないのです」
少女はおどおどした目を向けながら答えました。
キドは息を詰め、毛皮を見つめました。
「なぜだ。たとえ、寝ぐら持たずの荒くれ熊だって、あんただったら上手くやりすごせたはずだ」
心に、愛おしむように弓をさする老人の姿が蘇りました。寒さに震える自分をさすってくれた手の温もりが、今さらながらに熱く体を包みました。
見上げた先に掛かっている弓が、涙の中で薄く光って揺れていました。
「サッダ、あんたはこのことを予見していたのか。それでわしに狩人の命を残していってくれたのか」
小さくつぶやきました。視線の下には、虚しくも美しい毛皮が輝いています。それはまるで魂の抜けたサッダの亡骸のように見えました。
キドは涙を拭いながら少女に言いました。
「中にお入り。外は寒すぎる」
壁に掛け直した毛皮に、ひとしきり手を合わせたキドは、やがて囲炉裏の端に戻り、ぼそりと聞きました。
「おまえさんは、どうしてこんな深山に一人でいるのだ」
少女は温もった体を伸ばすこともなく、膝を抱えながら答えました。
「覚えははっきりとしないのです。私は母と共に誰かに追われていたようです。ですが、いつの時やら母はおらず。あてどなく山を歩いていて、あのご老人に会ったのです。この懐かしいような毛皮を渡された私は、何かに導かれるように歩きました。気が付くと、この小屋の前に立っていたのです」
「昨日、谷を挟んだ向こう山で笛の音がしていた。もしや、そのことに関わりがあるのか」
少女は知らないとばかりに首を振り、汚れのない瞳を伏せて囲炉裏の炎を見つめました。
『ああ!』
キドは一瞬、息を飲みました。
少女の姿に、親を亡くした子鹿を見たような気がしたのです。慌てて目をしばたけば、美しい着物の袖に縫い込まれたどこぞの家の紋が見えました。きっと由緒ある家の娘なのでしょう。無論、あの鹿ではないのです。
「わしらは皆一人ぼっち。どうかあの子鹿も、冬の息に凍えることのないように」
悲しみを他の者への慈しみによって癒すように、キドは心に焼き付けられた美しい獣に、温もりよ届けとばかりに祈りました。
次の日を迎えても、キドは村には帰りませんでした。帰ったところで頼る家があるわけではなく、少女を連れていくわけにもいかなかったからです。もしや村には、少女の追っ手が待ち構えているかも知れず、このまま山小屋に残るしかなかったのです。
「なにせ、わしら童二人だけのこと、辛い日ごととなろう」
小屋の板壁を透かす朝日の淡い光の中、キドは一睡もしていない様子の少女に言いました。
厳しい季節は始まったばかりです。暗い谷底に転がり落ちていくような不安が、胸の内にありました。大小二つの弓をしっかりと握りながらキドは続けました。
「だが、いつかは迎える一人立ちの日。早まったとはいえ、この日のために、サッダは狩りをする者の生き方を、痩せた背を通して教えてくれていた。それにわしは苦しさの中でも光を見るように、キドと名付けられたと聞く。力はまだ足りない。けど、生きて歩むことは必ずできる」
「行くあてのないこの身です。どうぞ一緒に」
静かに頷いた少女の細い体からは、美しい着物とは相容れない、森の獣たちに似たしなやかさが漂っていました。
「ああ、よろしく頼む。それでおまえさんの名は」
弓を握っていることによるのか、沸き起こる狩人の血の騒ぎを感じながら、キドは改めて問いかけました。
「それが、いかにしても思い出せないのです。お好きなように名を付けて下さい」
「あいや、それは」
「ぜひに」
思いも寄らない申し出でした。これまで人に頼られたことなどなく、まして、村にいても滅多に言葉を交わすことのなかった女子からの願い事。首の筋が膨れ上がるほどに熱くなりました。
「まあ、頬が真っ赤に」
少女の顔が綻びました。その黒い瞳に見つめられ、キドの胸にあった不安は浮き雲のように空に昇り、吹きゆく風に掻き消されていくようでした。
「名はその人を現す大切なもの。親でもないわしが、すぐに付けられるものではない。だからしばらくは、おまえさんということで」
「はい」
陽の温かさを受けた小屋の軋みに、二人の無邪気な笑いが重なりました。
こうして、人里から離れた奥山での子供だけの生活が始まりました。
かねて見越されていたように、その暮らしぶりは厳しさに満ちたものでした。ささやかな獲物にも恵まれず、あまりの空腹に雪を嘗めたり、荒れ狂う天気にぎしぎしと揺れる小屋の中で身を寄せ合い、震えた日が幾度となくありました。
それこそ二人の生活は、始めは拙く、飯事のようでした。けれど、互いに心を通わせ助け合っていくうちに、次第にたくましく伸びやかな生活が営まれるようになりました。何しろキドは大人顔負けの弓の腕を持っていましたし、そして少女は、キドさえ知らない山の木の実や、獣の習性について知っていたのです。
二人はいつも一緒に狩りに出かけました。キドの弓の腕前は、少女の知恵を借りてますます上達していきました