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水色の風  作者: 羽豆紀一
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第3章 朝が来る前に

「ルルが危ない」

その一言で、俺は走り出した。

間に合うかもわからない30kmを、ただ前へ。

水色の相棒と駆け抜けた夜。

すべてを振り切って、それでも願った。

朝が来る前に。

だけど現実は変わらなかった。

その日、日勤が終わったのは、17時を少し過ぎた頃だった。

更衣室でスマホを確認した瞬間、胸がざわついた。


母からの着信履歴。

そしてメッセージ。


「ルルが危ない」


その一行だけだった。


一瞬、思考が止まる。


すぐに電話をかけた。


「もしもし」


母の声は震えていた。


「病院に連れてきてるけど…先生が…今日が山かもしれないって」


時計を見る。


17時12分。


場所は小牧の動物病院。


距離は約30km。


電車では間に合わない。


俺はロッカーを閉めた。


「今から行く」


短くそう言って電話を切った。



名古屋港のアパート。


駐輪場の奥に、いつもの水色の姿がある。


夕方の空は、まだ少し明るい。


ヘルメットをかぶる。


キーを握る。


一瞬だけ、目を閉じた。


胸の奥がぐちゃぐちゃになるのを、必死で押さえ込む。


そして。


できるだけ感情を消した声で言った。


「こはる、小牧に行く」


少し間を置く。


「少し無茶をさせる」


キーを回す。


セルを押す。


トコトコトコ…


エンジンが目を覚ます。


水色の相棒は、何も言わない。


でも、わかっている気がした。


俺はアクセルをひねった。



港区の道路に飛び出す。


夕方の名古屋は渋滞していた。


信号。


車列。


トラック。


バス。


全部が邪魔だった。


普段なら絶対にしない。


でも——


今日は違う。


ミラーを確認する。


アクセルを開ける。


車の間をすり抜ける。


「……」


ヘルメットの中で、呼吸が荒くなる。


法定速度の限界。


それでも足りない。


こはるのエンジンが唸る。


その時。


ふっと声が聞こえた。


優しい声。


でも、いつもより力強い。


「大丈夫!」


こはるだった。


「私は、不可能を可能にできる」


思わず息が止まる。


こはるは続ける。


「だから、前を見て」


「走ろう」


アクセルを開ける。


トコトコトコトコトコ…


小さなエンジンが、必死に回る。


名古屋高速の高架を横目に、国道を北へ。


信号が青に変わる。


トラックを抜ける。


バスの横を抜ける。


赤信号ギリギリで交差点を抜ける。


こんな走り方、したことがない。


看護師として


事故の怖さを知っている俺が。


それでも。


止まらない。


止まれない。


小牧の方向へ。


ただ、ひたすら走る。


トコトコトコ…


エンジンの音が、いつもより力強い。


こはるが言う。


「もう少し」


「きっと間に合う」


夕焼けが、ゆっくり夜に変わっていく。


俺たちは、ただ前だけを見て走った。


小牧へ。


ルルのいる場所へ。

動物病院の自動ドアが静かに開いた。


中は消毒液の匂いがした。


受付の奥、診察室の前の椅子に父と母が並んで座っている。


二人とも、何も言わなかった。


ただ、俺を見て小さく頷いた。


「来てくれましたか」


白衣の医師が静かに言う。


声は落ち着いている。


でも、その言葉の続きはもうわかっていた。


「正直に言います」


医師は少し目を伏せてから続けた。


「もう……助けることはできません」

俺は感情を抑えて聞いた

「なんとか、鎮静をかけてあげられませんか?」

医師は首をふった

「この体の小ささですと麻酔をかけるとおそらく死期を早めます。もし苦痛を早くとってあげたいならそれも手ではありますが‥」


診察室の奥。


小さな保育器のような装置のルルがいた。


呼吸が荒い。


体が小さく上下している。


それでも——


「ウー……」


弱い声で唸った。

喉が狭まっているのか、声色はいつもと違った。

痩せ細り、栗色と白の毛並みはすっかり艶を失っていた。

ところどころ、毛も抜けていた。


それでもそこにいたのはルルだった。


頑固で、意地っ張りで、負けず嫌い。


父が苦笑する。


「最後まで気が強いな」


母は、ただ黙ってルルの背中を撫でている。


俺はゆっくり近づいた。


「ルル」


名前を呼ぶ。


ルルの耳が、少し動いた。


目がゆっくり開く。


俺の顔を見た。


「ただいま」


そう言った瞬間。


ルルは、弱々しくもう一度


「ウー…」


と唸った。


まるで


「兄貴遅いぞ」


と言っているみたいだった。


医師に

「抱いてあげてもいいですか?」と聞いた

医師は静かに

「抱いてあげてください、今準備しますから」と言って準備してくれた。


俺はルルをそっと抱き上げた。


ルルは少しだけ体を動かした。


そして。


ふっと力を抜いた。


さっきまで苦しそうだった顔が


少しだけ緩む。


安心したような顔だった。


まるで


「兄貴、また会えてよかった」


と言っているみたいだった。


俺は何も言えなかった。


ただ、ルルの背中を撫で続けた。


父と母も、黙って見ている。


昔はもっと重かったはずなのに。

胸に抱くと、いつもより低いながらもルルの体温がじんわりと伝わってくる。

目を閉じたまま、ルルは小さく


「ウー……」


と唸った。


最後まで意地っ張りだ。


俺は思わず笑った。


そして、小さく呟いた。


「馬鹿野郎……」


喉が震える。


「なんで俺が元気になったタイミングで」


言葉が途切れる。


「名古屋に戻ったタイミングで」


ルルの背中を撫でる。


「お前……あっちに行こうとしてるんだ」


目が熱くなる。


「俺の苦悩を土産にして行く気かよ……」


ルルの体が少しだけ動く。


弱々しく、もう一度


「ウー……」


と唸った。


俺は苦笑した。


「ほんとに」


ルルの頭を優しく撫でる。


「お前はバカだ」


その瞬間。


ルルはふっと力を抜いた。


さっきまで苦しそうだった顔が


少しだけ


安心したように見えた。


帰る時間になった。

ルルが危篤でも、俺には明日仕事がある。

患者を守る責務がある。


心にグッと蓋をして

ルルをそっと医師へ託した。


病院を出る前にもう一度頭を撫でた。


涙を必死で堪えながら言った。


「馬鹿野郎……」


声が震える。


「俺は土曜日には帰る」


「だからあと2日」


「たった2日の辛抱だ」


ルルの耳が少し動く。


俺は続けた。


「だからまだ行くなよ」


少し笑う。


「じゃあまたな」


その時、母が静かに言った。


「最後になるかもしれないから‥」


悲しそうな顔で続ける。


「バカって言わないであげてよ‥」


俺は何も答えなかった。


ただルルの頭を撫でた。


心のどこかでわかっていた。

この夜をルルは越えられない。

だからこそいつも通りに言った。

大切な弟に言うみたいに。


「ルルのバカ」

それが俺たちの言葉だった。


小牧の動物病院を出た。


夜の空気は冷たかった。


行きとは違う。


さっきまでの焦りは、もうどこにもない。


俺はこはるに跨った。


エンジンをかける。


トコトコトコ……


小さな音が静かに夜に溶ける。


アクセルを開ける。


でも——


行きのような走り方はしなかった。

信号を守る。車間距離も取る。

すり抜けもしない。

まるで行きの走りが嘘だったみたいに。

ただ、丁寧に走った。

名古屋港へ向かう夜道を走りながら

俺は泣いていた。

ヘルメットの中で声を押さえようとしても嗚咽が漏れる。


ルルへの感謝。


もっと一緒にいられなかった後悔。


あのまま小牧に残れない自分への怒り。


そして


どうにもならない現実への怒り。

行き場のない感情が全部あふれてきた。

涙が止まらない。前が滲む。

それでも

こはるは走り続けた。

何も言わずに。ただ静かに。

トコトコトコ……



その時。


ふとミラーに映った。


こはるの目は真っ赤だった。

涙をこらえているみたいだった。

でも何も言わない。

ただ

俺を乗せて走る。

それだけだった‥


名古屋港のアパートに着きエンジンを止める。

キンキンと少し熱をもったエンジンが音を鳴らした

静かな夜だった。

俺はヘルメットを外した。

少女の姿に変わったこはるが小さくそして優しく微笑みながら呟いた。


「……間に合ったね」

その声はとても優しい声音だった。

時計は1時を回っていた。スマホの通知を確認する。

LINEは来ていない。まだ大丈夫だ。

そう思い込んだ。

狭いアパートの風呂場で

ただ無心になって熱いシャワーを浴びた。

静寂が欲しかった

部屋に戻るとウイスキーを乱暴にグラスに流し入れ

水も氷も入れずに一気飲みした

味はわからなかった

ただ、世界が少し回った。

そのままベッドに潜り込み、泥のように眠った


その夜駐輪場でこはるは一人で泣いた。

声を押し殺して。

実はこはるもルルを知っていた。

小牧の実家に行くたびルルは散歩に出ていてこはるのそばを通ると

興味深そうに匂いを嗅いだ。

「ウー」と小さく唸ったり

尻尾を振ったり。

そんな何気ない時間を

こはるは覚えていた。

だからその夜

誰にも聞こえないように

小さな涙声で呟いた。

「ルル……」

夜の名古屋港に

静かな潮風が吹いていた。


ルルは俺が病院を出るのを見届けたかどうかはわからない。

だが、「俺の役目は終わった」

とでも言わんばかりに

最後の面会から数時間後の23時。

静かに息を引き取った。

母はそのことを

すぐには知らせなかった。

30㎞の夜道を走る息子に対し

いらぬ動揺をさせぬように

きっと気を遣ってくれたんだと思う。


3時過ぎになぜか目が覚めた。

部屋は真っ暗だった。

理由はわからない。

でも

口から自然に言葉が出た。


「ルル……」


その瞬間。胸の奥で何かが静かに落ちた。

根拠はない。

でもわかった。

ルルは旅立った。



朝。

携帯のアラームで無理やり起きた

だるかった。仕事なんか行きたくなかった。

けど行かなければならなかった。

白衣に身を包み

ブラックコーヒーを流し込んで無理やり自分にエンジンをかけた。

そのときスマホが震えた。

母からのLINEだった。


「ルルが空に帰りました」


短い文章だった。画面を見ながら

しばらく動けなかった。

窓の外では朝の光が静かに差し込んでいた。


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