始まりは晩秋
第一章の冒頭です。舞台は現代日本国。
就職、恋愛、アルバイト、哲学。今の日本人は恵まれているが、彼にとって、両手に余るものばかりであった。
僕は何をしているのだろう。鈍行電車に揺られ、見覚えのない景色を眺めていた。眠っていたわけでもないし、気を失っていたわけでもないのに、記憶の一部が欠落しているかのような違和感にかられる。知らず知らずのうちにICカードの残額がぎりぎりとなる終点にまで来ていた。
四両編成の列車からホームに降り立つ。僕以外にも数名の人間がいたが、一直線に改札口へと歩いていく。ここはどこなのだろうか。駅名をふっと見てみると聞いたこともないような駅だった。
時刻表を見ると折り返しまでに一時間以上も待たなければならないようで、ただでさえ重たい疲労を一段とひどく感じる。ホームは比較的、高台に建てられておりホーム端まで行くと海岸線と明かりが見えた。そこへは歩いても十分と掛からない距離だろう。気分転換と時間つぶしと運動のために明かりの方向へと僕は歩くことを決めた。
コンクリートの階段を下りていく。立ちんぼの機械にICカードをかざし、掘っ立て小屋の改札を後にする。
晩秋の夕暮れはあっという間に落ちていく。つるべ落としとはよくいったものだ。水平線に消える西日を見送ってからすぐに夜のとばりが辺りを包んだ。強い風に乗ってわずかに潮の香りがした。鼻をすする。電車で一時間待っていた方が正しい選択だったのだろうが、致し方ない。
今日もダメだった。エントリーシートはなんとかクリアして、筆記試験を滑り込んでも、面接やグループディスカッションで僕はいつも怖気づいてしまう。あがって自己紹介すらまともにできない僕は人間失格かもしれない。
働きたくはないけど、生きるために働かなければ僕のような人間は労働者として働くしかない。この資本主義という社会は搾取する側と搾取される側に見事に分かれている。もしも、働くとしても人とかかわりあいがあまりない仕事したいがために、僕はいろいろと探した。警備員、清掃員、検針員などである。これらの職業を下賤なものというわけではないが、将来性がなくあまり興味がわかない。かといって工場に勤める職人や技能工が向いているとは到底思えないほどに僕は不器用だ。
そんなことを考えているうちに明かりの近辺にまでたどり着いていた。時間にして二十分程度だった。革靴は歩きにくいことを身に染みて感じる。もっともその道中で海岸線を眺めるコンビニでおにぎりを二つ買って、波止で食べていたことも含めてであるが。
明かりの正体は商店街のアーケードの照明であった。商店街といっても人通りは皆無に近い。夕方過ぎであるものの、立ち並ぶ店舗のほとんどはシャッターを下ろしている状態であり、不動産屋の張り紙と閉店のお知らせだけがむなしく風になびく。電柱には一年ほど前の人捜しのビラが貼られているが、光に当たり続けて変色していた。いかにも寂れた商店街である。何店舗かはまだ開いているが、それらは僕の興味を引くような店ではない。
無為な時間を過ごしたと思い引き返そうとしたが、一店舗だけ本屋があることに気づく。
大北書店。地元ローカルの書店であり、かつては僕の住んでいる市内にも支店を構えていた。自宅から歩いて数分だったということもあり、コミックや参考書などをよく買っておりお世話になっていたのだが、書籍の電子化や不況の波にあおられて開店から十年とたたずに店じまいしていた。
しかし、ここは本店のようで頑張っているようだ。客入りは学生が多く、部活帰りと思われる高校生が参考書やコミックを物色している。ほかにはサラリーマン風の男性やコートを着込んだ女性が雑誌を眺めていた。
閉店まではあと三時間ほどあり、次の列車まで三十分以上の余裕がある。
昔のよしみだ。よし、何か一冊買っていこうではないか。貧乏学生であるものの、バイトの収入もあり、僕の財布としては大金が入っていた。
ガラスの自動ドアをくぐり、適当な書籍を見繕うために僕はふらふらと店内をめぐり始める。空調機の渇いた風は冷えた体を急激に温められ、水鼻が出そうになった。少しだけ一息つけそうだ。
本屋というのは不思議なもので興味の是非を問わずに様々な情報が目に入る。物心ついたときから インターネットという情報の海に飲み込まれていた僕にとって、本屋は有限の情報と無限の可能性が交差する場所だった。
インターネットと比べると本屋は物理的な範囲に、限られた情報をちりばめる。書店の人間は目を引くポップを描いてみたり、話題の書籍コーナー、本屋大賞作家専用の棚などを設けたりするわけだが、いかにそれで興味を引くか。
語弊を恐れず有限の情報としたのは、先ほどの通り物理的な限界があるからだ。サーバー上に天文学的な数の情報を羅列するウェブとは情報量の多寡は比較にならない。たとえビル数階を占有する書店であったとしても、歯牙にもかからないだろう。(もっとも国立国会図書館であっても、日本の書籍だけだから全世界の情報を吸い寄せられるウェブの圧勝だろう)
逆に無限の期待と思うのは、様々な情報に出会えるからだ。ふとした拍子に興味の有無を問わずにぶらぶらしているだけで、コミック、参考書、雑誌、自己啓発書、絵本、ライトノベルから果ては官能小説まで。その点、インターネットの検索エンジンはしょせん、自分の知っている情報しか調べえない。知っていることしか調べることができないのだ。
確かに、近年はビッグデータを用いた深層学習で、自分がWebの検索エンジンで調べたことに関連性のある情報をお勧めしてくる。日本刀のことを調べていればきっと武将や刀工の情報、他はせいぜい軍事情報ぐらいではなかろうか。日本刀のことを調べた後で、ぬいぐるみやマシュマロなんて単語は出てこないだろう。
さて、いくらか本棚を物色していて足を止める。
人文・社会科学。
多くの本が連なる。アドラー入門、漫画で分かるアドラー、東大式最強の勉強学、賢いデザイン思考、人間の尊厳、経済と宗教のカラクリ、夜と霧、それでも人生にイエスと言う。
適当に僕は書棚から数冊を見て目を通す。何がいいのだろうか。とりあえず今の自分には就活続きの失敗を前向きにさせてくれる本がいいのだろう。
こんな時こそインターネットが活躍するのだ。僕は携帯デバイスで各種のレビューを見ていく。やはりここではアドラーやフロイトが人気のようだ。しかし、種類が多様過ぎて似たような内容だ。当然それもそうだろう。アドラーやフロイト自身が書いた本は今の僕には難解だろう。そんな中でもう一冊、気になったのが「それでも人生にイエスと言う」。という書籍だ。これはどんな内容なのか。
まずは著者が誰なのか。ヴィクトール・エミール・フランクル。1902年、オーストリアのウィーンに生まれる。精神科医として働いていたが、第二次世界大戦のナチスドイツのユダヤ人迫害によりアウシュヴィッツ強制収容所に収容される。そこでの出来事と自分自身が仮定していた事柄を実体験で得てしまったというのが、隣にあった「夜と霧」。というものだそうで、二十世紀でも最高峰の一冊と称されているらしい。
かいつまんでいえば「夜と霧」も「それでも人生にイエスと言う」という書籍も、彼、フランクルの壮絶な人生体験を描いたものと言える。
しかし、僕はこの強制収容所での話よりも今は自分自身を肯定してあげたい気持ちでいっぱいだった。何よりも数ページめくったときに書いてあった「人生はあなたに期待している」という耳障りのいい言葉に溺れたかった。
一冊を手に取りレジに並び、僕は二千円を店員さんに渡した。マスク姿ではあったものの、目元がキリリとしていて、セミロングの髪を簡単にしばっただけのポニーテールはとても好印象だ。店のブックカバーをかけてもらっている最中に、広告用のしおりを手に取る。
大北書店。とでかでかと書かれたその紙製のしおりを左手でもてあそびながら、カバーをつけてもらった本に、早速そのしおりを最初のページに挟み込んだ。
いくらかの釣銭を受け取り、腕時計をみる。これから歩いて戻っても十分に列車の発車には間に合う。ハードカバーの本は少し高額であるが、虚しさの淵にいる自分にとっていい栄養剤になることを願って、僕は駅へと歩き出した。
最初の筋書きとなります。この物語はチートや俺強い!といったことはほとんどありません。それに、異世界でのスローライフでまったりということもありません。
ただただ、突き付けられる理不尽な現実に対して流されて息も絶え絶えに、必死に生きていくのです。彼には自らの命を絶ついう選択肢はありません。それは死ぬことが怖いからです。現代社会に一人はいるであろう、ごく普通の青年がそういった苦しみの中をもがいて、あがきいて、なぜ生きていくのかをこれから書いていければと思います。