宮沢賢治童話は究極のブラックメルヘン(黒童話)だった。本当はダークな賢治童話。dark Märchen black Märchenとしての賢治童話 あるいは宮沢賢治童話「宗教小説」論 再改訂増補版
☆はじめに
皆さんは、
宮沢賢治の童話を、、、、人畜無害の、、、いわゆる
「よいこちゃん童話」だと、思い込んではいないだろうか?
そこらにいくらでも転がっているような、、、、
「みんなよい子になりましょうね」
「みんなお友達だから仲良くしましょうね」
「しっかり、お勉強してお利口になりましょうね」
「ケンカはいけませんよ」
「命は世界で一番大切だから大事にしましょうね」
「命は一つだけ、大切な命だから地球よりも重い」
、、、、、などというような
そういう
その手の、、、、いわゆるホワイトメルヘン(白童話)= よいこちゃん童話
宮沢賢治の童話を、健全で、道徳的で、やさしくって、平和で、明るい
純真な子供向けの心温まる、ほんわか、、ほっこりの
ホワイトメルヘン(白童話、よいこちゃん童話)と信じ込んではいないだろうか?
実は、、、、そういう皆さんの思い込みに反して、、、、、、
宮沢賢治の童話は
そりゃあ、そりゃあ、
根深い闇に包まれたダークで、ディープなブラックメルヘン(黒童話)だったという真実を
あなたはまだ知らない。
賢治童話とは賢治が悩み追求した菩薩の境地に至るまでのまさに懊悩の跡であり、
描かれているのは、修羅道の世界です。
修羅道とは争いと殺し合いのこの現実世界のことです。
そしてそこでの苦悩する彷徨は、、、、
ある意味賢治童話は病んでいます、
宮沢賢治の心の闇は相当深いものがあります。
心が病んでる童話です。
苦悩と懊悩、現世での苦行、究極の菩薩道への階梯
時に病的な死への希求
命などは軽い軽いものであり、時には、捨て去るべきものでしかない。
知恵は悪であり究極の「愚」こそが真実。
実は、、、、宮沢賢治童話なるものは
知恵の否定
命の否定
死への希求
争闘と殺戮の修羅道としての人生行路
究極の菩薩への階梯の苦行。
宮沢賢治という法華経の熱狂的な信者がその経典からの読み取りから得られた賢治の追求した真実一乗の世界観。
、、、、そう、、、、、
宮沢賢治童話とはその熱狂的な吐露であり、懊悩であり、求道そのものです。
いわゆるそこらにいくらでもあるような「児童向けの健全童話」ホワイトメルヘン(良い子ちゃん童話)などではないのです。
法華経という賢治の心酔したある意味。カルトな異端の仏教経典から賢治が読み解いた宇宙の真理が描かれた、
そういう意味においては彼の童話とは完全なる「宗教小説」なのです。
法華経とは数ある大乗経典の中でもひときわ異彩を放っている異端の教典です。
その内容とは、、今の言葉でいえばまさに「カルト」そのものです。
ほかの仏教経典とは全く違うのです。
だからこそ?日蓮が強くひかれたのでもあるのでしょうね。
そもそも賢治がなぜあれほどに熱狂的に、ひと月に3000枚も??原稿用紙に童話を書き綴ったのか、といえば、国柱会の導師から「童話で法華経の教えを子供たちに説いてみたらどうかね?」
、、、と言われたことで猛然と執筆活動を始めたという事実を忘れてはいけないでしょう。
賢治の熱烈な信仰心の修業としての童話制作であるということなのです。
童話創作は賢治の求道そのものだという事実です。
そこらのほかの童話作家とは創作動機が全く違うのです。
彼のすべての童話には「法華経」の面影が随所に読み取れますし、
ある意味彼の童話は法華経への彼なりの解答の摸作(試行錯誤)だという事実です。
あるいは彼の童話でいわゆる「西域モノ」という系統の童話などはモロ、法華経の影響下にあるといえるでしょう。
賢治童話なるものはもはや、、童話という概念を飛び越えてしまった?懊悩と苦悩と求道のせめぎあいを表白した、、、なんというか、、一種の「宗教小説」(法華経小説)なのです。
賢治童話なるものとして我々が認識している彼の作品群は、決してそこらの、いわゆる「童話」
なんかじゃあ、無いってことなのです。
賢治の作品群とは、それは、
法華経というまさにカルトそのものである異端の大乗経典への確執と偏愛、求道、まい進、捨身。
賢治と法華経のパラドクスな葛藤
あるいは心酔する法華経の彼が解釈した賢治的な広報宣布そのものなのです。
法華経の中心概念である「菩薩行」の賢治なりの解釈から生まれた
命などは、時としては軽い軽いものでしかないという教え
知恵などは害悪でしかないという、知恵への断罪。
そういう世間常識のアンチテーゼ要素満載のいわば
カルトな内容の
ダークで
ブラックで
コアな
闇の
死のにおいに充ちた、、、死をテーマの、、聖者への道を模索した「宗教小説」
あるいはまさに文字通りの
「黒い童話」ブラックメルヘンなのです。
それは今風の言葉でいえばまさに
「ダークファンタジー」そのものです。
不肖、わたくしが
これから
そういう観点からのアプローチとして
賢治童話はホワイトメルヘン(よいこちゃん童話)だと信じ切っている
そこのあなたに
ダークでブラックな真相を突き付けようかと思っている次第なのです。
かくいうこの私はダークファンタジーが大好きなので、
そういう視点から賢治童話も大好きです。
それでは、、個々の作品から
ダークで
闇の、、、
病んでいる?
ブラックな
異世界への希求の
つまりダークファンタジーとしての、
あるいは「苦行童話」?としての、
「捨身童話」?「自己犠牲童話」?
それよりもなによりも、、、
偉大なるカルト経典である「法華経」にインスパイアされた
「完全なる宗教小説」としての
賢治作品を
これから読み解いてゆきたいと思います。
よろしければ最後まで、、お付き合いくださいませ。
☆本当はダークな賢治作品(童話・ポエム)を読み解く。
〇 雨ニモ負ケズ
死に瀕して書かれた手帖に残された、これはある意味「辞世」の歌なのでしょう。
これは自己犠牲を神話化して崇高に捨身することを説くまさに「毒のポエム」であろう。
自己を徹底して捨て去ることが理想であり宗教でさえある、
究極の自己否定、自分なんか勘定にさえ入れないという徹底性。
自分を徹底して完全に捨て去る
究極の自己犠牲。
その
理想像は「デクノボー」である。
つまり究極の「愚」が理想なのである。
デクノボーの神格化です。
知恵者、勉強家、秀才は全否定される世界。
知恵によって作られた現代文明の全否定なのです、それへのアンチテーゼです。
知恵の否定と愚の全肯定。
まさに現実界での、価値観の「ちゃぶ台返し」が賢治のこの詩なのです。
これはまさに求道者の苦行であり、聖人へと至る修行の世界ですね。
これを一般人、、ましてや子供に強いる?ということは
ムリでしかないということでしょうね。年端もいかない子供たちに「自分を無にしろ」
「自分のことなんか勘定に入れるな」「衆生のためには自分の命さえ投げ出しなさい」
そしてどんな苦難が襲い掛かっても、何があってもいつも静かに笑っている。
これってもはや神の境地でしょう?凡人にはムリです。
究極の自己犠牲を称揚するこのポエムは
苦行者としての
聖人としての絶対の捨身を説く
自己を完全に捨て去るというカルト宗教の「トーラー」でもあるのだろう。
こんなことを、、、こんな修行を、、、、こういう生き方を、、、
年端も行かないような右も左もわからないような子供に強いる?
って、、そりゃあムリでしょ?
なお、、このポエムの末尾に「法華経」が記されていることをほとんどの人は知らされていない。
以下全文をご覧ください、↓
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩
〇 オツベルと象
これは民衆蜂起による、収奪者の殺害である。。。。。
とも読み取れるが実はもっと他の読み方もできるというか、その方がしっくりくるのだ。
主人公は白い巨象である。普賢菩薩を載せてるのがこの白象でもあることから、
象は仏智の、菩薩道の求道者ととらえた方がよいだろう。
その象と対照的なのが守銭奴?の、オツベルであろう。、
この対比からも自己犠牲が透けて見える。
じつは、白象は最初から最後までオツベルを責めてはいない。
必然の現世での業として、この苦役を忍耐すべきとしているのだ。
神の与えた試練であり、オツベルはただそれを仮りの演者として演じさせられてるだけだ。
以下「マグノリアの木」のところでも述べるが、、
そういう、「ゆえなき苦難」は求道者がサトリに至るための必然であるというのだ。
だが仲間の象たちはそれを、つまりは現世での忍耐の苦行を容認はできない
つまり、
収奪者は徹底的に殺されることになるのだ、
押し寄せた狂象たちに踏みつけられたオツベルはもはや肉のみじん切り状態で絶命惨死する。
だが白象は助けられた後にオツベルをののしることもなく、さびしくこういうだけである。
「ああ、ありがとう、」白象はさびしく笑ってそういった。
そこには現世への深い諦めと求道者の負うべき深い絶対の孤独が君臨している。
〇 貝の火
純真無垢な子ウサギホモイは、溺れかかったヒバリの子を助ける、
その時自分も水を飲み死にそうな目にも合う。高熱が出て1週間生死の境もさまようことになる。
やっと回復して自宅にいるとひばりの親子が尋ねてくる。
鳥の王から預かってきた
「貝の火」という宝玉をホモイ様に差し上げるというのだ、ホモイは逡巡したが、もらうことになるのだが、
この宝玉、、、、、
維持するのが困難なほどの道徳性(聖性)を所有者に要求するのである。
持ち主が悪いことをすれば宝玉は曇ってしまうのである。
つまりただの平凡・無垢なる子ウサギホモイには最初からすでに荷が重すぎるのである。
案の定ホモイは、その後、ワル狐の誘惑に乗り罪を犯してしまう。
そしてその罰は、こんなただの無垢な子ウサギにはありえないほどの重罰だった。
つまり、、、白濁した宝玉はついに、、大破裂して、宝玉の破片がホモイの目に刺さりなんと失明してしまうのだ、。
だが?失明に値するほどの、、ホモイが一体何を、、、どんな重罪をしたというのだろうか?
ヒバリを助けた、、だがその褒章は、あまりにも聖人性を要求する「貝の火」である。
ムリなのである。だがその試練がこんなイノセントな子ウサギに与えられるという不条理性。
この現世は不条理が支配する?という真実なのでしょう。
たかがそこらの普通の平凡な子ウサギになぜかかる過酷な試練(失明)が襲い掛からねばならないのか?
はたして?失明してまでそれは贖うべきほどの重罪だったのか?
そんな重罪だったのか?
ホモイがしたのは、、、、
食パンを盗んで食べただけじゃないか?
モグラの親子をちょっといじめただけじゃないか?
キツネの小鳥狩りを見逃しただけじゃないか?
それで?失明、、、、というあまりにもの劫罰、、、それって重すぎるじゃないか。
でも、、あなたも私もいつ、ホモイの試練が来るかもしれないという恐怖感がこの物語には
横溢しているのです。
この童話は恐ろしい、
人助けした子ウサギがなぜ最後に、、失明という責めを受けるのか?
私にはわからない。
でもきっと、これは深い意味を、、異界からの兜率天からの
究極の救済と贖罪という宇宙的な贖罪であり
真の人の道を象徴しているのだろう。
ホモイとは、、ホモサピエンスのアレゴリーであろう。
つまりホモイの運命はまた人間全般の「運命の不条理」をシンボライズしてもいるという事なのだろう。
たとえば、、、
すごい善人で人々に尽くした人が、ある日突然、難病に倒れてのたうち回って挙句の果てに、狂い死にしたということを、私は知っている。
なぜ?この人が?こんな善人の鏡みたいな人が?なぜ?
でも、、、
そういう事例はこの世には事欠かないのが実情なのです。
そういう不条理がこの世の真実の姿なのです。
人生とは不条理そのものです。
そうして私たちはその不条理の中で生き抜くしかないのです、、、。
この不条理な、、罪と罰の、子ウサギの物語は、、
無垢な子ウサギが失明という劫罰で終わるという、、、、、、
「まったく救いのない」この物語は、、、、
しかしこんな風に妙に?明るく?こう締めくくられている。
「ホモイの目は、もうさっきの玉のように白く濁ってしまって、まったく物が見えなくなったのです。
はじめからおしまいまでお母さんは泣いてばかりおりました。お父さんが腕を組んでじっと考えていましたが、やがてホモイのせなかを静かにたたいて言いました。
「泣くな。こんなことはどこにもあるのだ。それをよくわかったお前は、いちばんさいわいなのだ。目はきっとまたよくなる。お父さんがよくしてやるから。な。泣くな」
窓の外では霧が晴れて鈴蘭の葉がきらきら光り、つりがねそうは、
「カン、カン、カンカエコ、カンコカンコカン」と朝の鐘を高く鳴らしました。」
〇 風の又三郎
風の妖精である又三郎がある日村の小学校に児童として化身して?転校生としてやってくる。
彼は異人であり、異界からの来訪者である、つまり死の国の住人ですらある存在です。
彼の本性は、ガラスのマントを着て、ガラスの靴を履いてる異界からの誘惑者なのです。
村童たちは本能的に彼が異界からの訪問者だと直感している。
純真な子供には異界が見えるのです。誰でも7歳までは霊が見えるといいますよね?
それは突然こんな歌から始まる、
「どっどどどどどうどうどどう」
この歌、誰が歌ったのかも説明されない、
とつぜん響いてくるこの歌
この怪しげな、呪文にも似た冒頭の詩は
それは異界へのイニシエーションの導入歌なのだから。
誰の詩でもないし誰が歌ったものでもないのだ。
又三郎は突然来訪しまたある日突然消える。
つまり異界からの来訪者は、又三郎は村童たちの誘惑をあきらめて突然消え去ったのだろう。
でもそれは、なぜなのか?それは誰にも分らないのだ。
初稿の「風野又三郎」のほうがファンタジーとしては秀逸です。ここでは又三郎はモロ、風の精であり
硝子のマントをギラリと光らせてもちろんガラスの靴を履いて赤ら顔で赤毛で世界を風となって飛び回るのです。その姿は先生 (おとなたち)には見えません。子供たちにしかその姿が見えないのです。
〇 銀河鉄道の夜
溺れて死んだカンパネルラの、霊が友人のジョバンニを、夢の中で呼び寄せて、
二人で冥土への「黄泉がえり」の旅をするという物語です。
ここにあるのは死への誘惑であり、死の賛美です。
様々な理由でこの鉄道に乗車してくる乗客たちは
何れも死への旅立ちの同伴者です、
そしてカンパネルラは、友人のジョバンニを死の国へといざなうのをあきらめて、
この世へと返してくれるのです。
オルフェウス的黄泉がえり
これはある意味宮沢賢治の「死者の書」であり
「冥府下りの書」でもあるのです。
ジョバンニは最後に現界へと戻されますがそれは
あの「光の素足」のお兄さんだけが戻されたことと通底しているのでしょうね。
それはもう少しだけこの世で、ジョバンニにはまだ、することがあるという理由なのでしょう。
なお、この物語で一番重要な場面が展開される第3稿の「ブルカニロ博士」の部分は一般に流布している決定稿では削除されてしまっています。私見によればブルカニロ博士の条がこの物語のキモですので是非探して
この第3稿をお読みください。
〇 グスコーブドリの伝記
この物語は童話離れしたすごい深刻な、、シリアスなお話しです。
冒頭、飢饉が襲った村では、ブドリとネリを残して両親が森へ自殺にゆくという衝撃的な場面から
この物語は始まります。両親は子供を助けるために自己犠牲、、進んで自殺したのです。
童話で真っ先に両親の自殺です。これって普通はないでしょ?
成長したブドリはやがてその両親がそうしたように喜んで、自己の体を命を
捧げることになるのです。
冷害を救うために火山の噴火をさせるために、ブドリは命をささげるのです。
他人の幸福のために喜んで死ぬべきだとおしえているのです。
窮境の自己犠牲それこそが賢治の理想なのです。
いわば死の美学?というか、捨身の称揚
喜んで人のために死ねと教えているのです。これはある意味「自殺の勧め」??でしょう?
死の宗教、、それがこの物語の真相でしょう。
人のために死ぬこと。
火山島の火口で噴火を見届けて(殉死?)するブドリは
己の身を焼いてブッダにささげたあの
ジャータカ(ブッダ輪廻転生譚)のウサギの捨身饗応譚へのオマージュなのでしょうか?
これが童話だとしてここでは衆生のために死ぬことを子供たちに奨励してるんですよ、
喜んで死になさい、、と子供たちに教える童話って一体?
死の童話 まさに黒童話・ブラックメルヘンですよね?
いや
これは童話なんかじゃない。
きっとほかのもっと違う
もしかしたら、、これって、
死へといざなうカルト宗教の「自殺奨励トーラー」なんだ。
私はいつもそう思っている。
第2稿の「ペンネンネンネンネンネネムの伝記」は完全なファンタジーであり
主人公は化け物の子「ネネム」である・これはファンタジー性が横溢しています。
最初から最後まで、もうなんと言ったらいいのか、、「シュール感、横溢!」
、、、な、、、内容となっています。
〇 蜘蛛とナメクジとタヌキ
「くもとなめくじと狸」という少々怖いお話があるのをご存知だろうか?
ここには、、、
地獄行きのレースをするこの呪われた三人の短い人生がおぞましくつづられているのである。
あの、ユートピアニスト?の賢治からは想像もできない、
いわばホラ-小説のような陰惨な世界がここにはあるのである。
くももなめくじもたぬきも
平気で獲物を殺し食ってしまうし、無慈悲に殺して何の罪の意識もまったくない。
機械的に残忍に殺す様子が面々とつづられる。
これは果たして子供に読ませていいものかと考えざるを得ないほど、はっきりいって残忍だ。
もちろん因果応報この極悪三人兄弟は地獄に落ちるのだが、、。
〇 虔十公園林
究極の愚かさ、、というか
究極の愚に帰ることこそが理想であるという
知恵の全否定ですね。
知恵はただ害悪をもたらすだけ。
知恵が原爆を作り
知恵がサリンを作る
そんなことなら「愚」こそが無上の悟りであるだろう。
そういう教えです。
現代文明の全否定です。
そんな中でも自然だけが永遠であり
人の全生涯などは実につまらぬものだというある種の賢治の
「諦め?」が投影されてもいるのでしょうね。
愚の勧め
愚に帰ること
そして、、
自然は永遠にそこにある、、、。
そういうお話なのです。
〇 セロ弾きのゴーシュ
この童話全編を覆うこの孤独感はいったい何だろうか?
私が初めてこの童話を読んだときの強烈な印象がそれでした。
独身で貧しい街の映画館の楽団員の
セロ担当の
ゴーシュは川っぷちの陋屋に住んでいます。
いつもへまばかりしているゴーシュは
夜ごと練習をするのですがそこへ毎夜異界からの訪問者たちが訪れてゴーシュの芸術開眼をイニシエーションするというお話です。
だが実は現実のゴーシュは孤絶して断絶してこの世俗世界から隔絶されている絶対の孤独者なのです。
異界からの訪問者たちがすべて去った後に、、ゴーシュはこんなことを言います。
『その晩遅くゴーシュは自分のうちへ帰って来ました。
そしてまた水をがぶがぶ呑みました。それから窓をあけていつかかっこうの飛んで行ったと
思った遠くのそらをながめながら
「ああかっこう。あのときはすまなかったなあ。おれは怒ったんじゃなかったんだ。」
と云いました。」
私はここを読むといつも、哀しくてたまらなくなるのです。
この物語全編を覆うのはいやしがたい孤絶。孤独感です。
現実世界からの孤絶。それがすべて覆っているのです。
セロだけが生きがいのゴーシュとはおそらくはこの現世という俗世界についに馴染むことができなかった賢治自身の投影なのかもしれない。
〇マリヴロンと少女
マリヴロンにあこがれる少女ギルダ、は、こういう。
「私はもう死んでもいいのです」
「私なんか百ぺんでも死にます」
「私はどんなことでも致します」
だから
「私を連れて行って下さい」
マリヴロンとは賢治の究極の理想の化身であろう。
だがマリヴロンはつれなくも去ってしまうのである。
ここにも賢治の深い、そしてぬぐい切れない現世への諦めがある。
この物語は「めくらぶどうと虹」の改稿版になります。
〇 土神と狐
嫉妬に狂い我を忘れ殺人まで犯してしまうというサイコキラー?のオハナシです?
「よいこのみんな、喧嘩なんかせずに、なかよくしましょうね」、、、、、
、、、というようなホワイトメルヘン(白童話)ではありません。ご注意ください。
美しくて可憐な樺の木に恋した土神が、恋敵のキツネに対して嫉妬に狂うという
サイコサスペンス?みたいなお話でありこれは怖いです。
なんと嫉妬に我を忘れた土神が最後は狐の体をねじって投げつけ、容赦なく、ぐちゃぐちゃに踏みつけて踏みつけて、なぶり殺すのである。
これは果たして童話なのか。ストーカー殺人事件ですよ。
それとも異常なストーカーまがいの犯罪小説なのか?
賢治童話を色濃く覆いつくす死の影がここにも横溢しているのだ。
童話で殺人を描くって、、いったい?
最後に、、、
狐の死骸を前に号泣する土神が見た、狐の死んだその様子は、、、
「首をぐんにゃりとしてうすら笑ったようになって死んでいたのです」
賢治童話を深く覆っている死の影、果たしてこれはほんとに童話なんだろうか?
それとも狂気のホラー小説なんだろうか?
私はいつもその疑問から逃れられないのである。
ところで、、、、
この原稿には賢治のこんな書き込みがある。
土神、、、退職教授
狐、、、、貧なる詩人
樺の木、、村娘
ということは賢治は詩人?それとも土神?
いや、、両方に分裂している、、というのが正解なのでしょうね。
自己分裂、、その葛藤を描いた作品でもあるのでしょう。
〇 二十六夜
死に行く梟の子供、穂吉のための葬送曲としての
漢字だらけの難解なお経(梟経?)のリフレインが葬送を奏でる。
ここにもまた、罪を犯さざるを得ない畜生(梟)のカルマへの洞察がある。
他の生き物を殺して食らうことでしか生きられない梟どもの因果、
しかし自分が死ぬのはつらいというジレンマ、
梟であることへの、自責は、しかし、、、どうしようもないのだ。
無防備な梟の子供の穂吉は、、、うっかり人間の子供につかまってしまい、人間の子に足をポキリと、折られて放たれる、、、
やっと木の上に戻った
瀕死の穂吉はでもその死の床で、梟の老僧の唱える梟経を聴いて
平安は得られたのだろうか?
この物語の最後はこうだ。
「南無疾翔大力、南無疾翔大力。」
みんなは高く叫びました。その声は林をとゞろかしました。雲がいよいよ近くなり、捨身菩薩のおからだは、十丈ばかりに見えそのかゞやく左手がこっちへ招くやうに伸びたと思ふと、俄に何とも云へないいゝかをりがそこらいちめんにして、もうその紫の雲も疾翔大力の姿も見えませんでした。たゞその澄み切った桔梗いろの空にさっきの黄金いろの二十六夜のお月さまが、しづかにかかってゐるばかりでした。
「おや、穂吉さん、息つかなくなったよ。」俄に穂吉の兄弟が高く叫びました。
ほんたうに穂吉はもう冷たくなって少し口をあき、かすかにわらったまゝ、息がなくなってゐました。そして汽車の音がまた聞えて来ました。
最後は深い諦念とそして死、
賢治童話の深い闇がここにもあるのだ。
一体賢治童話と称されるものでは、、
ヨダカも
楢男も
穂吉も
カンパネルラも
狐も
ブドリも
土神も
蜘蛛もなめくじも
みんな最後は死んでゆく
殺される
殺す
事故死する
自殺する
殺人さえある。童話で殺人?
こんな童話ってあるだろうか?
これってホントに童話なんだろうか?
いや
これは童話なんかじゃない。
きっとほかのもっと違う
もしかしたら、、これって、
死をテーマの「宗教小説」なんだ。
私はいつもそう思っている。
〇ひかりの素足
一郎と楢夫という兄弟の雪山での遭難譚です。
遭難した兄弟は「うすあかりの国」に迷い込みます。
これは幽界の入り口なのです。
一郎はそこで様々な異界の魔物?に遭遇します。
しかし、一郎がどこからか風の声で、、、、「如来寿量品」※ という声を聴くと、、
突然「ひかりの素足」をした、菩薩のような存在が、すがたを現すのです。
その菩薩様?は一郎にこう諭します。
「お前はも一度あのもとの世界に帰るのだ」
そして楢夫には「おまえは前世のお母さんに合わせてやるからな」と諭します。
つまり一郎にはまだ現世でやるべきことがあるというのだ。
すーときえてゆくと、
一郎は目を覚ます。
そこには救助の村人たちが一郎を取り囲んでいた。
この物語の最後はこうです。。。。。
「弟ぁなぢょだ。弟ぁ。」犬の毛皮を着た猟師が高く叫びました。となりの人は楢夫の腕をつかんで見ました。一郎も見ました。
「弟ぁわがなぃよだ。早ぐ火焚げ」となりの人が叫びました。
「火焚ぃでわがなぃ。雪さ寝せろ。寝せろ。」
猟師が叫びました。一郎は扶けられて起されながらも一度楢夫の顔を見ました。その顔は苹果のやうに赤くその唇はさっき光の国で一郎と別れたときのまゝ、かすかに笑ってゐたのです。けれどもその眼はとぢその息は絶えそしてその手や胸は氷のやうに冷えてしまってゐたのです。
愛する者との冥府下り、そして愛する者との永遠の別れ、
まさに「オルフェウスの帰還」のテーゼがここにも奏でられているのです。
※最末尾に如来寿量品の解説を付しましたのでご覧くださいませ。↓
〇 よだかの星
醜さとそれがためのいじめ、よだかはそれを引き受けなければならない。
確かに不条理であり理不尽である。
なぜ自分はよだかに生まれ付いたのか、
それは宿命でもある。
が一方ではよだかは毎晩生きるために昆虫を食らっていかねばならない、
昆虫を殺し食うことでしか生きられない自分の運命、業であり、因果でもあるその
パラドックス。
いじめられる自分は一方毎晩、昆虫を殺して食べてもいる。
その背負いきれない業、カルマ。、
よだかは星の世界に救済を求める、
だが受け入れてもらえない。
だがよだかはあきらめない、。
死に物狂いで、星の世界へ身を焼き尽くす。
死しか救済はない。
死によって救われるしかないという、、
現世での救済の諦め
もはや天上界にしか救いはない
死の希求、、死への賛美、、、死への依存
つまり、、それは自殺賛美??
見方によっては死の賛美であり
死への誘惑でもあるという
恐ろしい童話
それが「よだかの星」である。
〇 ポラーノの広場
前16等官、レオーネキュースト、語るところの
「ポラーノの広場」も哀しくてたまりません。
シロツメクサの灯りを頼りに伝説のポラーノの広場を探しに行った
主人公は、結局このイーハトーブから大都会に出て、
最後は大都会の場末で油にまみれて
孤独で孤絶したままで、みじめな労働するしかなかったのですね?
伝説のポラーノの広場は幻想だった
そして主人公は今は大都会にうずもれて孤独でやっと生き延びている、、。
初稿の「ポランのひろば」のほうが私は好きです。
ここでは幻想の異空間「ポランの広場」でヤマネコ博士たちと
歌合戦を繰り広げるという完全なファンタジーとなっています。
☆総論 (まとめ)
いわゆるそこらの童話の、「いい子になりなさいよ」的なありふれた教訓や、
訓示のような底浅いものは賢治童話には、かけらもないし、
そうではなくて賢治童話にあるのは、とんでもない
残酷と苦行と、迫害と、とてつもない忍耐と贖罪と苦行
自己犠牲を伴うような死ですよね?
それしかないといっても過言ではないでしょう。
死の哲学
死の賛美
死への希求
自殺の肯定
いや死の勧めですらあるのです。
そして死の世界とは異世界そのものであり、そこは実は、きらめく銀河第5次元世界であり。、
そこに生きるべき生命は有機交流4次元電燈の
燃えるような希求と憧憬に心焼かれて
誰もかれも「生ける者の本当の幸福」を追い求めている。
そうして時として
「もし、ミミズが、この俺が死ぬことで助かるならば、俺はミミズのために死んだっていいんだ」
とまで言わせしむるような
極限の自己犠牲 自死の賛美 絶対の捨身、
命をささげること、命を救うためならそれも、いといはしない。
そこまで求めるような童話っていったい?
いや、、、これはもう童話ではないでしょ?
実は、、ところで、、本家の?法華経自体はここまでの究極の「捨身行」は説いてはいないのです。
このような完全かつ究極の「捨身行」というのは実は賢治の法華経「深読み」?であるということなのです。賢治によるところの、法華経の説く菩薩行の新解釈?(賢治教)なのです。
賢治が求めるのは
それは無限大の自己犠牲であり
喜んで自分の命を、、体をささげるという
究極の自己犠牲を無限の歓喜のうちに遂行するってことですよね。
これが童話ですか?そんな童話ってありますか?
ありえないでしょ?
これはもう童話なんかじゃない。異界からの「賢治経」の「伝道の書」であり、
あるいは兜率天からの
命の意味の究極の問いかけの経文でしょ?
これはそこらにあるような
いわゆる、童話なんかじゃありえないですよ。
それどころかある意味とっても恐ろしい
人間道の究極の悟りの命の救済のための「死の行法」ですよ。
これは生ぬるい日常生活にどっぷりつかっている
我々にはまさに、電撃の鉄槌ですよ。
死を勧めるのですよ、年端も行かない子供に進んで死になさい、、と勧める童話って一体??
この童話は子供たちに、
ミミズのためにですら、命をささげなさい?
と教えるんですよ。
ある意味とっても怖い、、、
皆さんの批判を恐れずに言うならば
これってある意味、「自殺の勧め」?でしょ?
あるいは「死の教典」です。
そういうある意味とっても怖い?
平凡人の生ぬるい生き方を全否定する
究極の死の伝道の書 自殺への勧誘??
自殺カルト宗教の教典??
それが宮沢賢治のいわゆる賢治「童話」の本当の正体なんですよ。
そうじゃないですか?
平凡な庶民に過ぎない、私にはだから宮沢賢治の童話はコワイです。
こんなにも自己犠牲をしなければ生きてる、かいがないのか?
人々の「さいわい」のためになら
火山の噴火で自殺しなければならないのか?
あるいはこんなにまでののしられ、恥ずかしめられなければ
空のお星さんにはなれないのか。
浄化されないのか?
なぜ?
あるいは、、
無垢なる子ウサギは人助けしたのに、
最後は失明という
究極の責めを負わなければならなかったのか?
子ウサギはそんな悪事をしたとでもいうのか?
ただ食パンを盗んだだけじゃないか?
それが失明という究極の劫罰に値するとでもいうのか?
わからない
私にはわからない。
最も重くて、悲惨で、つらくって、
そして誰にもできないような究極の自己犠牲の菩薩行
それがわが身を人の幸いのために捧げるという
命を人のために投げ出すという
究極の自己犠牲ですよね。
そこまでを、賢治童話は子供にも、求めている?
人々の「さいわい」のために
こどもたちよ、あなたは死ねますか?
と問いかけている?
もし、そうだとしたら?
これはもう童話じゃないでしょ?
「死の経典」ですよ。
そう思うしかない。
それにしても
こんな童話ってほかにあるか?
ありえない、あるはずがない。
これはそこらのありきたりの
いわゆる健全童話?なんかじゃないということは決定的だ、
童話ではない、
これらの宮沢賢治の創作物は
異界からの伝道の書
究極の宇宙の奥義?
そうと思うよりほかはない。
だってそうでしょ?
私たち平凡なモラルに生きてるような人々が信奉している
「どんなものよりも人の命は大事」「命は地球よりも重い」
という普通のモラルを完全に飛び越えているのだから。
と思うしかほかにたとえようがないものだ。
それほど異質でとびぬけていて
完全に向こうの世界(あっちの世界)に行っちゃってる。
それが賢治童話なるものの本当の姿なのだと
私はこわごわと
いつも思ってるのだ。
そこらにいくらでも転がっているようなそんなありふれた健全童話の
いわゆるホワイトメルヘンの対極にあるもの
それが宮沢賢治童話の世界なのだ。
そこには
死の称揚があり
死の勧誘があり
死して他者を救済するという究極の聖者の道があり
死をいとわない究極の自己犠牲があり
時には邪悪な鬼になり
人を破滅に至らせるような死の教義があり
争いと憎しみと殺人という現実界の修羅の赤裸々な真実があり
人間の命なんて、、、時には、、、、
「ミミズ一匹よりも軽い」、、という死の教義があり
要するに
「みんなよい子になりましょうね」
「みんなお友達だから仲良くしましょうね」
「ケンカはいけませんよ」
「いっぱいお勉強して、おりこうさんになりましょうね」
「命は世界で一番大切だから大事にしましょうね」
「命は地球より重い」
などというそこらのありふれた健全童話を完全に乗り越えた?
つまり完全に「あっちに行っちゃた」
ある意味、、、賢治のお手本である法華経すらも超えてしまった
遥かな死の地平線を見た
宮沢賢治という信徒の編み出した法華経の新解釈であり、まさにこれは「新宗教」である
異界からの「賢治教」という「究極の自己犠牲のカルト宗教」の
賢治の「伝道の書」がそこには展開されているのだ。
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
☆あまり知られていない未定稿作品を読み解く。
宮沢賢治の作品のほとんどは生前未発表の未定稿です。
したがって今残っているそれらの原稿は欠落があったり加筆添削でびっしり書き込まれた乱雑な?状態なのです。
未完成品ですが実はそのために
かえって?
それらの未定稿の作品には、もっと生々しく賢治の修羅としてのまなざしから見えた、
懊悩と幻想とダークさとブラックさが
原型 (オリジン)としてナマの形で出ていますので賢治の心の深淵をうかがうためにも、
これらは必読ですね。
そこにはあなたが知らない(知らなかった)「ブラック宮沢賢治」??があるのです。
例えば、、それは、、こんな作品たちです。
〇風野又三郎
これはあの名作、「風の又三郎」の初期未定稿です.こちらの方がより幻想的で面白い?です
ここでは又三郎は、モロ、風の精であり、赤毛で赤ら顔で、ギラリと光るガラスのマントを羽織りガラスの靴で世界中を飛び回るのです。そして大人には姿が見えないのです、子供にしか姿が見えません。
そして世界中の見聞録を子供たちに語って聞かせるのです。
〇タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった
これは異世界へ迷い込んだ少年のお話です。
主人公のホロタイタネリはいてもたってもいられずに野原のかなたへ冒険に出かけるのです。
が、、やがてこうなります。
ヒキガエルがのそのそ、出てきてこんなことをつぶやくのです、、、。
(どうだい、おれの頭のうえは。
いつから、こんな、
ぺらぺら赤い火になったろう。)
「火なんか燃えてない。」タネリは、こわごわ云いました。蟇は、やっぱりのそのそ這いながら、
(そこらはみんな、桃いろをした木耳だ。
ぜんたい、いつから、
こんなにぺらぺらしだしたのだろう。)といっています。タネリは、俄かにこわくなって、いちもくさんに遁げ出しました。
かくして、
タネリは、慌てて、家(現実界)へと逃げ帰るのです。異界には何があったのか?
怖いけれどでも?行ってみたい?見てみたい?
でも恐怖感が優って逃げかえる。
異界とはおそらく銀河5次元世界なのかもしれませんよね?
そこはヒキガエルが言うように、、
空は赤いぺらぺらの木耳でできてるんでしょうね?
あるいはそこは究極の修羅の世界、あるいは地獄?なのかもしれませんね。
〇種山ヶ原
その先にはキケンな別世界がある、、というお話です。
達治はの下駄馬を追いかけて風の丘で道に迷ってしまう。
どんどん霧が深くなり死の影(異界)が近づいてくる達治はそこで昏倒して、、、
意識を失い、、、
どんな夢を見たのだろうか?
〇月夜のけだもの
動物たちの葛藤です。
ライオンは様々な動物たちに裁定を下します。
その裁定とは?
〇カエルの消滅
これはのちに、「カエルのゴム靴」と改稿されます。
改稿版ではシュール感はあまりなくて結末も、ハッピーエンドですが、、、、
オリジナルのこの「カエルの消滅」では、、、、、
ゴム靴を手に入れて得意のカン蛙は、てんとうむしの娘、ルラと結婚(異類婚?)して新婚旅行に行くが
最後は、木の杭の穴に落ちて死んでしまう。
という、トンデモナイような、シュールなお話。
でも?このシュ-ル感がたまりませんよね。
〇毒もみの好きな署長さん
依存症はやめられないしコワイというお話?です、警察署長であるのにその国の法を犯して
「毒もみ」のとりこになったはてに逮捕されて、、斬首刑になる、
それでも死刑台の上で、、「ああ楽しかった俺はあの世でも毒モミをするぞ」
という署長さんに、みんなは開いた口がふさがらないというお話。
このシュール感、、、、、、、。
〇よく利く薬とえらい薬
母親が病気の清夫は森で不思議な薔薇の実を見つける、その実を母親に食べさせると母親の病気は全快する。、、というお話なのだが、、、、、、。
「一つぶのばらの実を唇にあてました。
するとどうでせう。唇がピリッとしてからだがブルブルッとふるひ、何かきれいな流れが頭から手から足まで、すっかり洗ってしまったやう、何とも云へずすがすがしい気分になりました。空まではっきり青くなり、草の下の小さな苔まではっきり見えるやうに思ひました。
それに今まで聞えなかったかすかな音もみんなはっきりわかり、いろいろの木のいろいろな匂まで、実に一一手にとるやうです。おどろいて手にもったその一つぶのばらの実を見ましたら、それは雨の雫のやうにきれいに光ってすきとほってゐるのでした。」
でも、、、この描写って、、ヒロポンの効果そのものでしょう?当時ヒロポンは合法で売られていたはずですよね?ヒロポンなんて知らない??って。
ヒロポンってのは覚せい剤ですよ。芥川龍之介、坂口安吾。なども愛用者(依存症?)でした。
なんせ当時は合法なんですから、、。
とはいえ宮沢賢治がヒロポンをやっていたかどうかは定かではありません。
というか、たぶん、やってはいなかったと思います。
〇マグノリアの木
真のサトリとは何かというお話です。
『度々の革命や饑饉や疫病やみんな覚者の善です。けれどもここではマグノリアの木が覚者の善でまた私どもの善です。」
諒安とその人と二人はまた恭しく礼をしました。』
革命も、、飢饉も、、、疫病も、、、悟りに至る修行途上での必然である、あって当たり前??
それらは最終的には「覚者の善」であるのだから、、という、、、悟り。
「理不尽な苦難」が聖者の道にはあって当然、、という教えです。
そこらの一般、平凡人にはコワイ教え(サトリ)ですね。
不肖、このわたくし、この宮沢賢治、試論を書いているこの私のサトリもまた、この教えと通有するところがあるのです。
すなわち世界の一切はある意味「なるようにしかならない」という真理、
それは革命であるだろうし
それは飢饉であるだろうし
それは疫病でもあるだろうし、、、
ある意味そうなるしかなかったという深い諦念?
だが
それらはまたある意味、
あるいは起こるべくしてそれらは起こった、、という神の配意?
そうなるしかならなかったという真理からすれば、、やむを得なかった?
いや、、もっと言えば「それらは正しかった}?という真理なのでしょうね。
言葉を変えていえばそれらをありのままに受容する、、ということが
すなわち、、「覚者の善」へと至る求道の道なのだという真理なのでしょうね。
大善は大悪にも通じている??
大きい善は、ある意味、大きい悪にも通底してる。
そういう恐ろしい真理
それが、
聖者の道
究極の求道の道でもあるのでしょうね。
〇若い木霊
若い木霊が異界探訪に出ます、タネリの異稿になります。
「一疋の蟇がそこをのそのそ這って居りました。若い木霊はギクッとして立ち止まりました。
それは早くもその蟇の語を聞いたからです。
「鴾の火だ。鴾の火だ。もう空だって碧くはないんだ。
桃色のペラペラの寒天でできているんだ。」
このお話も「タネリ」と同様に異界探訪、、の手前で怖くなって逃げかえる、、というプロットですね。
じゃあもし本当に異界に行っちまったら、、どうなるのか?
その世界は、、空は桃色のぺらぺらの寒天で出来ていて、、、、まさにシュールなポエムの幻想国?なのでしょうね? あるいは?もッと凄惨な地獄??
〇十力の金剛石
(本当の宝石とはなにか?というお話です)
霧の深い朝、、王子は十力の金剛石を探しに出かけます。そうして
ルビーよりもオパールよりも、トパーズよりも、サファイアよりも素晴らしい
「十力の金剛石」とはいったい何だったのか?
それはみな様ご自分でこの童話をお読みください。
ここではネタ晴らしはしませんので、、、。
〇ポランの広場(初期未定稿)
決定稿の「ポラーノの広場」よりも、こちらの方がより幻想的で面白い?ですよ。
主人公の名はキュステであり、それが小学生のファゼロと伝説の「ポランの広場」を探して
そこで、山猫博士らとの歌合戦に参加する物語で、
決定稿の「ポラーノの広場」よりもより一層ファンタジックな物語となっている。
〇フランドン農学校の豚
もしも?豚に人間同等の知性があったら?
あなたはそんな豚をトサツして、切り刻んでおいしいおいしいと食べられますか?
ベジタリアンの賢治の痛切な訴えが聞こえてきそうですね。
「ところが、丁度その豚の、殺される前の月になって、一つの布告がその国の、王から発令されていた。
それは家畜撲殺同意調印法といい、誰でも、家畜を殺そうというものは、その家畜から死亡承諾書を受け取ること、又その承諾証書には家畜の調印を要すると、こう云う布告だったのだ。
さあそこでその頃は、牛でも馬でも、もうみんな、殺される前の日には、主人から無理に強いられて、証文にペタリと印を押したもんだ。ごくとしよりの馬などは、わざわざ蹄鉄をはずされて、ぼろぼろなみだをこぼしながら、その大きな判をぱたっと証書に押したのだ。」
〇ガドルフの百合
当てもなく旅を続けるガドルフ、
旅の途中、闇夜に出会った、真っ黒で暗い洋館、
そこに入るとそこは無人で、、百合の花だけが咲いている。
その百合の花とは?いったい何だったのでしょうか?
そして、一体ガドルフって何者?
何で旅してる?
それは
一切は謎のままなのです。
〇黄色のトマト
博物館の剥製の小鳥が語った哀しい哀しい兄弟の物語とは?
「ペムペルという子はほんとうにいい子だったのにかあいそうなことをした。」
博物館に展示されてる剥製のハチドリは一瞬だけ生き返って?
博物館を訪れた少年に、ペムペルの哀しい話をしてくれたのだった。
〇ビジテリアン大祭
アメリカで行われた菜食主義者のお祭りという祝祭気分に満ちた物語
集った人々は盛んにベジタリアンの意義についての論戦を戦わせます。
紀行文的なレポート?といった感じです。
〇ペンネンネンネンネンネネムの伝記
グスコーブドリの原話未定稿版です。
ここでは全くの異世界である「化け物の国」で
ネネムが繰り広げる奇想天外なある意味シュール極まる
オハナシとなっています。
後の決定稿である
「グスコーブドリ」とは全く乖離した
現実味のない異世界の完全なファンタジーとなっています。
なんというか例えばアルフレッド・ジャリとか、、アポリネールの「奇想譚」でも読んでいるような、、
シュール感?とでも言ったらよいような、、読書感、、でしょうか??
〇気のいい火山弾
これは常不軽菩薩、、のアレゴリー譚です。軽んじられた来た存在が最後に
高みに昇天するという、、、。平凡なありふれた存在だと思っていたら
実は、、すごい存在だった、、という。
〇サガレンと八月
この主人公はタネリです、そうです。あの「タネリは、、一日噛んでいた、、、」の、異稿になります。
ここではタネリはついに異世界に逝っちまう?のですが、、
さあ異世界はどんなところだったのでしょうか?
浜辺に出かけたタネリはおっかさんの禁を破りクラゲを透かして異世界を垣間見てしまう、
するとギリヤークの犬神があらわれてタネリを異世界に連れ去ってしまうのです。
連れていかれた世界は青白いぼんやりした世界でそこでタネリは蟹に変えられてしまいチョウザメの下男にされるという、、おそろしい世界だったのですが、、そこでこのお話は中断されて未完に終わっています、
実はタネリの兄も以前浜辺で行方不明になっていたのでした。だからおっかさんはタネリに注意していたのですが、、、、。
〇学者アラムハラドの見た着物
ここでは人間の真の道である自己犠牲について語られるのです。
アラムハラドは良家の子弟11人を教えている。
ある日アラムハラドは子供たちにこう問いかける。
「、、、、、、けれども一体どうだろう、小鳥が啼かないでいられず魚が泳がないでいられないように人はどういうことがしないでいられないだろう。人が何としてもそうしないでいられないことは一体どういう事だろう。考えてごらん。」
子供たちはそれぞれ思いついたことをこたえるのだが、タルラという子供はこう答える。
「 タルラがまるで小さな獅子のように答えました。
「私は饑饉でみんなが死ぬとき若し私の足が無くなることで饑饉がやむなら足を切っても口惜しくありません。」
アラムハラドはあぶなく泪をながしそうになりました。」
そしてさらにアラムハラドは内心では一番愛しんでいるセララバードという子供にも尋ねる。
「小さなセララバアドは少しびっくりしたようでしたがすぐ落ちついて答えました。
「人はほんとうのいいことが何だかを考えないでいられないと思います。」
アラムハラドはちょっと眼をつぶりました。眼をつぶったくらやみの中ではそこら中ぼうっと燐の火のように青く見え、ずうっと遠くが大へん青くて明るくてそこに黄金の葉をもった立派な樹がぞろっとならんでさんさんさんと梢を鳴らしているように思ったのです。アラムハラドは眼をひらきました。子供らがじっとアラムハラドを見上げていました。アラムハラドは言いました。
「うん。そうだ。人はまことを求める。真理を求める。ほんとうの道を求めるのだ。人が道を求めないでいられないことはちょうど鳥の飛ばないでいられないとおんなじだ。おまえたちはよくおぼえなければいけない。人は善を愛し道を求めないでいられない。それが人の性質だ。これをおまえたちは堅くおぼえてあとでも決して忘れてはいけない。おまえたちはみなこれから人生という非常なけわしいみちをあるかなければならない。たとえばそれは葱嶺の氷や辛度の流れや流沙の火やでいっぱいなようなものだ。そのどこを通るときも決して今の二つを忘れてはいけない。それはおまえたちをまもる。それはいつもおまえたちを教える。決して忘れてはいけない。」
確かに「足を切ってでも飢饉の人々を助けたい」という自己犠牲の道も真実なのだがそれ以上に
人間の求めるのは「ほんとうの道」であるというのだ。
人間の道とは
「本当の(善)を愛し求めること」
「本当の(まこと)を求めること」
この二つだというのだ。
ここでは賢治のそれまで求めてやまなかった自己犠牲という崇高な菩薩行は
さらに高次の「善」と「まこと」に集約されているのである。
究極の善とは?
究極のまこととは?
おそらく賢治が最後にたどり着いた究極のサトリとは
この二つの真理を全身全霊で希求するということだったのでしょうね。
これが賢治の法華経理解の終着点であり
また「法華経」を超えた?法華経の賢治なりの新解釈、あらたな?賢治が始めた?新宗教であるところの「賢治教」でもあるのでしょうね?
ただし、この彼の説く新宗教?である「賢治教」では
「究極の善」とは、、そこらに転がっているような「みんな、よいこになりましょうね」
などというような、、、
ソンナ浅薄なものでないことは言うまでもありません。
「究極の善」とはそれはもしかしたら知恵の完全否定である「究極の愚」であるのかもしれません。
あるいはもしかしたら?究極の善とは
ミミズを助けるためにすら死んでもいいという「究極の捨身」??なのかもしれない。
あるいは、その人を究極の救いに至らせるために?あえて、殺してあげることが「究極の救済」?なのかもしれません。
究極の善とはそういう恐ろしい側面を持った、、まさに究極の真理なのです。
使い方次第では狂気。凶器。狂鬼?にもなりかねない、
恐ろしい真理なのです。
どっかの新興カルト宗教がかつて
「この人の魂の救済のためにポアした」、、というような、、
使い方によっては狂気の要素もはらんだものでもあるのです。
正にこの究極の真理は、金剛乗 (ヴァジラヤーナ)の仏智(三昧耶知)をもってしなければ
「両刃の剣」であるということなのです。
そういう意味で「究極の善」とはまさに聖者への道であり
究極の求道であるということなのです。
究極の真理とは、こういうように
本当は、とっても、すごい恐ろしいテーゼなのです。
そこらにいくらでも転がっているような、、、そんな、、、
甘ったるい「よいこちゃん童話」的な教えなんかじゃあないということなのです。
☆ 最後に
さて、、、、、
以上のような賢治童話の未定稿には
まだまだ
これら以外にもあなたが知らないような、、、
いくらでもディープでダークな作品がありますので
ご自分でお探し下さり
ぜひ、お読みください。
そしてあなただけの
極私的な
偏愛的な
ブラックメルヘン作家??としての
「ミヤザワケンジ」を
再発見してくださいませ。
なお、、宮沢賢治を本当に理解するためには
彼が熱烈に信仰し、依拠した
生涯を賭けた「法華経」を知らずしては、不可能ですので
ぜひこちらもご参照くださいませ。
法華経の超大奇跡
https://ncode.syosetu.com/n8743by/
よろしければこちらもどうぞ↓
私の「宮沢賢治論」試論です
https://ncode.syosetu.com/n8873fh/
https://ncode.syosetu.com/n0400by/
https://ncode.syosetu.com/n5505dx/
https://ncode.syosetu.com/n2585df/
https://ncode.syosetu.com/n1725df/
https://syosetu.com/usernovelmanage/top/ncode/832502/
※「ひかりの素足」に出てきた如来寿量品 ニョライジュリョウボン とは?
※如来寿量品 にょらいじゅりょうぼん 法華経第16節
法華経の熱狂的な信者の宮沢賢治が特に感涙にむせんだという法華経の章節が
これです。、
ここでは仏の無限の命が説かれます。
仏は過去・現在・未来に渡って永遠に存在する「久遠仏」エターナル・ブッダであることが解き明かされるのです。
とくにその中のたとえ話が印象的ですね。
あるところに多くの子供を持つ医師がいた
ある時子供たちは誤って毒薬を呑みもだえ苦しんでいた。
帰ってきた医師は早速良薬を作り呑ませようとしたのだが
子供たちは意識もうろうとして、狂ってしまいどうしても飲もうとしない、。
それで医師は家を出て自分は死んだという知らせを使者に持たせて家に遣わした。
それを聞いた子供たちはハッと正気に戻り、置いてあった薬を飲んで助かったという。
医師も急いで家に戻り、「私は生きているよ」と子供たちと抱き合ったのである、
これを「良医治子のたとえ」というのです。
このたとえばなしを終わった世尊は重ねてこう教えられたのである。
「私はいつでもこの現実世界のどこににでもいる。この現実世界こそがそのままで浄土なのだから。
わたしを見たければいつでも見られるのだ。人々は現実世界を苦しみに満ちあふれていると思っているが
それは架空の姿にすぎない。人々は苦しみしか見ないが実はこの世界は浄土に満たされているのだ。
信じなさい。そうすれば浄土が見えるはずです」
☆付論
宮沢賢治の童話における文体論とは?
いわゆる文学としての用語法、、として宮沢賢治の文体を見た場合、
はっきり言って彼の「文章力」はなんというか、「小学生レベル」??です。
まあ童話だから小学生にもわかるような文体?
とはいえ、、
賢治の文章とは、、、
いわゆる流麗なる「名文」でもないし、、、
いわゆる滔滔とした「美文」でもないし、、
それどころか、
間違った用語法や
自己流の文章法を
使ってさえいますね。
文章だけを見れば宮沢賢治は「落第」です。
ということは?
宮沢賢治の童話は、、小説は、、文学は、、
美文や
名文じゃあない
もっと別の次元の内容を提示したかった?ということでしょう。
つまり名文や美文などでは伝わらないような
「トンデモナイ」ことを彼は伝えたかった?
ということなのでしょう。
それは何だったのか?
私が以上述べてきた「ブラックメルヘン」?としての彼の童話を既にお読みのあなたには
もうお分かりですよね?
言葉を超えた銀河5次元世界の真理
カルト経典、法華経の宇宙真理
そしてそれへと至るべき「聖者の道」を模索した
完璧な「宗教小説」なのです。
それらを彼は独特のオノマトペや
独特の言葉で伝えたかったのでしょう。
そうです
みなさん
宮沢賢治を誤解してはいけません。
宮沢賢治の作品群は決して
いわゆるそこらにいくらでも転がってるような「童話」などではありえないのです。
彼の作品群は完璧なる「宗教小説」なのですから。
完
付記 2019.8、31記
宮沢賢治という人はあらゆることに興味を持った人で、
そのかかわった分野は
童話
ポエム
劇
音楽
教育
科学
宇宙論
宗教(法華経)
農業
社会運動
自然学
鉱物学
地質学
造園
肥料学
薬品学
社会福祉
などに及んでいる
だから宮沢賢治へのアプローチとしては
様ざまな扉があるということです。
私のようなブラックメルヘンとしてのアプローチもあれば
宗教学的アプローチもあるだろうし
賢治ワールドのの「森は深く広い」のです。
たとえば今日聞いたラジオ深夜便では音楽からのアプローチが
とても興味深かったですね
どんな放送だったかは
NHKのオンデマンドでおききくださいませ
賢治がジャズが好きだった?
浅草オペラも好きでみていた?
一番のお気に入りはベートーベンだった?
追記、宮沢賢治の全作品は「あおぞら文庫」でネット上で、無料で読むことができます。