婚約破棄されたので、殿下にお贈りした物の返却目録を読み上げます
「クラリス・エルンスト! 貴様との婚約を、今この場で破棄する! これまで贈ってやった物も、すべて返してもらうぞ!」
「かしこまりました、エドガー殿下。では、返却目録を読み上げますね」
私はドレスの隠しから、三年分の帳面を取り出した。
王宮の大広間。卒業を祝う夜会で、ちょうど楽団の演奏が途切れた瞬間だった。
殿下の腕には、桃色の髪をふわりと巻いた男爵令嬢――ミレーユ様が絡みついている。
その胸元で揺れる真珠の首飾りに、私は見覚えがあった。
先月、殿下が「母上への贈り物だ」と言って、私の実家の商会でツケにした品だ。
「……は? 目録?」
殿下が眉をひそめる。周囲の貴族たちも、扇の陰でひそひそと囁き合い始めた。
「はい。お返しに漏れがあっては殿下がお困りになるでしょうから。婚約が決まった日から、頂いた物と差し上げた物を、すべて記録しておりました」
「差し上げた物、だと?」
「ええ。返却は相互に、が礼儀でございましょう?」
私はにっこりと微笑んだ。
社交界で私につけられたあだ名は《地味な刺繍令嬢》。
華やかな会話も流行りのドレスも苦手で、いつも隅の椅子で針を動かしている女。殿下の婚約者の座に、家柄だけで収まっている女。
そう思われていることは、知っている。
今夜までは、それで構わないと思っていた。
「目録など知らん! それより貴様、ミレーユに何をしたか忘れたとは言わせんぞ!」
殿下が、ミレーユ様の肩を抱き寄せる。
「クラリス様は……私の教科書を破いて、噴水に突き落とそうとなさったんです……っ」
ミレーユ様が、大きな瞳を潤ませた。
どこかで聞いた筋書きだ。最近王都で流行りの恋愛小説に、そっくり同じ場面があった気がする。
「それは、いつのことでしょう?」
「せ、先月の十日の、午後です!」
私は帳面をめくった。
「先月十日の午後。私は王妃様のお茶会で、王妃様のショールに刺繍をしておりました。三時から日没まで、一度も席を立っておりません」
「ええ、その通りよ」
玉座の隣から、穏やかな声が降ってきた。
王妃様だった。そのお肩には、私が刺した白百合のショールが掛かっている。
「あの日はわたくしの隣で、ずっと針を動かしていたわね。おかげで肩こりがすっかり治ったわ」
ミレーユ様の顔が、さっと青ざめた。
殿下は「う、ぐ」と言葉を詰まらせ、それから誤魔化すように声を張り上げた。
「と、とにかく! 婚約は破棄だ! 贈った物を返せ!」
「ですから、返却目録を」
私は、もう一度にっこりと笑った。
*
「まず、殿下から頂いた物を読み上げます」
私は帳面の一頁目を開いた。
「一。婚約の記念に、銀の髪飾り」
髪から外し、侍従が慌てて差し出した銀盆にそっと置く。
「二。誕生日の薔薇の花束、三回分。……申し訳ありません、枯れてしまいましたので、押し花にしたものをお返しします」
栞を三枚、盆に並べる。
どこかで、誰かが小さく噴き出した。
「以上です」
「……以上?」
「はい。三年間で、以上です」
大広間が、しんと静まり返った。
殿下の頬が、みるみる赤く染まっていく。
「そ、それは! 私は王太子となる身として、多忙を極めて――」
「存じております。ですから続いて、私から殿下へ差し上げた物を読み上げますね。少々長くなりますので、皆さま、どうぞお掛けになってお待ちくださいませ」
私は帳面をめくった。こちらは、頁がびっしりと埋まっている。
「一。殿下の礼装に施した、《威風》の加護刺繍」
指先で、宙の糸をつまむように引く。
ぷつり。
殿下の白い礼装の襟元から、金の糸がするすると解けて、私の手のひらに巻き取られていく。
最後に、襟の裏に隠した小さな青い星がほどけた。私がいつも、針仕事の終わりに入れる印だ。
その瞬間――殿下の背が、ほんの少し丸まったように見えた。
いいえ、違う。
もともと殿下は、こういう立ち姿の方なのだ。
「な、何をした!」
殿下の声が、ひっくり返った。
「お返しいただいただけです。皆さまが殿下を『王者の風格がおありだ』と褒めてくださっていたのは、この刺繍の効果でした。三か月かけて縫ったものなので、少し惜しいのですけれど」
ざわめきが、さっきまでとは違う色を帯びる。
「威風の加護……?」
「宮廷魔術師でも扱いの難しい術式では」
「それを、刺繍で?」
私は構わず、次の行を読んだ。
「二。殿下の佩剣の鞘に施した、《不壊》の加護刺繍」
ぷつり。
殿下の腰の剣が、ほんのわずかに傾いた。
剣術大会で三年連続優勝した、殿下ご自慢の剣である。
「大会で、対戦相手の方の剣ばかり折れていたのはこちらのせいです。皆さまには申し訳ないことをしました。後日、お詫びの品をお届けいたしますね」
騎士たちが並ぶ一角から、「やっぱりか……」という呻き声が漏れた。
「三。殿下の演説原稿、三年分。計百十二本」
「なっ――」
「最初は『少し手直しを』というご依頼でしたが、いつの間にか白紙をお渡しされるようになりましたので。控えはすべてこちらにございます。今後のご使用はご遠慮くださいませ」
私は提げてきた鞄から紙の束を取り出し、盆の横にどさりと置いた。
侍従が、もう一枚盆を持って走ってくる。
「それと――明日の立太子の儀でお読みになる宣誓文も、私が書いたものです。こちらも、返していただきますね」
殿下の顔から、すうっと血の気が引いた。
「四。隣国ラディスとの通商協定、殿下名義の素案。来月の調印予定分です」
「待て! それは私が――」
「殿下がお書きになったのは、表紙のご署名だけですわ」
壇上近くの席で、宰相閣下が額を押さえるのが見えた。
閣下は以前から、殿下の素案の筆跡が妙に丁寧なことに、首をかしげていらしたのだ。
「五。エルンスト侯爵家から王家への、婚約に伴う資金援助。および、殿下の私的なお買い物のツケ」
私は帳面に挟んでおいた一枚の請求書を、盆に載せた。
「父から、本日付で清算をお願いするよう申しつかっております。たとえば――真珠の首飾り、一点。『母上への贈り物』とのことでしたが」
私は、ミレーユ様の胸元にちらりと視線をやった。
「王妃様のお首元には、今夜も見当たりませんわね」
ミレーユ様が、ぱっと首飾りを手で覆った。
玉座の隣で、王妃様が静かに扇を閉じる。
ぱちん、というその音が、やけに大きく広間に響いた。
「以上、五項目です。細目はこちらの帳面に記してありますので、のちほど写しを王室事務局へ提出いたします」
私は帳面を閉じ、深く一礼した。
「エドガー殿下。三年間、お世話になりました。どうかミレーユ様と、お幸せに」
*
「――ふざけるなっ!」
殿下が叫んだ。
その声にはもう、かつてのような張りはなかった。ただ甲高いだけの、若い男の声だ。
「刺繍だと? 原稿だと? そんなもの、誰にでもできる! お前の代わりなど、いくらでも――」
「では、殿下」
低い声が、広間の空気を断ち切った。
人垣が、海が割れるように左右へ退いていく。
その中央を歩いてきたのは、銀灰色の髪をした、背の高い男性だった。
飾り気のない黒の軍礼装。左の頬に、古い刀傷がひとすじ。
北の国境を十年守り続けている、グラーフ辺境伯――レオンハルト様。
辺境から滅多にお出にならない方で、私も遠目にお見かけしたことしかない。
「その『誰にでもできること』を、どなたか今ここで、彼女の代わりにやってみせていただけますか」
広間の誰も、答えなかった。
宮廷魔術師長でさえ、目を逸らした。
辺境伯様は殿下から視線を外し、胸元から一枚の布を取り出した。
色褪せた、小さなハンカチだった。
その端に、青い糸で、小さな星がひとつ。
――見覚えがある、どころではなかった。
「五年前、王都の慈善市で買ったものです」
辺境伯様は、ハンカチを手のひらに載せたまま言った。
「戦場に持っていくと、不思議と矢が逸れた。十年で負った傷のうち、これを持つようになってから負ったものは一つもありません」
慈善市。
十三歳の私が、母に連れられて初めて出店した市だ。売れたのは、たった一枚だけだった。
買ってくださったのは旅装の若い騎士様で――顔は、よく覚えていない。
「お礼を言いたくて、縫った方をずっと探していました。今夜、殿下の襟からほどけた糸の最後に、同じ星を見つけるまでは」
彼は、まっすぐに私を見た。
灰色の瞳が、思っていたよりずっと、あたたかかった。
「そ、それは慈善市にお出ししたものですから……お返しいただく必要は、ございません」
やっとのことで、それだけ言う。
辺境伯様は、ほんの少しだけ目元を緩めた。
「よかった。返せと言われたら、困るところでした」
そして――彼は、私の前に片膝をついた。
大広間に、今夜いちばんのどよめきが走る。
「クラリス・エルンスト嬢。あなたの目録に、一行書き足させていただけませんか」
「……一行、ですか?」
「『グラーフ辺境伯レオンハルトより、生涯の忠誠と、それ以外のすべて』」
彼は、私の手を取った。
剣を握る人の、硬くて大きな手だった。
「こちらは、返却を受け付けません」
私は、帳面の最後の頁を開いた。
真っ白だった。
この三年間、そこに書くべきものは何ひとつなかったから。
「……ペンを、お借りしてもよろしいでしょうか」
声が震えたのは、きっと、広間が暑すぎたせいだ。
*
夜会を抜け出したバルコニーは、ひんやりと涼しかった。
「……本当に、よろしかったのですか」
手すりにもたれたまま、私は隣の人に尋ねた。
「何がです」
「私は、たった今婚約を破棄されたばかりの女です。明日には王都中の噂になります。辺境伯様のお名前にも、傷が」
「傷なら慣れています」
レオンハルト様は、左頬の刀傷を指で軽く叩いた。冗談を言ったのだと気づくのに、少し時間がかかった。
「それに、急いだ理由もある」
「理由?」
「今夜、あの広間にいた男の半分が、あなたを見る目を変えた」
彼は、夜空に視線をやったまま言った。
「明日の朝には、求婚の手紙が侯爵家に山ほど届くでしょう。その前に、一行目を取っておきたかった」
「……一行目」
「目録は、上から順に読むものでしょう」
耳まで熱くなって、私は帳面を胸に抱きしめた。
この人は、真顔でとんでもないことを言う。
「五年、探しました」
ぽつりと、低い声が落ちた。
「北の砦で矢が逸れるたびに、思っていた。この星を縫った人は、どんな顔で針を持つのだろうと」
彼の手が、私の指先にそっと触れる。針だこの残る、ちっとも令嬢らしくない指に。
「――思っていたより、ずっと綺麗な手だ」
私はもう、何も言えなかった。
*
一方、その後の王宮は大騒ぎだったらしい。
翌日の立太子の儀で、エドガー殿下は宣誓文を一行も読めなかった。
原稿のない殿下は要点の定まらない話を延々と続け、最後には「とにかく、私は王になる!」と叫んで、儀式は中断。
通商協定の素案については宰相閣下が調査を始め、資金援助の清算は、王家の財務官たちを三日三晩眠らせなかったという。
陛下はエドガー殿下に謹慎を命じ、立太子は無期限の延期となった。
ミレーユ様は、真珠の首飾りを王妃様に「お返し」して、ご実家へ帰られたそうだ。
剣術大会でエドガー殿下に剣を折られた騎士たちには、私から新しい剣帯を贈った。
もちろん、《不壊》の刺繍入りで。
*
謹慎の解けたエドガー殿下が北の城を訪ねてきたのは、あの夜から三か月後のことだった。
「クラリス! 戻ってきてくれ!」
城門の前で、殿下は馬から転げ落ちるように降りてきた。
礼装の襟は、ほつれていた。
「新しい刺繍師を十人雇ったが、誰もあの加護を縫えない。演説の原稿も、まともなものが一本も上がってこない。……ミレーユも、いなくなった」
「左様でございますか」
「お前が戻れば、すべて元通りになる。婚約破棄は撤回してやる。だから――」
「お断りいたします」
私は、隣に立つ人の腕に、そっと手を添えた。
「殿下。返却は、もう済んでおります」
殿下が何か言い返すより先に、レオンハルト様が一歩前へ出た。
「エドガー殿下。妻への御用は、今後すべて私を通していただきたい」
「つ、妻……?」
「先月、式を挙げました。招待状は、王宮にもお送りしたはずですが」
殿下は口を開け、閉じ、それからもう一度開けた。
結局、何も言わずに馬に乗り、来た道を帰っていった。
ほつれた襟が、北風にぱたぱたとはためいていた。
*
それから、半年。
北の辺境伯領の城で、私は今日も帳面を開いている。
表紙には、新しく書いた題名。
《頂いた物の目録》
「クラリス、また書いているのか」
背後から、大きな腕に包まれた。
振り向かなくても分かる。この城で、私の書き物を後ろから覗き込む人は一人しかいない。
「だって、毎日増えるんですもの。今日だけで、温室の苺と、毛織の膝掛けと、北の湖で採れた青い石と――」
「書かなくていい」
「書かないと、お返しが分からなくなります」
「返さなくていい」
レオンハルト様は、私の手からペンをそっと取り上げた。
それから、目録の一番上――一行目に書かれた、あの夜の私の字を、指でなぞった。
『グラーフ辺境伯レオンハルトより、生涯の忠誠と、それ以外のすべて』
「これを返却しないと約束してくれれば、それでいい」
私は笑って、彼の胸に背中を預けた。
帳面は、今日も頁が足りなくなりそうだ。
けれど、返却の予定は――
この先ずっと、一行もない。
(了)




