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皿うどん

「アリスも2歳過ぎたし、トリミングしてもらうか。」

「そうだね。家で練習したから、さすがにもうハサミを怖がって漏らしちゃうこともないでしょ。暑くなってきたから、少し短めに刈ってもらおうよ。」

昔はパッと見、おかっぱ頭のようなお子様然とした風貌だったが、いまは違う。緑菜が文句も言わずにせっせとブラッシングしているお陰で、サラサラのストレートロングをキープしており、長い毛をなびかせながら、ドッグランを駆け抜けていく姿は、ものすごく気品があってカッコいい。お漏らし癖さえなければ。

「さ!アリス行くぞ。」

お出かけだと思っているアリスは、意気揚々と車に乗り込んだ。目をキラキラさせながら、桔平の顔に鼻先をつけてくる。

「これからカットに行くとも知らないで、ご機嫌なもんだね。なんか騙してる気分になってきたよ。」

能天気なアリスは、窓を開けてやると目を細めて風を受けている。

「こうしてると、カッコいいんだけどなぁ。」

どこへ向かっているのかわからないものの、目的地はまだ先だと思ったらしく、アリスは横になって寝の体勢に入った。


「ここ・・本当にトリミングやってるのか?」

「うん。けど、ホームページで見るのと、外観がちょっと、というかだいぶ違うんだよなぁ。ほら。」

桔平が、緑菜に店のホームページを見せた。

「大型犬 トリミング」で検索して、ここを予約した。ペットの〇〇とか大型スーパーに併設のペットショップだと、他の犬もたくさんいそうなので避けたのだ。ドッグランで慣れてきたとはいえ、まだまだ吠えかかられると、お漏らしをしてしまうことがあるから仕方がない。桔平は、『お洒落ケンネルサロン・ノワール』という店名も気に入った。『お洒落』の部分はともかく、『ノワール』というのが、ブラックタンのアリスにぴったりな気がしたからだ。

「とても同じに見えないね。プロって上手く撮るなぁ。」

「そりゃプロだからな。」

入口の扉を引くと、カランカランと乾いたベルの音がした。これからカットが待っているとも知らず、アリスは2人と一緒に颯爽と入っていく。

中に入ると、子どもの頃にタイムスリップしたようだった。

「うわー!なかなか見ないオヤツもあるね。」

訝しんでいる緑菜とは対照的に、桔平は呑気にも帰りに買おうねなどとアリスに言っている。

「こんにちは〜。あっらぁ、この子がアリスちゃんですか。すっごく優雅だわぁ!素敵ですねぇ。」

メッシュのおばちゃんパーマをかけた年配女性が、揉み手をしながら出てきた。他には、シャワー室であろうガラスの向こうに、こちらもかなり年配の男性がいるだけだ。

「ありがとうございます暑くなってきたので少し短く刈ってください。」

「刈るんですか?はい、わかりました。暑いと可哀想ですもんねぇ。可愛くしますよ〜。」

「どなたがカットされるんですか?」

ざわざわとした不安を覚え、緑菜が話に割って入った。

「私とあちらにいる者でカットしますよ。」

「うちの子はアフガンハウンドなんですけど、ここでトリミングできるんですか?本当に大丈夫ですか?」

「もちろんですよ!何をおっしゃいますか。スタンダードプードルだってカットしてるんですよ。この前はOESがきたかしらね。」

「オーイーエス?」

桔平が聞き返すと、

「オールド、イングリッシュ、シープドッグ、で、す。」

少し気を悪くしたのだろう、店員はゆっくりと区切りながら言った。

「そうなんですか!あの白とグレーのモッフモフの子ですよね。すごいな〜、あのワンコもここに来るんだ。大型犬に慣れているお店で安心したね。」

桔平はそう言って緑菜に笑いかけた。

「アリスはめちゃくちゃ怖がりなんで、この人は、こちらにご迷惑をおかけするんじゃないかと、そっちを心配してるんですよ。」

「あらあら、そうでしたか。アリちゃんは怖がりなのねぇ。優しくカットしますので、心配いりませんよ。」

桔平のフォローで、女性店員はすっかり機嫌をよくして「さっ、アリちゃんこっちよぉ。」

と声をかけたが、アリスはそっちを見ようともせず、壁にかかっている商品の匂いをクンクン嗅ぎ回っている。何も考えていないのは間違いなかった。


緑菜がずっと口をへの字にしている。

「そんなに心配しなくても平気だって!」

車を走らせながら、桔平が言った。

トリミングが終わるまで、ひとまず食事をしてから家で待つことにしたのだ。

「長崎ちゃんぽんでも食べよっか。」

「耳を切られないだろうな。」

「じゃあここ入るねー。」

「爪を切るときに指まで切られたり。」

「はい、着いたよー。」

「尻尾をざっくり。」

不吉なことばかり並べ立てる緑菜は放っといて、桔平はさっさとチェーン店の駐車場に車を停めた。

席に案内されても、緑菜はブツブツ言っている。

「僕はもう決まってるよ。皿うどんにするんだ。」

桔平がそう言ってタブレットで注文すると、やっと緑菜の口から出てくる不吉のオンパレードが止まった。

「なんだ?お前、ちゃんぽんじゃなかったのか?」

「この店にくると、つい皿うどんにしちゃうんだよね。」

桔平に続いて注文すると、緑菜はタブレットを元の位置に戻した。

「アリスのことだったら大丈夫だよ。スタンダードプードルのカットもしたって言ってたじゃん。あんなに難しいカットができるんだから、怪我の心配なんてないって。」

「あの店で、ショークリップなんかできるわけないだろう。」

「ショークリップ?」

「ドッグショー用のカットのことだ。」

「脚の先と尻尾と胴体に毛を残してる、あの不思議なカットのこと?丸いポンポンがいくつもついてて可愛いけど、初めて見たときはビックリしたよ。」

「お前の言っているプードルのカットは、ライオンクリップっていうんだよ。少し前に、コンチネンタルクリップから名称が替わったんだが、あれは理にかなったカットなんだ。もともとプードルは、水辺に落ちた獲物を取ってくる猟犬なんだが、水で内臓や関節が冷えるのを防ぐために一部の毛は残し、泳ぎの邪魔にならないようにそれ以外は刈り取った。その結果なんだ。」

「へぇ。ちゃんと理由があるんだね。」

「ショーでは犬種ごとにカットが決められていて、そのカットのことをショークリップっていうんだ。つまり、プードルのショークリップの一つがライオンクリップってことだな。ショークリップには優れた技術力が必要になる。それができる店には見えないから、心配なんだ。」

「別にいいじゃない。うちだってショーに出すわけじゃないんだし。」

「わかってないな。アリスは怖がりだから、逃げようとするかもしれないじゃないか。その時にハサミを向けていたら怪我をする可能性があるだろう?だから、技術力のあるベテランが良かったんだよ。お前だって2歳の子どもを初めて床屋に連れていくんだったら、前髪しか切ったことがない店員より、ベテランに切ってもらう方が安心するだろうが。」

ブツブツ言っている緑菜をなだめているうちに、皿うどんが運ばれてきた。

「お待たせいたしました。細麺のお客様。」

緑菜が右手を挙げると、桔平が驚いている。

「太麺のお客様。」

「はい。」

桔平が返事をすると、今度は緑菜が驚くことになった。

「以上でご注文の品は・・」

「なんで太麺なんだ。」

「そっちこそ、なんで細麺なんかにしてんの。」

「以上でご注文の・・」

「何を言ってる。細麺のパリパリとした食感。出汁と旨みたっぷりの野菜餡でふやけるまで待つもよし。」

緑菜はそう言うと、麺の上にかかっている野菜餡を半分ほど麺の上からどけた。

「こうして野菜餡を横によけて、麺の歯触りを楽しみつつ野菜餡を食べる。」

緑菜は、まず麺だけパリパリと食べたあと、箸で器用に野菜餡を味わった。

「細い麺を壊していく小気味よさを味わい、次に濃厚な野菜餡を味わう。この繰り返し。そして最後にふやけて一体となった麺と野菜餡を食す。パリパリとやわやわが共存するこの旨さといったら。」

「以上で・・」

店員が下がるタイミングを探している。

「やっぱり太麺だってば。」

緑菜が話している間にも、桔平は麺と野菜餡を絡めている。

「キャベツを中心とした野菜、魚介、豚肉、全ての食材から出る出汁が複雑に絡み合った、ドロリとした野菜餡の旨み。この旨みを、ゆっくりと太麺が吸い込んでいくんだ。」

そう言って、麺を一口すすった。

「うまっ!これこれ、今は野菜餡と旨みを少し吸い込んだ固めの麺だけど、これが時間が経つほどに旨みをどんどん吸収して、麺が柔らかくなっていくんだよ。おまけに、ただでさえ濃厚な野菜餡に、麺から油のコクが伝わって、さらに複雑かつ美味しくなるんだ。」

桔平は野菜餡を絡めた太麺を箸で持ち上げた。

「それをまた麺が吸うっていう旨みのサイクルがあるんだよ。そしてこの、」

「そうだ。この、」

桔平が調味料を手に取ると、緑菜もそれに続いた。

「ソース!!」

2人の声が共鳴した。

「これをかけて風味とスパイスの刺激を足し、さらには酢を適量かけることであと口もさっぱりする。自分好みにカスタマイズできるスーパーメニューだ!」

「そこは同意だな。」

「あの!」

定員が意を決したように声をかけ、2人はようやく口をつぐんだ。

「・・以上でご注文の品はお揃いですか?」


連絡がきたのは、予定時間を大幅に過ぎてからだった。

「うわっ!びっくりした。」

扉を開けてすぐ左のケージに、ドーベルマンのような犬が丸まっている。はっきりとは見えないが、断耳しておらず、垂れ耳のままだ。顔を埋めているものの、片目だけを開けてこちらをチラリと見た。

ドーベルマンは、短毛で凛々しい顔立ちだからなのか、ちょっと怖そうなイメージがある。でも、警察官になるほど頭がよく人に忠実だし、実はとても甘えん坊で愛情深い犬だ。撫でるとスムースな毛はビロードのようで、たまらなく気持ちがいいし、体温を近くに感じられてとても温かい。心地よい温かさは癒しそのものだ。

残念ながらその場に飼い主がいなかったので、桔平は撫でるのを我慢した。

「大人しいなぁ。顔はあんまり見えないけど、ドーベルマンとは毛の感じも違うし、なんていう犬種なんだろうね。」

そんな桔平の質問をガン無視して、緑菜は

「すみません、すみませーん!」

と奥に向かって声をかけている。そう。まずはアリスだ。

「はいはい、お待たせしました〜。」

そう言って奥の奥から、先ほどの女性店員が出てきた。

「怖がりって聞いてましたけど、相当でしたよ。」

「で?アリスはどこですか?」

女性店員はフフンと笑うと、

「あらあら、目の前にいるじゃありませんか。」

と言った。

目の前?と首を傾げた緑菜と桔平が「アリス」「アリス」と呼びながら狭い店内を見回しても、クンともキュンとも声がしない。

「ほら、そこのケージの中ですよ。」

指差した方を見ると、そこにいたのはさっきからこっちを無視している「なんちゃってドーベルマン」だけだった。

「えぇぇぇーっ!?」

呆然とする緑菜とは対照的に、桔平は爆笑した。


「お前、なんで金を払ったんだ。」

憮然とした緑菜が桔平に訊いた。

「だって、僕の言い方も悪かったし。それに、漏らしたのは、おしっこだけじゃなかったみたいじゃん。かなり大変だったと思うよ。」

あの時、呆然とする緑菜とは対照的に、桔平は大爆笑した。あまりにも思いがけない姿だったからだ。

普段なら、少し待たせただけでもキュンキュン飛びかかってくるアリスが、何度呼びかけても無反応を決め込んでいる。よほど腹を立てているのだろう。

「刈るようにとのご注文でしたので、ちゃあんとバリカンで刈りましたよ。すみませんが、バリカンだと痛い場所もありますので、そういうところはハサミでカットさせていただきました。」

緑菜が「バリカン!?」と鬼の形相で振り向いたので、桔平が笑いながらも体でそれを隠した。

「でもアリスちゃんは、本っ当に怖がりなんですねぇ。いろいろ漏らしちゃって、何度もシャンプーすることになったんですよ。まあでも、サービスで正規料金のままとさせていただきますねぇ。」

そう言われ、桔平は金額交渉を諦めたのだ。

始めはオヤツすら拒否していたアリスだったが、何度もご機嫌を取っているうちに、ようやく立ち上がった。

まるでアリスには見えないが、脳内で目の前のワンコをロン毛にイメチェンすると、間違いなくアリスになる。

車にのせるとこちらに顔を背けて丸くなり、家に帰ってもトトトッと部屋に入っていって、さっさとソファで寝てしまった。


ガチャガチャと鍵を開ける音がして、

「アリス!トリミングしたんだって?アリース?」

万がアリスの名前を呼びながら、ダイニングに入ってきた。

「アリス?」

いつもなら駆け寄るアリスが、今日はソファに鎮座している。

万はその場で固まって、アリスと見つめあっている。

「僕たち怒られるかな?」

「アリスだって気づかないんじゃないか?」

緑菜と桔平が2人でコソコソ話しているが、そんなことを気にする様子はない。

「ア・・ア、アリス・・?」

万はダダダダダッ!とアリスに駆け寄ると、

「なんて可愛いんだ!ショートカットもすごく似合うよ。寒くないか?急に短くなって、お腹壊さないように気をつけような。」

と言ってアリスの顔にスリスリした。そして、緑菜と桔平に向き直ると、

「本当にアリスは、どんなスタイルも似合うよな。お前らもそう思うだろ?」

そう言ってニッと笑った。

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