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冷やし中華

硯の陸に水を数滴落とし、ゆっくりと優しく墨をする。

のの字を描くように、ゆっくり・・ゆっくり・・。

プンッと芳しい墨の香りが立ち昇る。

「はあぁ〜、墨の匂いだ。」

癖のある墨の香りが、桔平は好きだ。

この香りは桔平にとって静寂の象徴であり、無への入り口となる。無といっても虚無ではない。自分を集中させることで、頭の中にある全てを追い出すのだ。

すった墨に少しとろみがついたところで、海に落とす。

また陸に数滴の水を落とし、のの字を描く。

シュ シュ シュ・・

気づくと、海一杯の墨が出来上がっていた。

黒いフェルトの上に半紙を置いて、文鎮で押さえる。

墨と筆以外は、小学校の習字で使っていたものだ。

「よし。」

小さく呟くと、お気に入りの筆を手に取った。


緑菜は、読んでいた英字新聞を綺麗に畳んで目の前に置くと、テーブルに肘をついたまま目を瞑り、微動だにせず椅子に座っている。

「ナッパ、寝てんの?」

「・・・・・・」

「ねえ、寝てんの?」

「・・起きてる」

「ふうん。何してんの?」

「・・・・・・」

「ねえ、何してんの?」

「だから!一目で瞑想中だってわかるだろう!」

緑菜がカッと目を見開くと、桔平はさながらイタズラっ子のような顔でニヤニヤ笑っていた。

「わざとだな。」

「当たり前じゃん。ナッパは、いっつも瞑想してんだもん。」

そう言って桔平は、カップにコーヒーを注ぎながらケラケラと笑った。

「お前だって、和室で集中してきたんだろう?」

「まあね。あれが僕のストレス発散法だから。」

それを聞いて、今度は緑菜がクックックッと笑った。

「お前にストレスがあるとは思えんな。それにしても、いい加減に文机でも買ったらどうだ?ちゃぶ台じゃあ、半紙を広げても書きにくいし、格好つかないだろう。」

「しっつれいだな〜。だいたい、格好なんて関係ないの!ちゃぶ台は畳めば箪笥の横に立てかけて置けるし、しばらく使わないんだったら、押し入れにしまっちゃえばいいし、最強だよ!」

「文机なら、引き出しや棚付きもあるから文具も入れられる。四隅もきっちり使えるぞ。」

桔平はフンッと鼻を鳴らして窓際に行くと、コーヒーをすすりながら庭を眺めた。そこには、雌雄のキウイが植えてあり、毎年沢山の酸っぱいキウイが収穫できる。桔平は昔、なんでこんなに酸っぱいのか万に訊いたことがあるのだが、とても古い品種だからだという返事が返ってきた。緑菜と万が子どもの頃からここにあったそうで、その頃は木もまだ若く、今よりずっと沢山収穫できたんだそうだ。

その青く茂るキウイの葉の下に、お気に入りのサメのソフビ人形で遊ぶ、アリスの姿があった。

グルルルルル ハッ グルルルルル

喉を鳴らしながらサメをガッチリ咥えて振り回し、向こうの方へ放り投げては取りに行く。それを飽きもせずにいつまでも繰り返している。

もともとは、噛むたびにキューキューとサメらしくない音で鳴っていたのだが、すぐに穴が開いて音がしなくなった。それでも気に入っていて、眠くなるとドッグコットへ咥えて運んでいく姿がとても可愛い。

アリスがこちらに気づきそうになって、桔平は慌てて引っ込んだ。せっかく一匹で楽しく遊んでいるのに、目が合うとサメを放り出してこっちに寄ってきてしまう。運動がてら、しばらく遊ばせた方が良いだろう。

桔平は、ソファに座ってテレビをつけると、何かを探すようにチャンネルを替えていたが、とあるシーンで釘付けになった。

「ねぇ、お昼は何にするの?」

テレビを視ていた桔平が、少年のように目をキラキラさせている。

「さあてな。まだ決めてない。」

「じゃあさ、冷やし中華にしようよ!」

「ああん?簡単に言うな。あれは存外面倒臭いんだぞ。」

「僕も具を切るから!ね、いいじゃん。」

「どうした急に?」

「いまテレビでやってたんだよ。そしたら、冷やし中華が食べたくなっちゃった。」

やれやれといった様子で冷蔵庫を開けると、緑菜は具材になるものを探し始めた。

「キュウリとサラダチキンがあるから、とりあえず麺とトマトを買ってこい。その間に、薄焼き玉子を焼いておく。」

その言葉に、桔平が反応した。

「待って待って、なんでサラダチキンなの?そこはさぁ、やっぱハムでしょ?」

「なぜだ?サラダチキンは胡麻ダレに合うぞ?棒々鶏だって・・」

「違う違う違う!胡麻ダレじゃないよ、僕が食べたいのは醤油ダレ!あの酸味がきいた冷やし中華が食べたいんだよ。」

「何が酸味だ。冷やし中華だったら、胡麻ダレに決まってるだろう。」

「違うって。あの醤油ダレが、口の中をさっぱりさせてくれるんじゃない。」

「胡麻ダレはな、強すぎない酸味と胡麻のコクが具材と麺に絡みついて、全体がふくよかな味になるんだ。」

「いわゆるハーモニーってやつ?」

桔平の言葉に緑菜が目を見張った。

「ハーモニーって・・お前、恥ずかしげもなくよく言えるな。」

「え?何でさ。でもそういうことでしょ?」

桔平は不思議そうな顔をした。時々こうやって、互いの言葉のチョイスに驚くことがある。

「だけどさ、胡麻が強すぎて全部胡麻の味になっちゃうじゃん。」

「違うな。胡麻の旨みが重なるんだよ。具材の旨みと胡麻の旨みの相乗効果というところだ。」

「ちょっとハム買いに行ってくる。僕は絶対、醤油ダレだからね!」

「あ!こら!」

あとトマトね〜と言う声と、ドアがバタンと閉まる音はほぼ同時だった。

「・・胡麻ダレを買ってこなかったら、もう一度買いに行かせるからな。」

緑菜は器に卵を割り入れると、カシャカシャと溶きながらブツブツ独りごちた。


「一袋2人前入りなんだけど、両方買ってきたよ。ナッパのた、め、に。」

緑菜に向かってニンマリ笑みを浮かべると、桔平はタレ付きで販売している冷やし中華の生麺をテーブルに置いた。続けて、クツクツと笑いながらトマトとハムのパックをマイバッグから出して並べていく。

「・・・・・」

緑菜は無表情のまま腕組みをすると、

「さっさと具材を切るぞ」

とだけ言った。

「は〜い!」

桔平がハムとトマトを切る間に、緑菜はキュウリと卵を切っていく。トマトは半月切り、その他は千切りだ。

「あらかた具材は切り終わったな。じゃあ麺を茹でるぞ。」

お湯に麺を入れた緑菜が振り向くと、桔平がせっせと何かをほぐしていた。

「カニカマも買ったのか。」

「さっきテレビで視たのに入ってたんだ。」

「俺の分はいらないぞ。そら、湯こぼしして水洗いするから、皿を出して用意しておけ。」

桔平の用意した少し深みのある平皿に水切りした麺を盛ると、2人でそれぞれに切った具材をのせていく。

「好きにのせるのって楽しいよね!なんか食べ放題みたい。」

「玉子とハムをのせすぎだ。ちゃんとバランスよく盛れ。麺とのバランスってのもあるんだぞ。」

「だってさ、具が余っちゃうよ?」

「晩に春雨サラダを作ろうと思って多めに用意したから、余っていいんだ。しかし、ずいぶんカニカマがあるな。」

「もっと少ない予定だったんだけど、ほぐしてみたら結構な量になっちゃって。」

桔平はニンマリと笑い、

「ねえ、あとはタレかけるだけだし、僕がやっとくから鍋とか洗っちゃいなよ。」

と提案した。

「・・・俺の分は胡麻ダレだぞ。」

「大丈夫、大丈夫!」


「いただきまーす!」

「・・・・・」

「早く!伸びちゃうよ!」

「何でカニカマがこんなになってるんだ。俺はいらないと言っただろう。」

仏頂面で言った緑菜の冷やし中華には、こんもりとカニカマの山ができている。

てへっ!と、イタズラを見たかった子どものように桔平が笑った。

「絶対、胡麻ダレにもカニカマ合うって!ほら、早く食べよ」

緑菜に勧めながら具材と麺を混ぜると、ズルルッとすすった。

「ふわぁ、これこれ!この、キュウリやハム、玉子なんかが麺と混ざり合って、酸味のある醤油ダレが絡むと、堪らないね!で、ここで」

皿の縁に出した辛子と紅生姜を、箸で少しずつ取ってさっきと同じように混ぜ、再びズルルッと口に入れる。

「うん、さっきとは味が変わって、ねり辛子と生姜の辛味が加わって、大人の味になってる。生姜がパンチがあるんだよね!全部を一気に混ぜちゃう人もいるけど、僕は少しずつ混ぜたい派なんだ。」

「俺はサラダチキン、キュウリ、玉子、トマトだけが良かったんだ。何でハムと大量のカニカマまでのってるんだ。」

緑菜は、このまま混ぜたらカニカマ冷やしになるじゃないかと、ブツブツ文句を言いながら麺をすすり

「このコクだよ。麺も具も、胡麻のコクが加わることで、なめらかで芳醇な味になるんだ。うぅむ、やっぱり胡麻ダレが最高だ。」

と頷いた。

「ところで、今日何を書いたんだ?」

たっぷりの胡麻ダレを絡ませたサラダチキンとキュウリを口に運びながら、緑菜が尋ねた。

「うに。」

「え?」

「う、に。」

「・・・・・」

「本当は平仮名で『ふぐ』って書くつもりだったんだけど、『ふ』のバランスが難しかったんだよ。だから、画数を減らしたんだ。」

そう言って、桔平はご機嫌で麺をすすった。

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