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ちゃぶ台の向こう側 (改訂版)  作者: 仙道 神明


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8/20

七品目 コロッケ

「合唱コンクールの曲、決まったぞー」


昼休みの教室に、担任の声が響いた。


「我がクラスは、『翼をください』だ」


一斉に歓声とため息が混じる。

その中で、澪は少しだけ肩をすくめた。

歌うのは嫌いじゃない。けれど、大勢の前で声を出すのは苦手だった。


隣の席の昭一が、軽く笑いながら覗き込む。


「この曲、うちの母ちゃん、家事しながら良く歌ってる」


「へぇ……」


冗談めかして言う声に、思わず澪も笑った。

そんな笑い声が、ほんの少しだけ、梅雨前の重たい空気をやわらげた。


⸻数日後の放課後。


音楽室に響くピアノ伴奏の音。クラス全員が並び、真剣に歌っている。

でも、澪の声は、自分でも聞こえないほど小さかった。


「もっと前向いてー!」


音楽の先生の声が飛ぶ。澪は思わず俯く。

歌声を出すことが、こんなに怖いなんて。


帰り道。


昭一と澪が歩いていると、後ろから良子が声をかけてきた。


「澪ちゃん、聞いたよ! 今からさ、一緒に練習しよ!」


「練習って、どうやって……?」


「決まってるじゃん!」


良子がニッと笑う。



駅前のカラオケBOX。


入った瞬間、昭一が思わず言った。


「うわっ、なんか懐かしい匂いする」


「来たことあるの?」


「家族で昔、よく来たんだ」


良子はリモコンを構え、テンション高く叫んだ。


「まずは私から! 中森明菜の

『飾りじゃないのよ涙は』!」


「知らない……」と澪が小さく呟く。


「うそ、知らないの!? 名曲だよ、名曲!」


画面に流れる昭和の映像。カラオケBOXの照明が、歌に合わせて淡く点滅する。


昭一がタンバリンを叩きながら笑う。


「母ちゃんもこれ歌うんだ、家事しながら」


「……お母さん、楽しそうだね」


「うん。あの人、歌うときだけ若返るんだ」


澪はその言葉に、少し胸が温かくなった。


次は昭一の番。


彼が選んだのは、チェッカーズの

『星屑のステージ』。

歌い出した昭一の声は、意外とまっすぐで、どこか優しかった。


良子が拍手をしながら笑う。


「昭一、下手じゃない!」


「おい、褒め方おかしいだろ」


澪はマイクを見つめながら、思わず呟いた。


「知らない曲ばかりだけど……何か楽しい」


良子がすかさず差し出す。


「じゃあ、澪ちゃんの番!」


「え、でも……」


「ほら、これ。合唱の曲、入ってるよ」


画面には「翼をください」。


澪は少し迷い、そしてマイクを握った。


最初の音が流れる。声が震えた。でも、途中で気づいた。

昭一が、良子が、ちゃんと聴いてくれている。それだけで、不思議と声が出た。


♫ 今、私の願いごとが かなうならば——


終わったあと、部屋に一瞬の静寂。

昭一がぽつりと呟く。


「……すげぇ、いい声だな」


澪は頬を赤らめ、うつむく。けれど、その顔には、確かな笑みがあった。


⸻合唱祭当日。


体育館に生徒たちのざわめきと湿った風が流れる。

澪のクラスが舞台に上がると、ライトの眩しさに一瞬目を細めた。


それでも、前を向いた。


ピアノが始まる。声が重なる。

澪は、自分の声がみんなの中に溶けていくのを感じた。


――あぁ、歌うって、こんなに気持ちいいんだ。


歌い終わった瞬間、拍手が広がっていた。



合唱祭の熱気がまだ残る夕方。

体育館を出たあと、昭一が小さく笑った。


「なあ、今日の打ち上げってことでさ……晩メシ、うちで食ってけよ」


「えっ、でも――」


「母ちゃん、コロッケ揚げてる。いつもより多めに、な」


その言葉に、澪はふっと表情をゆるめた。


「……じゃあ、お言葉に甘えて」



ちゃぶ台の上には、湯気を立てるコロッケの山。じゃがいもの甘い匂いが部屋いっぱいに広がる。


母ちゃんが得意げに言う。


「今日はね、合唱祭おつかれパーティー! ほら、揚げたて食べて!」


良子がハフハフ言いながら頬張る。


「ん~~! やっぱ母ちゃんのコロッケがいちばん!」


昭一は箸を動かしながら澪を見る。


「本番、すげぇよかったな。声、ちゃんと届いてた」


「……ありがと」


澪は少し照れながらも、笑みをこぼす。


父ちゃんが新聞をたたんで言った。


「歌ってのは不思議だよな。その人の声が、心に届く」


その言葉に、みんなが一瞬だけ黙る。

でも、重くならない。


母ちゃんが明るく声を上げた。


「はい、食後のコーヒーね」


良子が小さくため息をつく。


「……また湯呑みなんだ」


「いいじゃん、味は変わらないんだから!」


みんなが笑う。


ちゃぶ台の上、湯呑みに注がれたコーヒーの香りが、ゆっくりと部屋に広がる。


澪はその湯気を見つめながら、思う。


――この家のあたたかさは、どんな器に入れても、ちゃんと伝わる。


雨音が止んだ夜。澪の心には、まだ歌の余韻が流れていた。


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