第5話 夜空と星
アリスが目覚めたとき、一番最初に目に入ったのは見覚えのない天井だった。
ゆっくりと体を起こした瞬間、脳の中央を貫くような痛みが走った。痛みのあまり、アリスはもう一度ベットに体を預けた。
今まであった魔障による痛みではなかったが、それ同じ……あるいはそれ以上の痛みに襲われていた。最大の痛みは起き上がった瞬間だけだったが、完全に痛みが引くまでの30分間は残り続けた。その間、ずっと頭の中に流れていたのは、「アリスにとって『罪』は何?」という言葉。そう、シェリアに宿題と言われた言葉だった。
痛みが治まってからも、アリスはしばらく天井を眺めていた。
「あれ?アリス起きてたんだ。おはよう」
「……シェリア、おはよう。今って何時くらい?」
「今?9時くらいかな」
「私、何時間くらい寝てた?」
「えっと、あれから2日は経ってるから……ざっと60時間位かな。なんで?」
「いや、その……私のせいでシェリアの旅の時間が減っちゃうのは申し訳ないなって思っちゃって。私、そんなに寝てたんだ」
「今まで魔障のせいで満足に寝られなかったでしょ。そのツケが今になって出てきたってだけ。あと、旅のことなんだけど……1年くらいは出発しないから安心して」
「そ、そうだったんだ。よかったぁ……」
安堵の声を漏らしたアリスだったが、その声はすぐに悲鳴ともとれるような絶叫へと変わった。
「その間、みっちり魔法を教えるから。覚悟していてね」
それもこれも、シェリアがとてもいい笑顔で「これからの日々が地獄のような魔法漬けの日々になるよ」と同じような意味の言葉を告げられたためであった。
この世界に存在する「魔法」と呼ばれるものは、すべて目の前にいる「原初の魔」が作り出したものであり、シェリアに魔法を教わることはすなわち、この世界に存在するありとあらゆる魔法を習得することを意味していた。
「えっと……安心して?そんなに難しいことなんてないからさ。そもそも、アリスは魔障状態でも魔法使えてたんでしょ?なら、なおさら大丈夫だって」
「うぅっ……だって、だってぇ!」
「もう大丈夫。起きたときに頭痛があったと思うけど、あれは宿題を刻印しただけだから。魔障のせいじゃないよ。学園時代がトラウマになってると思うけど、これからはむしろのびのびとできるよ」
「うぅ~……そんなこと言ったてぇ~……」
「……さすがの私も、壊れた人の心を治す魔法は持ってないんだ。でも、待つことならできるからさ」
そういうと、シェリアは近くに木の丸椅子を作ってそこに座った。
「心の準備ができたら教えてよ。ご飯も飲み物も、いくらでも出してあげるからさ」
シェリアはそういうと、空中に魔法陣を描き、古文字が記された分厚い本を取り出して膝上に置いて読み始めた。
小鳥のさえずりと、小動物たちが草むらを駆け回っている音と、シェリアがページをめくっている音だけが世界に響いていた。本当に近くにシェリアがいるのかアリスが不安になるたび、本をめくる音がアリスの耳に入ってきていた。
「……いる?」
「いるよ」
「怒ってない?」
「怒ってないよ。別に怒る理由もないし。最初の勇気が出ないのは誰だって当たり前なんだから」
「優しいんだね」
「どうなんだろう?私は昔から無理強いはしない主義だからね。それに、事情はさっき教えてくれたし」
「なんというか、そういうところ先生みたい」
「この前も言ったけど、逆。フレイザが私に似たの」
「……私に、魔法が扱えると思う?」
「もちろん。魔法に境界はないからね」
「……初めて、その言葉に重みを感じたかも」
「それは何というか、嬉しいような不甲斐ないような……多分、私の弟子の魔法使いたちは失敗したんだね。いや、まぁうん。フレイザくらいしか信頼して任せられそうな弟子いなかったし、しょうがないか」
「そ、それじゃあ……私が、先生に並んで信頼してもらえる弟子になります。それが、先生への恩返しにもなると思うから」
「……心の準備はできた?」
ゆっくりと本を閉じ、優しい表情でシェリアは語り掛けた。アリスが一歩を踏み出すまでに、三冊の古文書を読み終えていたが、それでもなおアリスが自分の意志で踏み出したという事実がうれしかった。
シェリアの言葉に、アリスは強くうなずいた。アリスの目には、乗り越えようとしている強さが宿っていた。
「それじゃあ、今から外に出よっか。ちょうどいい時間だし」
「え?ちょうどいい時間ってどういう……」
「大丈夫。着いてくればわかるからさ」
椅子を魔力に変換し、部屋の出入り口にて待っているシェリア。そんな彼女のもとに移動しよう地面に足をついた時、足に力が入らず、アリスの体が傾き始めた。
「おっと危ない。大丈夫?」
「え?あ……大、丈夫です……」
「本当に大丈夫?顔が赤いけど」
「いや、えっと……もう!誰だってこんなことされたら惚れちゃいますって!」
「え?」
アリスは、両手で真っ赤になった顔を覆いながら叫んだ。
今の状態は、シェリアが膝をついて倒れそうになったアリスの足元に入り、正面から抱きかかえるようにして支えているような状態だった。アリスにとって、幼少期に読んでいた本に描かれていた絵本のお姫様と同じ状態だったことも相まって、恋しているような感覚に襲われていた。
そんなアリスに対し、恋愛や恋心とは縁遠い時間を、はるか昔の生まれた瞬間から続けてきたシェリアにとって、今のアリスの感情は本当に理解できない感情であった。
「『え?』じゃなくて……もう……」
「そんなことより……その調子なら、今日はリハビリもかねて少し歩いたほうがいいね。立てそう?無理なら肩を貸すよ?」
「いえ、大丈夫です……ただ、ゆっくり歩いてもらえれば」
「わかった。じゃ、行こう。今日は満月だよ」
シェリアはアリスが敬語に戻っていることに違和感を覚えつつ、少し離れてアリスが立ち上がるのを見守りながら待っていた。ここ数日でアリスの肉体の中で起こっていたことを考えると、立ち上がることすら難しいこの状況も、シェリアとしては想定できた状況であった。
かすかに傾いた満月の光が部屋の窓から入り込み始めたとき、アリスがゆっくりと力のない一歩を踏み出して……また体勢を崩した。
「よっと。やっぱり、肩貸した方がよさそうだね」
「うぅっ……ここまで情けないことになってるなんて」
「情けなくなんてないよ。体の中の魔力が乱れてるだけ」
「魔力が乱れて……?それだけでここまで力が入らなくなるものだっけ?」
「それは私のせい。もう始まってるんだ、『原初の魔力』への回帰が。特に、今日みたいな満月の日は」
「もしかして、さっきのって……」
「まぁ、原因はそこだろうね。それに加えて、魔障がなくなったせいで今までと違う体の動かし方をしないといけなくなったのも追い風になってる感じもする」
「いえ、そうじゃなくて」
シェリアの肩に腕を回し、支えてもらいながら歩き続けるアリスは、今まで感じたことがない脱力感の正体と原因について話しているシェリアに、自分の中でずっともやもやしていることについての質問を口にした。
「さっき、2回とも私が倒れ始めた瞬間に支えてくれたのって……私の中の魔力が『原初の魔力』に変わってて、事前に察知できたから?」
「ううん。魔力は繋がってるけど、それはできないよ」
「じゃあなんで?」
「え?ただの反射だよ。私こう見えて、結構体軽いから」
「なんというか、めちゃくちゃだね」
「あはは。そんなこと私に言うの、魔王とアリスくらいだよ。いいね、そうやってはっきりと言ってくれるの。私は好きだよ」
「すっ……!」
「さて、着いたよ」
シェリアの声で前を向くと、そこにはここに来た時にも見た大きな湖があった。
湖は真っ暗な中に輝く星々と、大きく輝く丸い満月を映していた。周りは背の高い木でおおわれていたが、空ははっきりと見ることができた。
アリスが幻想的な光景に見とれていると、シェリアはゆっくりと湖に向かって歩き始めた。
「ちょ、ちょっと待って?」
「え?どうしたのさ」
「どうしたって……」
「まぁまぁ、私に身を委ねなさいって」
「で、でもこのままじゃ服が濡れ……!」
顔を真っ青にして逃げようとしても、歩を止めないシェリアのせいでなすがままに湖に近づいていくこの状況に、「あぁ、なんでこんなことに」と声を漏らした。
しかし、湖に片足が入った瞬間、不思議な感覚がアリスの体を足先から脳天まで貫いた。その感覚は嫌な感覚ではなく、むしろ心地いいものだった。
「ね?大丈夫だったでしょ」
「なんというか、心地良い」
「月に一回、満月の夜にこの湖で水浴びをしてるんだ。多分、もう自分で歩けるようになってるよ」
そういった瞬間、アリスの腕の下からすっと体を引いた。さっきまでのアリスなら、すぐに体勢を崩していたが……今まで通り、自分の力で立つことができていた。その様子を見たシェリアは、嬉しそうに湖の中心に向かって歩き始めた。それどころか、自分の服が濡れることも厭わずに水面に仰向けで寝転がり始めた。
「シェリア!?」
「アリスもおいでよ。細かいこと全部投げ捨てちゃってさ」
「で、でも……」
「服なんて魔法で簡単に乾かせるし、この心地よさを全身で味合わないのは損だよ」
「そ、それじゃあ……」
最初はためらう心が強かったが、シェリアが実際に目の前で湖に寝そべって浮かんでいるせいで、そのためらいが少しずつ薄れていっていた。そうして一歩、また一歩とシェリアの隣まで歩いていき、膝まで湖に沈んだところでシェリアの隣に着いた。
「ほら、あとは寝転がるだけだよ」
「そ、それはさすがに」
「往生際の悪い奴め。えいっ!」
次の瞬間、アリスの視界は空から水中に一気に変化した。そのまま沈みそうだったところを、背中を押す謎の力によって何とか体勢を持ち直した。少し飲んでしまったが、不思議と嫌な感じはなかった。
「な、何するの!」
「何って、足引っ張って転ばせただけだよ。気持ちいいでしょ?」
「それは……そうだけど。他にやり方はなかったの?」
「なるべく早く感じてほしかったからね。これ、水じゃないし」
「水じゃないなら、これって何?」
「魔力そのものだよ。私がずっとこの場所で過ごしてきて、ゆっくりゆっくり溜めてきた魔力。この世界の魔力を持っている人なら、この湖に浮かんでいるだけですべての傷とか、魔力の乱れとかが一番その人の体に合うように治すことができるの」
「これだけの量の魔力を、シェリアが?」
「うん。時間だけはあったからね」
「なんというか……すごいね」
アリスは、すべてが規格外すぎるなと思いながら、シェリアと一緒に何もない静かな時間を過ごした。その間、自分の中に湖の魔力が少しずつ入り続けていることをアリスは感じていた。その感覚にはどこか懐かしさがあったが、その正体はわからなかった。
お互いに何も言葉を発さず、夜空の星が流れていく光景を眺めるだけの時間を過ごしていると、突然シェリアが真剣な声で話し始めた。
「この世界は常に変わり続けてる。でも、この空だけは変わらない。今も昔も。果てしなく遠くて、でも思わず後退りたくなるほどに近い場所」
「どうしたの、急に」
「何でもないよ。ただの、年寄りの戯言さ」
「私には……わかんないよ。そんなこと、考えたことなかったし」
「それもそっか、まだ16歳だもんね。ねぇ、一つ聞いてもいい?」
「いいよ」
「どう?久しぶりに見る空は」
「……シェリア嫌い」
アリスは、シェリアにすべてを見透かされているような感じがして、反射的にそう答えていた。
「それは私の質問への答え?」
「ち、違う……うぅ、ほんとずるい」
「まぁ、急に聞かれてもすぐに答えられないだろうし、ゆっくり考えてね」
アリスは、シェリアに言われたことを思い浮かべながらもう一度空に視線を移した。空は、シェリアが言った通りさっき見ていた時と変わらずそこにあった。
そして、一つ浮かんできた言葉をアリスはそのまま口にした。
「私、いつから空を見れなくなったんだろう」
「それが、答え?」
「……ねぇ、シェリア」
「うん、聞いてるよ」
「空って、こんなにもきれいだったんだね」
「そうだよ。それじゃあ、もう上がろうか」
アリスの答えを聞いたシェリアは、満足そうな表情で立ち上がった。さっきまで全身で湖に浮かんでいたはずなのに、服は全く濡れていなかった。
「どうしたの?あ、もしかして服が透けるのを期待してた感じ?多分全く同じ感じだから何も面白くないと思うよ」
「ちがっ……!そうじゃなくて、急に動き始めたからびっくりしただけ」
「なんだ~。久しぶりに脱げると思ったのに」
「シェリアはなんでノリノリなのさ!あ、もうおいてかないでよぉぉ!」
そんなやり取りをしながら、二人とも湖からすぐ近くの少し広い草むらに移動した。
まだ太陽は昇っておらず、ほのかに輝いている星と月明かりが森を照らしていた。
「さてと……」
シェリアは草むらのちょうど中心に立ち、少し後ろにいたアリスの方にゆっくりと向かい合った。
そして、ゆっくりと目を閉じて静かに魔力を込め始めた。それと同時に、森の中をシェリアからあふれ出た水色の魔力の光が照らし始めた。さっきまで浸かっていた湖と同じ空気が、アリスの髪の毛を優しくなでた。アリスは、学園生活の中で何度も魔力を込めて可視化できる現象を見たことがあったが、どれも不安定で強い光を放っているか、踏ん張っていないと耐えられないほどに強力な魔力の風が吹き荒れていた。
だからこそ、シェリアが別次元の魔力コントロール能力の持ち主であることが嫌というほど感じられた。
ただただ見ていることしかできなかったアリスの目の前で、さっき以上の魔力が、音も風もなく一瞬で膨張し、直後シェリアの周囲に収縮した。シェリアのまとっていた魔力が水色から金色に変わり、ゆっくりとシェリアの中に入っていくにつれ、淡い水色だった髪の毛が真っ白に染まり、目の色が黒から藍色に変わった。
「……アリスにはこれから、この魔法を習得してもらうよ」
「は、初めて見た……」
「だと思うよ。だってこの魔法こそが、『原初の魔』の証明である魔法だからね。でも、いきなりこの魔法はさすがに無理だと思うから、魔導書の魔法を全部さらってから挑戦してもらおうと思ってる」
「ま、魔導書の魔法を……全部?」
「うん。全部」
「……何個あるの?」
「もちろん。どの属性でも使える汎用魔法と、私が持っている魔導書にしか書かれていない始祖魔法と禁忌魔法と封印魔法、魔王魔法も含めて、だいたい5000かな。フレイザから学んでたことも考えると……汎用魔法は全部使えると思うから残り4800くらいだね。それと、さっきの魔法を今から一年かけて習得してもらうよ」
「4800……始祖魔法とか聞いたことないけど……でも、ほとんど単属性魔法だよね。なら、行けるよ。これでも学園では成績優秀だったんだから」
「その目、いいね。それじゃあさっそく始めようか」
シェリアは髪の毛や目の色を元に戻し、どこからか取り出した魔導書を空中に浮かべた。
「あ、そうそう。勘違いしてると思うから先に言っとくけど、4800のうち単属性魔法って1000個くらいだからね」
「……え?それじゃあ残りは全部……」
「多重平行詠唱は3000くらいかな。始祖魔法が5個で、禁忌魔法は50個、封印魔法は150個で、魔王魔法は200個。残りは……聞いたことないと思うけど、星属性魔法だよ。一応、さっきの魔法も星属性魔法の一種」
「星属性は……うん、初めて聞いた」
「じゃあ、軽く説明するね。星属性は、一人で火属性、水属性、自然属性、雷属性、風属性、光属性、闇属性の魔力を複合し、そこに無属性の魔力を加えることで生まれる属性のことだよ。普通の人は一属性しか持てないから、本当に私……『原初の魔』専用の魔法だね」
「それも、今から一年以内に……?」
「もちろん。星属性だけは私しか教えることができないから、今からの流れで習得してもらうしかないんだ」
「そっか」
何度か深呼吸をし、アリスは両手に魔力の塊を作りだした。
その表情に迷いはなく、その真っ直ぐな眼は長く遠い未来を見つめているようだった。
シェリアは、今のアリスの表情にどこか懐かしさを感じた。
「まったく、そんなところまであいつに似なくてもいいのに。よし、始めるよ」
「うん!」




