アゲハ蝶と少女
今にも人生を閉じようという男がいた。
もう体は満足に動かせず、頭もろくに働かなかった。
終の住処には自宅の寝室を選んだ。
窓の外には林が広がっていた。
小さなころ走り回り、長じると恋人とキスをして、嫌なことがあると一人で逃げ込んだ場所だった。
彼に心残りはなかった。
やってないことや成し遂げていないことだらけであったが、それは本当だった。
始まって終わるということはそういうことなのだと、彼は、ここに至って理解していた。
わずかに開いた格子戸からアゲハ蝶が入って来た。
男はそれを目で追った。
蝶は室内をぐるりと一回りすると、本棚の端に止まって羽を休めた。
彼は目を瞑った。
そよそよと、温い風が土の香りを運んだ。
きぃ、とドアが開く音がした。
目をやると、少女が中に入って来た。
見知らぬ女の子だった。
「キミは誰だね」
掠れた声で話しかけた。
少女は応えず、にこりと微笑んだ。
彼女は美しかった。
この世のものとは思えぬ美貌だった。
萎んだ細胞が力を取り戻したかのような錯覚を覚えた。
美しい。
「迎えに来たわ」
少女が言った。
ああ、これは天使なのだと、男は思った。
幻覚だ。
尽きる直前に燃え盛る蝋燭の灯のように、俺の頭が見せている最後のひと働きなのだと、そう思った。
「早く準備しなさい」
少女は黒い髪をかき上げ、腰に手を当てた。
細いその腰にはホルスターがついていた。
仰々しく、綺麗な装飾銃が刺してある。
おや、と思った。
これが天使の姿なんだろうかと思った。
少なくとも、自分のイメージするものではない。
「キミは誰なんだい」
男はもう一度、問うた。
「説明は後でするわ。いいから、早く起きなさい」
「起きる?」
「そうよ」
「はは。そいつは無理な話だ。俺はもう起き上がることが出来ないんだ」
「そんなことはないわ」
少女はパチンッと指を鳴らした。
すると、先ほどのアゲハ蝶が飛んで来て、彼女の肩に止まった。
「さあ、動いてみなさい」
「無理だ」
「無理じゃないわ。動くの」
少女はぴしゃりと言った。
彼女の声は雲雀のように澄んでいて、耳朶から身体に沁み込むようだった。
不思議な力を持っていた。
出来るかもしれない、と思った。
男は渾身の力を込めて、上半身を起こした。
すると驚いたことに、力がわずかに戻っていた。
「これは、どういうことだ」
「今度は立ち上がるの」
言われる通り、立ち上がる。
すんなり立ち上がった。
一瞬だけ足が震えたが、それもすぐに収まった。
奇妙な感覚だった。
自分の足で立つのは一年ぶりだった。
「ほら、出来るじゃない」
少女は冷たい目で言った。
アゲハ蝶はいつの間にかいなくなっている。
「さあ、行きましょう」
「行くって、一体どこに」
男が問うと、少女は窓の外を指さした。
そこには、訳の分からない容をした異形の乗り物がスタンバイしていた。
先頭部には複眼がついており、巨大な昆虫のようにも見える。
男は驚いて目を見開いた。
「そんな、いつの間に――」
「さあ、行きましょう」
相変わらず、少女は男の質問には答えない。
その代わり、近づいてきて陶器のように白く美しい手を差し伸べてきた。
男はその手を握り返した。
その時、気付いた。
やせ細っていたはずの自分の腕が、瑞々しく蘇っていたのだ。
俺と少女は開け放たれた格子枠に立った。
すると、目の前に乗り物の腹が無音で開き、搭乗口が現れた。
「姫様。お急ぎください」
燕尾服を着た男が、慇懃に礼をする。
少女はジャンプして、一足先にそれに乗り込んだ。
半身だけ振り返り、「さあ」と男を促す。
「俺も、行っていいのか」
男は聞いた。
「もちろん」
少女は微かに笑ってから、頷いた。
男は嬉しくなって、にこりと笑った。
それからぐっと足を曲げると、思い切って搭乗口に向ってジャンプしたのだった。