新しい日々の始まりは
携帯電話が発するアラーム音で、半ば強制的に眠りの世界から引きずり出される。
カーテンの隙間から、矢のような光が差し込んでいた。
普段鳴ることのない僕の携帯電話は、完全に目覚まし時計と化していた。
五分ほど天井を見上げた後、僕はゆっくりと上体を起こした。眠い目をこすりながらソファーを見ると、月はまだソファーで寝息を立てていた。
僕は月を起こさないようにそっとベッドから降りると、朝のルーチンワークをこなし始めた。
寝巻きを脱ぎ、洗面所へ行き身だしなみを整える。トーストを焼きながらお湯を沸かしつつ、頭を乾かす。トーストが焼ける頃には学校へ行く準備は整っていた。
"平ちゃん"
二人分のパンが焼きあがった頃、月がもぞもぞと起きてきた。
"なんで起こしてくれないんだよお"
月が非難じみた視線を、トーストを食べる僕に投げかけた。
「ごめんごめん、朝はあんまり時間ないから」
そう言いつつ、コーヒーを飲みながら食器類を台所に片付けた。
「じゃあ月、学校行ってくるから。お腹空いたらなにか適当なものでも食べてて。あ、もし晩御飯なにかリクエストがあったらテレパシーででも教えて」
僕はそう言い残すと、玄関に行き靴を履いた。
"ちょっと、平ちゃん、待ってよ"
「行ってきます」
僕はドアを開けて外に出た。
朝特有の空気を胸に吸い込む。そういえば行ってきますを言うのはどれくらいぶりだろうかと考えながら、僕はアパートの階段を降りた。
いつもすれ違うだけのスーツ姿の男性。犬の散歩をしている主婦。いつもどおりの風景だった。
当たり前と言えば当たり前だった。世界が変わったわけではない。僕の見方が変わっただけなのだ。
そんなことを考えつつ、多くの学生が集う校門に僕も吸い込まれていった。
ガラガラと教室のドアを開ける。
一瞬こちらを見るクラスメイト達の視線を感じるが、すぐにそれらは対象物に興味をなくしたように元に戻る。いつもどおりの反応だった。
僕は教室のドアを閉めて、自分の席に着席した。
次々に生徒が教室に入ってきて、朝の挨拶が交わされる。
授業が始まるまでおよそ5分間。特にやることのない僕は、ボーッと窓の外を見ていた。
「おはよってば、平次!」
「!んぇ!?」
朝の挨拶の言葉が自分に向けられていたことに全く気がつかず、僕は必要以上にアタフタとした姿を晒してしまった。
「何だよその反応。挨拶知らない国の人かよ」
「お、おはよう…え、そんな国あるの?」
「知らん」
笑いながら自席に着いたのは、葉だった。その周りにはすぐに数人の仲間達が集まってきた。
「葉、あいつと喋るっけ?えーと…名前わかんねぇや」
一人がおどけた調子で笑いを誘う。
…そういうのはせめて本人に聞こえないように言って欲しいものだ。
どうやら彼らは、僕の名前を覚えていない様子だった。クラスメイトの名前くらい覚えろと言いたくもなるものだが、それについては何も言えない。何しろ僕も、クラスメイトの名前なんか昨日まで一人も覚えていやしなかったのだから。
チャイムが鳴り終えるのとほぼ同時に教室のドアが開き、担任の相澤が教室に入ってくる。リムレスフレームのメガネにスーツといった出で立ちの、いかにも几帳面そうな男だった。
「席に付け、朝礼を始める」
端的に告げると、担任は連絡事項を告げ始めた。
「―――来週末にはオリエンテーションが予定されている。4人1組になるよう、班を作っておくように。それからもう一点。転校生を紹介する」
転校生という単語に、クラス内に小さなざわめきが走った。
今日は伝達事項が多いなあとぼんやり聞いていたが、転校生なる人物がドアを開けて入ってきてすぐに、僕の目は見開かれることになった。
担任が黒板にカツカツと気持ちのいい音を立てて、白いチョークで名前を書いた。
「藤間奈月さんだ。彼女はしゃべることができない。転校したばかりで不自由な事もたくさんあるだろうから、フォローしてあげるように」
制服に身を包み、にっこり笑った月が教壇の前に立っていた。




