第三章 黒い使徒 束の間の安らぎの中で
「エディーネは、海を見るのが初めてなのか?」
エディーネが振り返ると、眩しい太陽の光の中に佇む青年が目に入った。
「キリア殿、海というものがこれほどに雄大で美しいものだとは知りませんでした」
恋する少女のように、頬を紅潮させて熱弁する。
「世界には四つの海があると聞きますが、他の海もこのように美しいのでしょうか?」
目を輝かせ、嬉々とした表情を浮かべる。
そこには、王国に無実の罪を着せられ厳しい逃亡生活を送る王女の苦悩は見えない。
つかの間に流れる平穏の時。
それは、長く続かないことは十分に理解している。
だからこそ、この限られた時間……次にいつ訪れるとも知れない時間を大切にしたいのだ。
「それぞれが、いろいろな表情を持っている。北は氷塊が幾つも浮かぶ危険な海。西と東は荒れ狂う波が印象的だった」
腕組みをしながら、昔を思い出すようにしみじみと言った。
「そうなのですか」
意外な答えに驚きながらも、今は目の前に広がる絵画のような光景を楽しんでいる。
そもそも、この二人がフォルーガ海の真ん中を航行する輸送船に乗ることになったのは二日前までさかのぼる。
連日続いた大雨のために、深い霧が立ち込めるカース埠頭で足止めを受けていた時だった。
元々、カース埠頭周辺は霧が発生しやすい地域なのだが、これほど濃厚な霧の中では小型の船舶で沖の出ることは自殺行為に等しかった。
それでなくても、交易ルートの終点に位置するルーゼル港はカース埠頭からどれほど急ごうとも四日はかかる。