第三章 黒い使徒 もう一つの顔
「美しい月ですね……」
グラスを傾けて赤いワイン越しに、夜空に輝く月を眺めて呟く男。
紅に染まる月は、グラスが揺れるたびにその姿が霞む。
夜も深まる頃、王宮一階のテラスに出て、愛飲の赤ワインを片手に心地よい風に吹かれることが男の至上の喜びだった。
口に含み、鼻に抜ける濃厚な葡萄の香りを楽しむ。
裾の長い黒く染め上げられた下地には紫のラインが二つ入っていた服。
それは、上位に位置する重臣にのみ着用を許された誉れ高き文官服。
ホーキン公爵レナード・ロゼは、今年で五十歳になる。
しかし、黒々とした艶やかな髪はきれいに整えられ、その美しい容姿には一切の衰えを感じさせない。
長身痩躯の体つきは、詩人か学士のような印象を受ける。
セフィーリア王国でも数多の重役に就き、現在国王が体調不良により公務を果たせずにいるなか、その卓越した政治手腕をもって王国が乱れることを防ぎ、見事に統率していた。
あまりの手際の良さに、一部の貴族は『ホーキン卿はセフィーリアの王にでもなられたか』と妬みに近い感情を抱いている。
しかし、ホーキン卿はその都度に、オルゴールの音色のように同じ言葉を繰り返した。
……私は、国王陛下にお仕えする臣下に過ぎません。
今は、不幸にも陛下の体調が優れませんが故に、恐れ多くも国政の重要な決定事項を決断させて頂きます。
思い起こせば、ここしばらく夜風に吹かれる心地よさを忘れていた。
思わず、含み笑いを浮かべてワインを口に運ぼうとしたときだった。
「お時間よろしいですか?」
背中越しに聞こえたのは、まだ若い青年の声だった。




