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女の時間

作者: うぐいふみ

 東のカーテンを開けると寝室はオーブンになった。

 まだ早朝なので気温はさほどでもないが、真夏の直射日光は浴びればそこだけ焼かれる様に熱い。

「あなた、もうそろそろ起きないと」

 夫は寝惚け眼でベッドから半身を起こし、あくびをしながら寝癖の頭を掻いた。

「ああ、何か今日はよく寝たな……」

 いつもならこの時間になれば大抵一人で起きてくるのだが、今朝は寝過ごしてしまったらしい。

「そういや、昨夜は鳴いてなかったな。隣の犬」

 隣の犬は救急車や消防車のサイレンが鳴るたびに遠吠えをする。

「昨日は通らなかったんでしょう。そういう日もあるわよ」

「平和で結構。いつもそうだとこっちも助かるんだがな」

 夫はベッドから降りると寝間着を脱ぎながら洗面に向かった。


 夫が車で出勤するのを細やかな我が家の門の前まで出て見送り、足下に目を落として彼女はほっとした。

 今日は糞がない。

 ここのところ毎日犬の糞がしてあって困っていたのだ。

 犯人はわかっていた。隣の和田さんだ。ゴミを捨てに早めに起きたとき、犬を連れたジャージ姿の和田さんが門の脇でしばらく立っていたのを目撃したことがある。苦情を言いにいこうかと思ったがやめておいた。つい数カ月前にこの土地に家を買って住み着いた新参者の身としては、御近所付き合いに波風を立てたくなかったのだ。

 しかし、今日は糞がない。

 それだけで何だかうれしくなった。

 ここ最近ないくらいの清々しい気分で彼女は家の中に戻った。

 

 

 午後に和田さんの奥さんが訪ねてきて犬を見かけないかと言った。

「さあ。知らないけど。どうかしました?」

「それが昨日から見当たらないのよ。どこ行っちゃったのかしら」

「でも、繋いでありますよね。いつも」

「それがリードが切れてて……。悪戯かしらねえ」

「最近物騒な事件も多いですしねえ。もし近所で見かけたら知らせます。何て名前でしたっけ」

「ペスよ。まあ、呼んだぐらいじゃ反応しないと思うけど。ウチのはバカ犬だから」

 和田さんは笑うと玄関のドアを開けて軽く頭を下げた。

「じゃあ、すいませんけど。もし見かけたらよろしくね」

 

 ――すっかり忘れていた。

 

 和田さんの足音が遠く消えていくのを確かめて、勝手口から裏庭に出る。

 物置を開けると、むっと異臭がした。

 真夏にまる一日、蒸し風呂のような換気のまったくないところに置いておいたのだから無理もない。早く始末しなければならなかった。そんなに大型犬でもないから自転車で十分だ。段ボール箱に詰めて近くの雑木林に埋めておけばいいだろう。ちょっと遠出をして川に捨てるという手もある。それとも庭の隅の方が手間がかからなくていいだろうか。

 あれこれ考えた末、もう夕飯の支度までそんなに時間もなかったので庭の隅に決めた。物置とは反対側にある、引っ越し記念に植えた桜の樹の下だ。取りあえず明るいうちに穴だけは掘っておき、夜夫が長風呂に入っている間を見計らって根本近くに埋めた。

 明かりのない場所での作業は思いの外大変だったが気分は晴れやかだった。

 これで糞害にも夜中の気分が滅入るような鳴き声にも悩まされなくて済む。夫も枕を高くして眠れるだろう。そうでなくとも工場での作業は単調で眠気を誘う。うっかりミスで指や手を失った同僚もなくはない。夫にとって睡眠不足は大敵なのだ。

 一介の作業員の夫に出世は望まないが、毎日ケガなく余計な心労もなく健康で過ごしてほしい。

 そのためなら万難を排することなど彼女にとっては何でもなかった。むしろそれが妻の務めだと思っている。

 作業を済ませると彼女は勝手口からダイニングキッチンに戻った。

 

 

 翌年の春。

 庭の桜は見事に満開となり、彼女は夫と自宅で夜桜見物を愉しんだ。

 隣の和田さんとは相変わらずつつがなく過ごしている。

 和田さんはいなくなったペスの代わりに新しい犬を飼ったが、それもあまり長くは居着かなかった。その次の犬も。その次も。

 最近は犬を飼うことは諦めたようだ。無趣味らしい和田さんの奥さんは、最近気分が優れず無聊を託っているらしい。

 そうだ。

 明日にでも我が家の夜桜見物に招待しよう。

 御近所同士は仲良くしておくに越したことはないのだから。

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