雨宿り、出会い、百合
むかーしむかしじゃなくて別に現代でもいいけど、あれだ、一人の女の子がいました。彼女は……そうだな……六歳の頃からピアノを習っていました。十年の年月が過ぎ、十六歳となった彼女は県内に名を轟かせるほどのピアニストとなりました。努力と運、両方の賜物です。三日後は大事な大事なコンクール。女の子は幸せでした。
いつも通りの放課後、いつも通りの帰路を自転車で走っていました。全くいつも通り。誰が予想できたでしょう。突然飲酒運転の車に突っ込まれ、骨がきしむ激痛を感じたかと思えば、何やらいつの間にか病院にいました。で、医師から告げられた自分の状況は、右腕が骨折、全身に打撲。
こうして一人のピアニストは一つの夢を断たれ、今後ピアノを弾けるかさえわからないという絶望に突き落とされましたっとさ。
他でもない、あの、何の因果も因縁もない、全くの偶然の、ふとした交通事故によって。
所詮生ある者は皆風の操り人形。
架空の、だが実在していそうな絶望談を思い描く。桜木言音はそれを引き合いに自分を慰めた。ピアノ人生を断たれたピアノ少女に比べれば、突然の雨によってせっかくのお出かけの時間の大半をクソ退屈な雨宿りに費やすこととなった自分の不運など、遥かにマシであると。
これからは折りたたみ傘を持ち歩くことにするか。自販機横のベンチで脚を組みながら言音は思った。
ところで、ベンチを覆う天井に当たる雨の音があまりに大きいせいか、他人の気配に気付けなかった。
「あんたも雨宿りか?」
ベンチのやや離れた位置に女が座っていた。見たところ歳は同じか、少し上くらいか。
「ん……うん。つってもこんな豪雨じゃいつ止むかわかったもんじゃないけど」
突然見知らぬ人物から話しかけられるというのはなかなか無い出来事だ。いや、見知らぬ人物と二人で沈黙しているというのもそれはそれで耐え難いので、自然といえば自然か?
「お互いついてねーな。あたし昼飯もまだだっつーのに」
女が言った。濡れた髪がひっつく横顔はよく見ると結構な美人だ。──美女と二人、雨の中。なかなかいい風情じゃないか。言音はついさっきまでの気分にあっさり掌クルーを見せつけた。
ふとバッグの中にスニッカーズが入っていたことを思い出す。数秒迷ったが、思い切って、自分の身長ほどの距離を詰めて女に近づく。
「よかったらこれいる? スニッカーズは腹持ちいいよ」
「お、ありがと。せっかくなんでもらうよ」
彼女はわずかに微笑んで濡れた手を差し出し、チョコ菓子を受け取った。
「女さんは今日どこかに出かけてたの?」
「まあね。つーかSSみたいな呼び方すんなよ。優子だよ」
「え……」
「名前。優しいガキと書いて"優子"。残念ながら親の願いは叶わなかったけどな」
思いがけず美人の名を知れて軽く興奮する言音。中学生男子みたいな反応だなと自嘲した。
「そっか……あー、あたしは言音。言葉の音で"言音"。込められた親の願いは知らんけど、喋ってもらうことだとしたら毎日叶ってるね。あたし親孝行?」
「かもな」
ボキッと菓子を噛み砕き優子は言音の濡れた頭を撫でる。
「カロリーの塊マジ美味え。……つーかなんの話してたんだっけ」
撫でられたつむじに温もりの錯覚を感じながら言音は言葉を探す。
「……えーと……あれよ、女さん、じゃなくて優子はどこに出かけてたの?」
「んぁー。映画観に行ってた。パイレーツ・オブ・レズビアン」
「!?」
そんなのあるのか? ……どこのパチモンだ。
しかしパチモンのくせにここまで観たいと思わせる題名も珍しい。
「でそんあと服でも見に行こーとしたらこのザマよ。こんなに濡れてちゃ多分試着とかさせてもらえねーよな」
「そか……」
訪れた沈黙を雨音が埋める。
言音の脳内では静かな期待と興奮が象られ始めていた。パイレーツoLとやらの内容は知らないがレズビアン要素が前面にあることは題名に保証されている。それを観に行ったということは優子はビアンなのだろうか?
そのとき雨音が奇妙にねじれた。
と思ったら、それは優子の声だった。
「お前は? 何の用事でどこ行ってたん?」
「ん……大したことじゃないよ。ただの買い物」
「ほーん。あ、ところでごちそうさま」
優子はスニッカーズを食べ終えていた。
「いえいえ」
また沈黙。
「…………」
「……」
雨はいつ止むだろうか。天井の端から見える空はむしろどんどん暗くなっていってる。
ところで、雨が止んだら恐らく優子とは普通に別れてお互い赤の他人同士に戻るだろう。まだほんの少し言葉を交わしただけの仲だが、言音は優子の外見や雰囲気にすっかり惹かれていた。別れ際に連絡先を交換するぐらいの仲には発展したい。
ちらっと優子の様子を見る。彼女はスマホをいじっていた。
「……」
空はもぞもぞと渦を巻く。黒みを帯びてきた雲がついに唸り声を発し始めた。
「うお、雷かよ?」
「だねー」
どうやら空は時間をくれるようだ。いや、むしろ奪うのだろうか。雨宿りに痺れを切らして誰かに車の迎えを頼み、去って行く優子……そんな未来が垣間見えた。
「ちょうどいいや。ライター忘れちまったんだよな……代わりに雷が火ーつけてくんねえかな」
「タバコに? な事したら焼け死ぬって」
落雷をライター扱いするとは恐ろしい。
「命なんざいつでも死神にくれてやるよ」
優子の横顔は冗談を言うときの人間の表情で彩られてはいない。白く冷えた肌と滴る雫がどこか悲しげに見えた。
「死ぬのは怖くない?」
言葉を選んで訊ねてみた。
「どこが怖いのかさえわからん。別に不幸だから死にたいってわけじゃないけど。結局、生きてるか死んでるかより、幸か不幸かが肝心なんだよな」
「……」
「あいつももしかしたら……」
「あいつ?」
聞き返した瞬間、割と繊細な内容に踏み込んだと直観した。
「あ、いや、やっぱ話したくないならいい……よ……」
慌てた口調でそう言ってしまい、繊細な内容に踏み込みましたよ感を出してしまう。しかし優子のコミュ力は気まずさなど発生させなかった。
「な大した話じゃないって。妹が死んだんよ、二年前」
やはり深刻な話だった。が、彼女は言音の表情に構わず続ける。
「言ったろ? 生死なんて大した問題じゃないんだよ。なんかの不運に見舞われて不幸になるぐらいなら早めに死ねた方があいつのためだし、もしあの世とか生まれ変わりがあって、今頃幸せにやってるならそれでいい」
少し早口な調子になった気がした。心なしか優子の無表情さはわざとらしく感じる。
「あいつにとってはな……」
「…………」
少しわかった気がする。優子は妹を亡くした悲しみを和らげるため、前述のような人生論を考えたのかもしれない。そのわりにはこじつけ臭さがなく納得できる論理だが。
もう一つ気付いたことがある。
「なんで初対面のあたしにそんなぶっちゃけた話を?」
「だから別に大した話じゃないっての」
「優子」
「あ?」
「こっち向いて」
「あ?」
さっきからずっと彼女は雨と地面しかない方向を向いて俯いている。
「お姉ちゃん」
「! ……」
優子の顔が数分ぶりにこちらへ向いた。恐らく彼女はいま愛しい亡霊を幻視している。
言音は自分が何をしたがっているのか自分でもよくわからないままだった。妹に似た自分を意識させて優子を陥落させ、あわよくば仲良くなってやろうというのか、純粋に彼女を慰めたいのか……。
「なん……ちゃって。生まれ変わるには二年じゃちょっと足りないかな、はは……」
「────」
優子の前髪から雨の名残が滴り、目尻へ零れ落ちる。それを見ていてはっと気付いた。優子の顔が巨大化……いや、接近してきている。
「せめてあとじゅ──」
「…………」
「……」
「──…………」
「…………っ────ん」
「…………青葉」
「……む……んぐっ」
「……───……」
「────ぶはっ、……」
唇から全神経が解放され、雨の音が耳に蘇った。濡れた服の冷たさやベンチの感触も。
ああ。
まだ止んでなかったんだ。
「青葉ぁ……」
一つ想定外だったことがある。
優子はただの妹思い、ただのシスコンだと思ってた。まさかキスをする系の意味で好きだったとは思わなんだ。
言音の両肩に手を置き、顔を突っ伏す優子。
やべい。泣かせちゃっ……た?
「…………悪い」
下方からくぐもった声がした。
「いいよ。別に嫌じゃなかったし。ただ──」
間を空けると優子がゆっくりと顔を上げる。頬の筋は雨の雫か涙の雫か?
「──あたしは誰?」
「……。言音?」
「正解」
優子は再び背もたれに体を預け、ため息を一つ吐いた。
「なんの因果だよこれ」
「人生なんてそんなもんですえ」
「そりゃ同意だ」
またしても雨音に出番が回っていった。飽きもせず世界を濡らし続ける音。
さて、どうしたものか。
「優子」
「ん」
「あたしは言音になれる?」
「え何も一回言って頂けます?」
二人は同時に互いの方向へ顔を向けた。
「つまりー……もし青葉さんのことを割り切ってあたしをあたしとして見てくれるなら……ほら……えーあれだ……」
「…………」
「……つ」
「そんな偉そうな告白聞いたことねえ」
「告っ!? いやそ……あぁまあ、そう……だけ……」
「……」
俯きかけたとき、優子に顎をクイッと上げられた。
「生者と死者の区別ぐらいつくさ」
言うと彼女は顔を近づけ──ピタリと止まって軽い声を出した。
「ちなみに映画の話嘘な。パイレーツoLなんてパチ映画あるわけねえだろ」
「ファッ?!」
大げさに驚く言音を見て優子は吹き出す。
「あれカマかけだよ。あそこでこの場から逃げなかったお前はビアンの気があると確信したね」
「……はぁそうでスか」
詰められた距離を潰し、優子は口づけをしてきた。この短時間で二度目の。
雨はまだ止まない。別にいい。いつまででも降っていればいい。
〈了〉