3、二匹の鹿1
「弓はかなり上達したようだが、いくつになった」
木枯らしが小屋の戸を揺らす朝、粥飯をすすりながらサッダが聞きました。
「ちょうど、十の歳さ。けど、それがどうかしたのかい」
キドは首をかしげました。サッダが歳をたずねるなど初めてのことだったのです。
「まだ幼いが、もしや大人の弓を引けるかも知れん」
箸を置いたサッダは傍らにあった自分の弓を突き出しました。
「よし」
キドは渾身の力を込めて弦を引きましたが、弓は切り裂かれる前の竹のように、全くしなりませんでした。
「一人立ちは、まだ先のことだな」
サッダはまあそうかと頷きましたが、キドは自分を情けなく思いました。弓については、腕前はもちろん、力でも大人に引けを取らないつもりでいたのです。
「歳に関わることは、どうしようもねえのさ」
サッダがぼそりと言いました。
それがキドに向けられた言葉なのか、近頃、つとに老い衰え始めた自分に向けられた言葉なのかはわかりません。そそくさと飯をすませると矢筒に矢を入れ、狩りに行くぞとばかりにキドの弓を手渡しました。
外は風が猛り狂っていました。
目に見えぬ無数の者が走りゆくように、乾いた落ち葉が木々の間の風道を駆け抜けていきます。秋の嵐で斜めにかしいだ松の木がどうと倒れていました。二人は奥山の懐ふかくへと分け入りました。
サッダが求めていたのは、美しい赤毛の鹿か冬籠もりの遅れた熊でした。冬のただ中に入る前に、その毛皮や肉を売り、壷の中の食料を一杯にし、少しばかりの銭を置いておきたかったのです。口にこそ出しませんが、この所、急に背たけの伸びだしたキドの食扶持を心配していたのです。
ですが、森には一匹の獣も現れませんでした。それこそ今日明日の糧となる山鳥さえもです。
山を三つまたいだ所で、空にどんよりと厚雲がかかり、風がぱったりと止みました。宙空から氷の息が沸き出てくるように辺りが冷え込んできました。
「今日はもうだめじゃ。それにこの冷え込みは、雪の降る前触れじゃろう。山小屋に行こうとしようや」
山裾の黒ずみを見ながらサッダが言いました。
「ああ。それで獣たちも寝床から出てこんかったのかも知れん」
キドは首をかしげながらもこくりと頷きました。
普段ならこのぐらいの寒さなら、焚き火を起こしての野宿となっていたはずでした。ですが、疲れのために一層深く刻まれたサッダの額の皺は、それがままならないことを現していました。風の吹き込まない小屋での休息が必要だったのです。ここから村に帰るには遠過ぎました。
二人は隣山の中腹にある山小屋に向かいました。
時の流れが止まったような静けさに満ちた山に、二人の荒い息づかいと踏みしめられた落ち葉の砕ける音だけが響いていました。
ピューピー ピーッピュー…
途中、深い谷を挟んだ向こう山から、鋭い笛の音が聞こえました。一つの音に応えるように、あちらこちらから聞こえてきます。
「あの笛は?」
「おまえはなんと聞く」
サッダが振り返りもせずに聞き返しました。
「とても嫌な音だ。胸が苦しくなる」
自分たちと同じ人間が吹いているのでしょうが、笛の音は獣を追う狩人の息づかいとは、全く異なるものでした。性急すぎるし、荒々しすぎます。
「武士達が山に足を踏み入れているんじゃ」
吐き捨てるように言葉が発せられました。
「その武士というもんは、何をしているんだい」
「人を追い立て、矢を射かけているんじゃ」
「人が人の命を奪う…。一体、何のために」
「知る必要もないこと。あの連中は山に住まう者とは違う言葉をもち、その言葉の中だけで生きている。やがて雪が降る。こんな奥山まで足を伸ばしたんじゃ。追う者も追われる者も、雪中で道を失い、命をも失うじゃろう」
もはや問うことを禁じているような、厳しさに満ちた言葉でした。キドは口を結び、枷をはめたように重い足取りの後に続きました。