天津飯
「晩ご飯、天津飯でいい?」
寝そべってソファを占領しているアリスの腹を撫でながら、桔平が緑菜に声をかけた。
さっきまでドッグラン「エルムウッド」で走り狂っていたアリスは、今はこうしてイビキをかいて寝ている。時々鳴いたり脚を動かしているところをみると、楽しい夢でも見ているに違いない。
「天津飯?」
「うん。今日さ、いつもの帰り道が渋滞してたから迂回したんだけど、行く道行く道渋滞してて、かなり迂回することになっちゃってね。そしたら良い感じの町中華があってさぁ。なんだか無性に、天津飯が食べたくなっちゃったんだよね。」
「なぜ町中華から天津飯が思いつくんだ?」
「ちょうどエルムウッドで会った人が、天津飯食べてきたって言ってたんだよ。話しを聞いた時は、お腹減ってなかったから聞き流してたんだけどね、なんか思い出しちゃって。」
桔平はヘヘヘッと笑って額を掻いた。
「じゃあ、夕飯はそれにしよう。一緒に作るよ。」
「でも今日は忙しいんじゃないの?」
緑菜は、朝からずっと仕事部屋に籠っていた。
「一段落したから大丈夫だ。気分転換にもなるしな。」
「やったね!じゃあ、材料買ってくるよ。」
「卵と調味料はあるから、あとはカニカマだな。野菜不足にならないようにネギも入れるか。ネギと、あれば生キクラゲを買ってきてくれ。」
「干したキクラゲじゃダメなの?」
「戻すのに時間がかかるんだ。ぬるま湯やレンジを使うと早く戻るが、水で戻したほうが旨いからな。だったら生が良い。」
「了解。グリーンピースは?」
「俺はいらん。お前が入れたければ買ってこい。」
桔平が帰ってくると、ドアの向こうにアリスがいるのがわかった。クフンクフン言いながら、中でウロウロしている様子が容易に想像できる。まったく可愛い奴だ。
「ただい・・うわっ!ははは。ヨーシヨシヨシ。」
鍵を開けた瞬間、アリスが飛びかかってきて思わずよろけた。アリスは長い鼻面を寄せて、長い舌で桔平の顔を舐めまわしてくる。
「わかった、わかったって。」
顔を乱暴に撫でてやると細長い尻尾をブンブン振って、嬉しそうにジャンプしながらキュンキュン鳴いた。
「ただいま〜。」
「おかえり。米はもうすぐ炊けるから、さっさと上にのせる蟹玉を作ろう。桔平はカニカマをほぐしてくれ。全部で良い。」
「任せてといて!」
緑菜はネギを半分くらいに切ると、位置をずらしながら包丁を何ヶ所にも突き刺して、縦に切れ目が入るようにした。この状態で薄い輪切りにすると、あちらこちらに入った切れ目のおかげで、荒微塵切りになる。
卵をボウルに割り入れると箸でといて、ネギと細切りにした生キクラゲ、カニカマを加えたら塩を軽くふる。カニカマに塩味があるから、具材がカニカマだけなら塩は入れない。トロミ餡をかけるから、しっかり味がついている必要はないからだ。
「桔平、甘酢餡の方を頼めるか?」
「了解!」
ジュワワワワーッ
ごま油を熱したフライパンに、具材が偏らないようにしながら卵液を半量入れる。中華は強火。あっという間に、縁が膨らんでひらひらと油の中で泳ぎ始める。そうしたら箸で大きくかき混ぜて、半熟状態になったところで、パン祭りの皿に盛った白米にのせる。
「一皿できたぞ。・・・なあ、さっきから妙にケチャップの匂いがしないか?」
「え?」
「な、な、なな、なにやってるんだ!」
「何って?」
「それはケチャップ餡だろう!」
「そうだよ。なんで?」
「天津飯は、醤油餡に決まってるじゃないか!」
「えぇっ!?ケチャップ餡でしょう。」
「いいから、ちょっとどけ!」
「えぇぇ。」
「お前はスープでも用意しとけ!」
1人分の醤油餡ならすぐにできる。
そこからの緑菜は、大急ぎで醤油餡を作りながら、並行して蟹玉を作った。急がなければ、先に作ったせっかくの半熟ふわとろ蟹玉に、余熱で火が通ってしまう。
甘酢餡はこんなところか。本当はもっとよく練りたかったが・・仕方がない。
横目でチラリと見ると、桔平が鍋に入れた鶏がらスープの素に、残ったネギを薄い輪切りにしたものとみりんを少しだけ入れて、ポットのお湯を注いでいる。どうやら具材をネギにしたスープを作るようだが、緑菜がコンロを2口とも使っているから、ひとまずお湯を入れておいて、後でコンロにかけるつもりなんだろう。
二つ目の蟹玉を白米にのせると、
「こっちに、そのケチャップ餡をかけろ。俺はそっちに醤油餡をかける。」
そう言いながら、先に作った方の蟹玉オンザライスに、熱々の醤油餡をかけた。
桔平は空いたバーナーに急いでスープ鍋をのせて火をつけると、ケチャップ餡を蟹玉にかけた。
「ふぅ。これで温まり具合も大体同じにできただろう。」
向かい合わせに座って同時に手を合わせると、
「いただきます。」
と言って蓮華を手に取った。スプーンでも良かったが、何となく雰囲気を出したくて桔平が蓮華にしたのだ。
どちらの中華丼にも、艶々した餡がとろりとかかっている。
「だいたい、何でケチャップ餡を作ろうとしたんだ。天津飯の甘酢は、醤油餡こそ正義だろう。」
「なんで醤油餡じゃないとダメなんだよ。見てよこれ。」
桔平はそう言ってケチャップ餡ごとすくった。
「赤いケチャップの色が食欲をそそるでしょ?地味な醤油餡と違って食卓もパッと明るくなるし、何と言っても、」
パクリと口に運ぶと、ムフゥ〜と目を細めた。
「この、トマトの主張し過ぎない酸味。そして甘味。これが絶妙に効いた優しい味!たまらないよ。」
「何を言ってる。」
そう言うと、緑菜も天津飯をすくった。
「この美しく艶やかな醤油餡。」
緑菜は口に入れると、うんうんと頷いた。
「火を通したことで、醤油の角が取れて丸くなったまろやかな深い味わい。酢は適度に酸味が飛び、砂糖と一体となってコクを増している。そしてこの、」
そう言って皿を持ち上げた。
「香ばしいようなスッキリした香り。」
鼻を近づけて香りを嗅ぐと、はあ〜と溜息をついた。
「これは、醤油だからこそもたらされるんだ。ケチャップ餡は、蟹玉の味を変えてしまう。醤油餡は蟹玉の味を底上げしてるんだ。」
「ケチャップ餡は、味を変えてるんじゃなくて、味を足してるんだよ。」
「・・それはそれとして、点在しているこれは、グリーンピースに見えるが?俺はグリーンピースはいらないと言ったはずだ。」
「いいじゃん。嫌いじゃないでしょ。緑があるとパッと明るくなるし、栄養もプラス!良いことづくめでしょ。」
シューーーッ シュワワワワワ
「あ!ヤバい!」
スープが吹いてしまい、桔平が慌てて火を止めた。
「あちゃ〜、忘れてた。」
緑菜が立ち上がってスープを器によそいながら、吹きこぼれを拭いている桔平に
「応急処置だけして、冷めないうちに食べよう。無論、掃除はお前な。」
と言った。




