とんかつの・・
「この服なんかいいんじゃない?」
「気に入ったんなら、買えばいいだろう。」
「えっへぇ?別に気に入ったわけじゃないよ。ナッパに似合うんじゃないかと思ってさ。」
「俺は今のワードローブで十分だ。」
「でもこの服、絶対似合うと思うんだけどなぁ。」
「俺はいらん。こんなことのために、ここまで来たのか?」
「そうだそうだ、早く行こう。」
今日は、緑菜が珍しく特別展を観たいというので、国立科学博物館へ行くために、上野までやってきた。
アリスはおとなしくお留守番・・というわけではなく、アリスを溺愛する万が、ドッグラン巡りをするんだと言って連れ出していた。
「すっかり万の彼女だな。」
「見た目からして、助手席だと勘違いする人もいるよね。」
そんな話しをしながら博物館へ向かった。
「ああいうのが好きだとは思わなかったよ。」
「仕事にも使えるしな。お前のほうこそ、夢中になってたじゃないか。」
「いやあ、めちゃくちゃ面白かったよ。やっぱテレビで視るのと、たとえレプリカでも実物を観るのとでは全然違うもんだね。」
「それはそうだ。頭の中で空想するのに限界はないが、想像するのには限界があるからな。」
「よくわかんないけど、そうだね。」
特別展だけじゃなく、常設展示も昔とは当然ながら変わっていて、予想以上に楽しめた。
このまま家に帰ってもいいが、たまに上野まで来たんだから、食事でもして帰りたいところだ。
「ねえ、ご飯食べてかない?」
「そうだな。お前の好きなところでいいぞ。」
「なら、とんかつがいいな。ここら辺に、美味しいとんかつ屋さんがあったはずだよねぇ。」
キョロキョロしている桔平を置いて、緑菜はどんどん歩いて行く。
「ちょっと待ってよ、早いって!」
スマホの画面で「上野 とんかつ」と調べた検索結果を眺めつつ桔平が慌ててついて行くと、緑菜が一軒の店の前で立ち止まった。
「あっ!ここ!」
そこは、昔来たことのある古いとんかつ屋だった。
間口は狭く、道路に垂直に置かれた看板と暖簾がなければ、間違いなく、誰もそこがとんかつ屋だとは気づかないだろう。
「なんだよ、場所わかってたんなら言ってよぉ。」
と言う桔平に向かってニヤリと笑うと、まだ手動の片引戸を開けて、緑菜は中に入っていった。
「いらっしゃ〜い。」
店内は、カウンターが4席と、奥に2人掛けのテーブルが一つある、こぢんまりとした店だ。カウンターは3席埋まっていたので、テーブルに座った。
ここは老夫婦2人だけで切り盛りしている店だ。メニューは、ロースカツ、ヒレカツ、エビフライのみ。これが定食になると、豚汁と香の物と小丼に盛られた白飯が付いてくる。
「ロースカツ定食」
「僕も」
2人が選んだのは、共にロースカツだ。
「はいはい、2人ともロースカツ定食ね。」
お婆さんは、おしぼりとお茶の入った湯呑みを置くと、奥に戻っていった。
「ヒレカツの柔らかさもいいんだけど、脂身の甘さがたまんないんだよね〜。」
「そうだな。いつか好みが変わる時がくるかも知れないが、当面はロースだな。」
「僕は死ぬまでロースだ。」
おしぼりで手を拭きながら、今日の展示物の話しをしていると、奥からシュワワワッと肉をあげる音がしてきた。時折りパチパチと油がはねる音がする。
「この美味しい音がいいよね。」
「ここはラードを使って揚げてるから、衣にまで凝縮した豚の旨み染み込んでて、コクが強いんだよな。これぞ豚肉って感じがする。」
「そうだね。くどくない?って訊かれることあるけど、全然そんなことなくて、かえって軽く揚がってるんだよね。」
「どんな油も肉を入れると温度が下がるが、ラードは安定して高温をキープできるからな。だからこそ、すぐ表面に火を通して肉汁を閉じ込めることができるし、カラリと揚がる。そもそも旨い豚は脂身が甘くて旨い。そんな脂身を使って作られたラードで揚げるんだ。旨いに決まってる。」
「ね!楽しみだね!」
ワクワクしている桔平の横から、お婆さんが
「そんなに楽しみにしてくれて、ありがとね〜。カツももう揚がるからね〜。」
と言いながら、カツ以外の物を配膳してくれた。香の物は、沢庵と白菜の塩漬けだ。
「わあ!昔と変わんないね。」
ここは千切りキャベツを別皿で出す。遠い昔、桔平がしつこく店主に訊いた時、今より若かったお婆さんが、揚げたてのカツの側に、少しでも水分のある物を近づけたくないからだと、無口な夫に代わり教えてくれた。他の店のようにカツだけ網に乗せたとしても、揚げたてのカツから出る湯気の通り道を塞ぐようで、嫌なんだってさと笑っていた。最初から最後まで、サクサクの食感を味わって欲しいというのが、ここの店主のこだわりだ。
「キャッベツ、キャッベツ」
桔平がご機嫌な様子でソースを手に取った。
「まだカツはきてないぞ?」
「キャベツにかけるに決まってんじゃん。」
桔平の答えに、緑菜が慄いた。
「なんでキャベツにソースをかけるんだ!ここにドレッシングがあるじゃないか。」
テーブルには、店主特製ソース、岩塩、粗挽き胡椒、ゆずドレッシングが乗っている。
「なんでさ。とんかつのキャベツは、絶対ソースでしょ。」
「せっかくの特製ソースなんだぞ。カツ以外にかけてどうするんだ。」
「キャベツとカツの一体感も生まれるじゃん。」
そう言いながら、ふんわりと細く柔らかいキャベツの山に、ツーっとソースをかけた。
「バカを言うな。カツはカツで味わい、キャベツはキャベツで味わうものだ。カツの後に、しゃくしゃくとしたキャベツとドレッシングの軽やかな組み合わせを食べることで、口の中の油がスッキリと一掃されて、次のカツを受け入れる準備が整うんじゃないか。」
「いやいや、カツを食べるのに、口の中をスッキリさせる必要はないでしょ。どこまでもカツを食い尽くすのみ!キャベツは口直しになるけど、ドレッシングを使って口の中を味変しちゃうのは、カツへの冒涜だよ。」
「なにを言って・・」
緑菜が反論しかけた時、
「つべこべ言ってないで、さっさと食え!」
店主に怒られてハッと気づくと、お婆さんがカツ皿を置いて笑っている。
2人は慌てて手を合わせると、
「いただきます!」
と言って食べ始めた。
ここのロースカツは、やや厚めだ。緑菜は真ん中から、桔平は端から食べ始める。
一切れ目を上に向けると、完全に火が通っていながら、ほのピンクをしていて、透明な肉汁がじんわりと見えた。2人してうっとりと眺めると、まずは岩塩でいただく。金色に輝く衣に歯を入れると、さっくりと小気味よい音と共に肉が切れた。ロースといっても、ヒレのように柔らかく、ヒレよりも肉汁と甘い油が口の中に広がる。
「ふむむむむ」
「・・・・・」
2人とも声が出ない。次は岩塩と胡椒、その次がソースだなどと考えていると、
「次は3人で来てね。」
そう言って、お婆さんがニッコリと笑った。




