第5章 ハルノカゼ
ルルを失ってから二ヶ月。
仕事を辞めた俺は、こはると新たな生活を始めた。
新しい部屋、新しい職場、そして熱田のバイク屋との出会い。
少しずつ“大人”になっていくこはると一緒に、止まっていた時間が春風に押されて、また動き出す。
尾頭橋の朝は、電車の音で始まる。
ガタン、ゴトン。
少し離れた高架を東海道線が走り、
その向こうでは中央線の車両がすれ違う。
さらに名鉄の音も、街の隙間から遅れて届く。
いくつもの路線が、同じ朝をそれぞれの速度で走っていた。
その音で、目が覚める。
窓の隙間から入ってきた風は、少しだけ柔らかかった。
春の匂いがした。
ルルがいなくなってから、二ヶ月が経っていた。
時間は、止まっていなかった。
俺も。
こはるも。
少しずつ、前へ進んでいた。
辞める、と決めたのは唐突だった。
ある朝、出勤前の更衣室で白衣に袖を通した時だった。
鏡の前の自分の顔が、妙に遠く見えた。
疲れていた。
やりがいもなかった。
居場所もなかった。
ただ毎日、消耗していくだけだった。
それなのに、次の日もまた同じ顔をしてここに立つんだろうな、と自然に思った瞬間、急に嫌になった。
もう無理だ、と思った。
「……辞めます」
師長にそう言った時、自分でも驚くくらい声は静かだった。
引き止めはなかった。
「そう」
短い一言だけだった。
それで終わった。
それだけの関係だったんだと思うと、少しだけ笑えた。
借り上げのアパートも退去しなければならなかった。
荷物をまとめる。
生活の匂いが残る部屋。
一人で酒を飲んだ夜。
眠れなくて天井を見ていた夜。
ルルが死んだと知って、スマホを持ったまま動けなかった朝。
いろんな時間が、この小さな部屋に染みついていた。
でも、もう戻る理由はなかった。
ドアを開くと、花冷えの街の空気が肌に触れた。
「……行くか」
そう呟いて、俺はこはるに跨った。
トコトコトコ……
小さなエンジン音が鳴る。
新しい場所へ向かうための音だった。
部屋探しは、最初からうまくいかなかった。
「原付ですか?」
金山駅近くの不動産屋のカウンターで、男が面倒くさそうに言った。
「ええ」
「駐輪場、使えます?」
男は書類をめくりながら、鼻で笑った。
「正直おすすめしないですね。盗まれることも多いですし」
少し間。
それから、軽く言った。
「たかが原付なんて、売っちゃえばいいんじゃないですか?」
空気が止まった。
一瞬だけ、何も言えなかった。
でも次の瞬間には、声は出ていた。
「……それ、あなたに言われることじゃない」
それだけ言って席を立つ。
男は肩をすくめただけだった。
外へ出る。
風が、少し強かった。
「……ねえ」
こはるが小さく言う。
「さっきの人、私嫌い」
俺は少しだけ笑った。
「俺もだよ」
それだけで、十分だった。
こはるはモノじゃない。
少なくとも、俺にとっては。
次に入った不動産屋は、少し違った。
「バイク乗るんですか?」
若い店員が、普通の顔で聞いた。
「はい」
「いいですね」
それだけだった。
たったそれだけで、話が通じる気がした。
紹介されたのは、尾頭橋駅から徒歩五分ほどの1Kのアパートだった。
線路沿い。
窓からJRの電車が見える部屋。
北側の窓からは、名古屋駅のビル群と中学校の校庭が見えた。
その向こうには、鮮やかな桜が満開に咲いていた。
「ここにします」
ほとんど即決だった。
引っ越しの日。
荷物をまとめて、いつものようにこはるに積み始めた。
箱。
衣類。
本。
小物。
生活の残り全部。
「ちょっと待って!!」
こはるが叫ぶ。
「前にも言ったけど、私はトラックやないって!」
俺は平然と答える。
「何を言うか。東南アジアではカブはトラック代わりであり、一家を乗せるぐらいの力もあるんだぞ」
「知らんし! そんな文化!!」
呆れた声。
でも、その声は少し笑っていた。
「ほんと、雑ね……」
「積めるなら積む」
「最低やわ」
「褒め言葉として受け取っとく」
こはるは大きくため息をついた。
「……落としても知らんでね」
「お前なら落とさないだろ」
そう言うと、こはるは少しだけ黙ったあと、小さく鼻を鳴らした。
「まあ、そうやけど」
結局、全部積んだ。
そして、肩からかけたサコッシュに
1番大切な荷物 ルルの写真とこはるの予備の鍵を入れた
エンジンをかけると、まるで抗議するように普段よりエンジン音が重い感じがしたし、走り出しも遅かった。
それでもちゃんと走るあたり、やっぱりカブはたいした乗り物だと思った。
尾頭橋の生活が始まった。
朝、駅まで歩く。
まだ少し冷たい空気の中を、仕事に向かう人たちに混ざって歩く。
尾頭橋から東海道線に乗る。
金山駅で降りて、中央線へ乗り換える。
春日井駅。
そこから歩いて数分の場所に、新しい職場があった。
中規模の病院の心臓外科。
忙しいと聞いていたが、本当に忙しかった。
判断は一瞬。処置は正確さが要る。
患者の容態は、何の前触れもなく変わる。
決して楽ではなかった。
でも、前の病院みたいな息苦しさはなかった。
「大丈夫か?」
先輩が声をかけてくる。
「はい」
「顔、ちょっと死んでるよ、大丈夫?」
少し笑われる。
「まあ……慣れます」
「そのうちだね、まぁゆっくりやってこう」
その言い方が、前の職場とは違った。
追い詰める響きじゃない。
待ってくれる声だった。
ここには、ちゃんと仕事があった。
やる意味のある忙しさがあった。
一方で、こはるも自分の生活を持ち始めていた。
朝、いつものセーラー服に着替えて、山王駅まで歩く。
まだ少し冷たい空気の中を、通勤の人たちに混ざって歩く。
名鉄に乗って数分で名鉄名古屋駅に着く。
人の多さに、少しだけ圧倒される。
「……今日も多いな‥」
誰に言うでもなく、言葉がこぼれた
改札を抜けて、地下へ降りる。
東山線のホームには人がぎゅうぎゅうに並んでいた。
やがて電車が来る。
ドアが開く。
人の流れに押されるようにして乗り込む。
途中の中村区役所や中村日赤でだいぶ人が降りた。
そして、目的地の本陣駅に辿り着いた。
階段を上がって、地上に出る。
遠くにニョキっと見える名駅周りのビル群と対照的な住宅街の空気。朝の静けさ。その中を、こはるは歩く。
少し進むと、大きな神社が見えてきた。
広い境内。
鳥居の向こうに、朝の光が差し込んでいた。
神社の横を抜けて、その裏手へ回る。
その先に、公立高校の校舎が見えた。
そこが、こはるの通学先だった。
放課後。
アパートに帰ってきたこはるが、玄関でローファーを脱ぎながら言う。
「思っとったより近いね」
「そうか?」
「うん」
少しだけ考えてから続ける。
「なんかさ」
「毎日同じ道歩くの、ちょっと楽しいかも」
「通学路ってやつか」
「うん、それ」
少し笑う。
「神社のとこ、朝めっちゃ気持ちいいし」
「人もそんなにおらんし」
「落ち着くんよね」
俺はその言葉に、少しだけ頷いた。
「いいじゃん」
こはるは小さく伸びをする。
「うん」
それから、少しだけ間を置いて言う。
「なんかさ」
こはるが満足そうな笑顔を浮かべる
「ちゃんとここで生活してる感じがする」
俺は何も言わなかった。
でも、その言葉の意味は分かる気がした。
休みの日は、こはると走った。時々、そうただったりかずしともみどりとトゥモローに乗って一緒に走る。
最初は近所だけ。
名古屋市内を流す程度。
でも、そのうち少しずつ距離が伸びていった。
熱田。
大須。
西区。
時々、昭和区の方まで。
「今日、どこ行く?」
こはるが聞く。
「特に決めてない」
「じゃあ、適当に」
「それでいい」
少し暖かくなった風が、頬を撫でる。
冬の終わりと春の始まりのあいだの、少しだけ頼りない風だった。
SCAMPERに初めて行ったのは、その頃だった。
熱田の少し奥まった場所にある店。
一階が事務所とショールーム、それに整備スペース。
二階と三階がガレージ。
四階がオーナーの家らしい。
カラン、と扉を開ける。
油と金属の匂い。
工具の音。
壁には、レースに使っていた古いバイク。
少し色あせたレーシングスーツ。
いくつものトロフィー。
店そのものが、かつてレースに人生をかけた人の過去を黙って語っていた。
「いらっしゃい」
低い声。
車椅子に乗った男が、こちらを見た。
目だけが妙に鋭かった。
「オイル交換、お願いできますか」
「いいよ」
それだけだった。
作業は、無駄がなかった。
静かで、正確だった。
オイルを抜きながら、庄内と名乗る整備士がぽつりと言った。
「長く乗るつもりか?」
少し間があいた。
「……はい」
「いいね」
それから少しだけ笑った。
「そういうの、嫌いじゃない」
⸻
作業が終わってから、俺は思い切って聞いた。
「ボアアップ、できますか」
庄内さんは手を止めなかった。
「できるよ」
あっさりだった。
「時間も金もかかるけどな」
「それでもやるか?」
俺は頷いた。
「お願いします」
庄内さんは小さく頷く。
「任せとけ」
その言い方に、妙な安心感があった。
後日、こはるを預ける日が来た。
SCAMPERの前で、こはるが小さく言う。
「……ちょっと怖い」
「俺もだよ」
そう言うと、こはるは少しだけ驚いた顔をした。
「そっか」
少し沈黙。
それから、こはるは小さく息を吸う。
「……じゃあ」
「いってきます」
「ちゃんと帰ってこいよ」
「うん」
こはるは少しだけ笑った。
でも、その顔にはちゃんと緊張があった。
初めて、自分の意思で誰かに預ける。
初めて、自分の体を変える。
少しだけ、大人になるみたいな顔だった。
⸻
二週間後。
迎えに行くと、エンジン音が少し変わっていた。
変わらずトコトコとのんびりした音。
でも、スロットルを回すと、その奥にわずかな力強さがあった。
「どう?」
こはるが少し得意げに言う。
「いいな」
「でしょ」
走り出す。
加速が違う。
前より、流れに乗れる。
坂でも少し余裕がある。
「ちょっと速くなったね」
「気のせいじゃないな」
こはるが笑う。
「少しだけ、大人になったかも」
その言い方が、妙にしっくりきた。
風が、前よりも強く当たる。
でも、不思議と怖くなかった。
少しだけ背中を押されているような気がした。
⸻
尾頭橋へ戻る道。
高架の向こうを電車が走る。
ガタン、ゴトン。
「どこまで行く?」
こはるが言う。
「さあな」
少し笑う。
「行けるとこまで」
遠くで、また電車の音がした。
いくつもの線路が、別々の場所へ向かって伸びている。
でも、今の俺たちは同じ風の中を走っていた。
春の風が、吹いていた。




