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婚約破棄されたので、殿下にお贈りした物の返却目録を読み上げます

掲載日:2026/10/20

「クラリス・エルンスト! 貴様との婚約を、今この場で破棄する! これまで贈ってやった物も、すべて返してもらうぞ!」


「かしこまりました、エドガー殿下。では、返却目録を読み上げますね」


私はドレスの隠しから、三年分の帳面を取り出した。


王宮の大広間。卒業を祝う夜会で、ちょうど楽団の演奏が途切れた瞬間だった。


殿下の腕には、桃色の髪をふわりと巻いた男爵令嬢――ミレーユ様が絡みついている。


その胸元で揺れる真珠の首飾りに、私は見覚えがあった。


先月、殿下が「母上への贈り物だ」と言って、私の実家の商会でツケにした品だ。


「……は? 目録?」


殿下が眉をひそめる。周囲の貴族たちも、扇の陰でひそひそと囁き合い始めた。


「はい。お返しに漏れがあっては殿下がお困りになるでしょうから。婚約が決まった日から、頂いた物と差し上げた物を、すべて記録しておりました」


「差し上げた物、だと?」


「ええ。返却は相互に、が礼儀でございましょう?」


私はにっこりと微笑んだ。


社交界で私につけられたあだ名は《地味な刺繍令嬢》。


華やかな会話も流行りのドレスも苦手で、いつも隅の椅子で針を動かしている女。殿下の婚約者の座に、家柄だけで収まっている女。


そう思われていることは、知っている。


今夜までは、それで構わないと思っていた。


「目録など知らん! それより貴様、ミレーユに何をしたか忘れたとは言わせんぞ!」


殿下が、ミレーユ様の肩を抱き寄せる。


「クラリス様は……私の教科書を破いて、噴水に突き落とそうとなさったんです……っ」


ミレーユ様が、大きな瞳を潤ませた。


どこかで聞いた筋書きだ。最近王都で流行りの恋愛小説に、そっくり同じ場面があった気がする。


「それは、いつのことでしょう?」


「せ、先月の十日の、午後です!」


私は帳面をめくった。


「先月十日の午後。私は王妃様のお茶会で、王妃様のショールに刺繍をしておりました。三時から日没まで、一度も席を立っておりません」


「ええ、その通りよ」


玉座の隣から、穏やかな声が降ってきた。


王妃様だった。そのお肩には、私が刺した白百合のショールが掛かっている。


「あの日はわたくしの隣で、ずっと針を動かしていたわね。おかげで肩こりがすっかり治ったわ」


ミレーユ様の顔が、さっと青ざめた。


殿下は「う、ぐ」と言葉を詰まらせ、それから誤魔化すように声を張り上げた。


「と、とにかく! 婚約は破棄だ! 贈った物を返せ!」


「ですから、返却目録を」


私は、もう一度にっこりと笑った。


*


「まず、殿下から頂いた物を読み上げます」


私は帳面の一頁目を開いた。


「一。婚約の記念に、銀の髪飾り」


髪から外し、侍従が慌てて差し出した銀盆にそっと置く。


「二。誕生日の薔薇の花束、三回分。……申し訳ありません、枯れてしまいましたので、押し花にしたものをお返しします」


栞を三枚、盆に並べる。


どこかで、誰かが小さく噴き出した。


「以上です」


「……以上?」


「はい。三年間で、以上です」


大広間が、しんと静まり返った。


殿下の頬が、みるみる赤く染まっていく。


「そ、それは! 私は王太子となる身として、多忙を極めて――」


「存じております。ですから続いて、私から殿下へ差し上げた物を読み上げますね。少々長くなりますので、皆さま、どうぞお掛けになってお待ちくださいませ」


私は帳面をめくった。こちらは、頁がびっしりと埋まっている。


「一。殿下の礼装に施した、《威風》の加護刺繍」


指先で、宙の糸をつまむように引く。


ぷつり。


殿下の白い礼装の襟元から、金の糸がするすると解けて、私の手のひらに巻き取られていく。


最後に、襟の裏に隠した小さな青い星がほどけた。私がいつも、針仕事の終わりに入れる印だ。


その瞬間――殿下の背が、ほんの少し丸まったように見えた。


いいえ、違う。


もともと殿下は、こういう立ち姿の方なのだ。


「な、何をした!」


殿下の声が、ひっくり返った。


「お返しいただいただけです。皆さまが殿下を『王者の風格がおありだ』と褒めてくださっていたのは、この刺繍の効果でした。三か月かけて縫ったものなので、少し惜しいのですけれど」


ざわめきが、さっきまでとは違う色を帯びる。


「威風の加護……?」


「宮廷魔術師でも扱いの難しい術式では」


「それを、刺繍で?」


私は構わず、次の行を読んだ。


「二。殿下の佩剣の鞘に施した、《不壊》の加護刺繍」


ぷつり。


殿下の腰の剣が、ほんのわずかに傾いた。


剣術大会で三年連続優勝した、殿下ご自慢の剣である。


「大会で、対戦相手の方の剣ばかり折れていたのはこちらのせいです。皆さまには申し訳ないことをしました。後日、お詫びの品をお届けいたしますね」


騎士たちが並ぶ一角から、「やっぱりか……」という呻き声が漏れた。


「三。殿下の演説原稿、三年分。計百十二本」


「なっ――」


「最初は『少し手直しを』というご依頼でしたが、いつの間にか白紙をお渡しされるようになりましたので。控えはすべてこちらにございます。今後のご使用はご遠慮くださいませ」


私は提げてきた鞄から紙の束を取り出し、盆の横にどさりと置いた。


侍従が、もう一枚盆を持って走ってくる。


「それと――明日の立太子の儀でお読みになる宣誓文も、私が書いたものです。こちらも、返していただきますね」


殿下の顔から、すうっと血の気が引いた。


「四。隣国ラディスとの通商協定、殿下名義の素案。来月の調印予定分です」


「待て! それは私が――」


「殿下がお書きになったのは、表紙のご署名だけですわ」


壇上近くの席で、宰相閣下が額を押さえるのが見えた。


閣下は以前から、殿下の素案の筆跡が妙に丁寧なことに、首をかしげていらしたのだ。


「五。エルンスト侯爵家から王家への、婚約に伴う資金援助。および、殿下の私的なお買い物のツケ」


私は帳面に挟んでおいた一枚の請求書を、盆に載せた。


「父から、本日付で清算をお願いするよう申しつかっております。たとえば――真珠の首飾り、一点。『母上への贈り物』とのことでしたが」


私は、ミレーユ様の胸元にちらりと視線をやった。


「王妃様のお首元には、今夜も見当たりませんわね」


ミレーユ様が、ぱっと首飾りを手で覆った。


玉座の隣で、王妃様が静かに扇を閉じる。


ぱちん、というその音が、やけに大きく広間に響いた。


「以上、五項目です。細目はこちらの帳面に記してありますので、のちほど写しを王室事務局へ提出いたします」


私は帳面を閉じ、深く一礼した。


「エドガー殿下。三年間、お世話になりました。どうかミレーユ様と、お幸せに」


*


「――ふざけるなっ!」


殿下が叫んだ。


その声にはもう、かつてのような張りはなかった。ただ甲高いだけの、若い男の声だ。


「刺繍だと? 原稿だと? そんなもの、誰にでもできる! お前の代わりなど、いくらでも――」


「では、殿下」


低い声が、広間の空気を断ち切った。


人垣が、海が割れるように左右へ退いていく。


その中央を歩いてきたのは、銀灰色の髪をした、背の高い男性だった。


飾り気のない黒の軍礼装。左の頬に、古い刀傷がひとすじ。


北の国境を十年守り続けている、グラーフ辺境伯――レオンハルト様。


辺境から滅多にお出にならない方で、私も遠目にお見かけしたことしかない。


「その『誰にでもできること』を、どなたか今ここで、彼女の代わりにやってみせていただけますか」


広間の誰も、答えなかった。


宮廷魔術師長でさえ、目を逸らした。


辺境伯様は殿下から視線を外し、胸元から一枚の布を取り出した。


色褪せた、小さなハンカチだった。


その端に、青い糸で、小さな星がひとつ。


――見覚えがある、どころではなかった。


「五年前、王都の慈善市で買ったものです」


辺境伯様は、ハンカチを手のひらに載せたまま言った。


「戦場に持っていくと、不思議と矢が逸れた。十年で負った傷のうち、これを持つようになってから負ったものは一つもありません」


慈善市。


十三歳の私が、母に連れられて初めて出店した市だ。売れたのは、たった一枚だけだった。


買ってくださったのは旅装の若い騎士様で――顔は、よく覚えていない。


「お礼を言いたくて、縫った方をずっと探していました。今夜、殿下の襟からほどけた糸の最後に、同じ星を見つけるまでは」


彼は、まっすぐに私を見た。


灰色の瞳が、思っていたよりずっと、あたたかかった。


「そ、それは慈善市にお出ししたものですから……お返しいただく必要は、ございません」


やっとのことで、それだけ言う。


辺境伯様は、ほんの少しだけ目元を緩めた。


「よかった。返せと言われたら、困るところでした」


そして――彼は、私の前に片膝をついた。


大広間に、今夜いちばんのどよめきが走る。


「クラリス・エルンスト嬢。あなたの目録に、一行書き足させていただけませんか」


「……一行、ですか?」


「『グラーフ辺境伯レオンハルトより、生涯の忠誠と、それ以外のすべて』」


彼は、私の手を取った。


剣を握る人の、硬くて大きな手だった。


「こちらは、返却を受け付けません」


私は、帳面の最後の頁を開いた。


真っ白だった。


この三年間、そこに書くべきものは何ひとつなかったから。


「……ペンを、お借りしてもよろしいでしょうか」


声が震えたのは、きっと、広間が暑すぎたせいだ。


*


夜会を抜け出したバルコニーは、ひんやりと涼しかった。


「……本当に、よろしかったのですか」


手すりにもたれたまま、私は隣の人に尋ねた。


「何がです」


「私は、たった今婚約を破棄されたばかりの女です。明日には王都中の噂になります。辺境伯様のお名前にも、傷が」


「傷なら慣れています」


レオンハルト様は、左頬の刀傷を指で軽く叩いた。冗談を言ったのだと気づくのに、少し時間がかかった。


「それに、急いだ理由もある」


「理由?」


「今夜、あの広間にいた男の半分が、あなたを見る目を変えた」


彼は、夜空に視線をやったまま言った。


「明日の朝には、求婚の手紙が侯爵家に山ほど届くでしょう。その前に、一行目を取っておきたかった」


「……一行目」


「目録は、上から順に読むものでしょう」


耳まで熱くなって、私は帳面を胸に抱きしめた。


この人は、真顔でとんでもないことを言う。


「五年、探しました」


ぽつりと、低い声が落ちた。


「北の砦で矢が逸れるたびに、思っていた。この星を縫った人は、どんな顔で針を持つのだろうと」


彼の手が、私の指先にそっと触れる。針だこの残る、ちっとも令嬢らしくない指に。


「――思っていたより、ずっと綺麗な手だ」


私はもう、何も言えなかった。


*


一方、その後の王宮は大騒ぎだったらしい。


翌日の立太子の儀で、エドガー殿下は宣誓文を一行も読めなかった。


原稿のない殿下は要点の定まらない話を延々と続け、最後には「とにかく、私は王になる!」と叫んで、儀式は中断。


通商協定の素案については宰相閣下が調査を始め、資金援助の清算は、王家の財務官たちを三日三晩眠らせなかったという。


陛下はエドガー殿下に謹慎を命じ、立太子は無期限の延期となった。


ミレーユ様は、真珠の首飾りを王妃様に「お返し」して、ご実家へ帰られたそうだ。


剣術大会でエドガー殿下に剣を折られた騎士たちには、私から新しい剣帯を贈った。


もちろん、《不壊》の刺繍入りで。


*


謹慎の解けたエドガー殿下が北の城を訪ねてきたのは、あの夜から三か月後のことだった。


「クラリス! 戻ってきてくれ!」


城門の前で、殿下は馬から転げ落ちるように降りてきた。


礼装の襟は、ほつれていた。


「新しい刺繍師を十人雇ったが、誰もあの加護を縫えない。演説の原稿も、まともなものが一本も上がってこない。……ミレーユも、いなくなった」


「左様でございますか」


「お前が戻れば、すべて元通りになる。婚約破棄は撤回してやる。だから――」


「お断りいたします」


私は、隣に立つ人の腕に、そっと手を添えた。


「殿下。返却は、もう済んでおります」


殿下が何か言い返すより先に、レオンハルト様が一歩前へ出た。


「エドガー殿下。妻への御用は、今後すべて私を通していただきたい」


「つ、妻……?」


「先月、式を挙げました。招待状は、王宮にもお送りしたはずですが」


殿下は口を開け、閉じ、それからもう一度開けた。


結局、何も言わずに馬に乗り、来た道を帰っていった。


ほつれた襟が、北風にぱたぱたとはためいていた。


*


それから、半年。


北の辺境伯領の城で、私は今日も帳面を開いている。


表紙には、新しく書いた題名。


《頂いた物の目録》


「クラリス、また書いているのか」


背後から、大きな腕に包まれた。


振り向かなくても分かる。この城で、私の書き物を後ろから覗き込む人は一人しかいない。


「だって、毎日増えるんですもの。今日だけで、温室の苺と、毛織の膝掛けと、北の湖で採れた青い石と――」


「書かなくていい」


「書かないと、お返しが分からなくなります」


「返さなくていい」


レオンハルト様は、私の手からペンをそっと取り上げた。


それから、目録の一番上――一行目に書かれた、あの夜の私の字を、指でなぞった。


『グラーフ辺境伯レオンハルトより、生涯の忠誠と、それ以外のすべて』


「これを返却しないと約束してくれれば、それでいい」


私は笑って、彼の胸に背中を預けた。


帳面は、今日も頁が足りなくなりそうだ。


けれど、返却の予定は――


この先ずっと、一行もない。


(了)


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