四品目 シチュー
翌朝、教室のざわつきの中、澪は一人で席についた。
周囲の友達グループは、スマホを見せ合いながら盛り上がっている。
「昨日の配信見た?」「バズってるじゃんw」そんな声が飛び交う。
——でも、そこに澪の居場所はなかった。
ふと視線を感じて横を見ると、昭一がこっちを見て、軽く手を振った。
小さなジェスチャーだったけど、それが妙に心強かった。
先生の声は遠くに聞こえて、教科書の文字も頭に入らない。
昨日の夜、あのちゃぶ台で感じたぬくもりが、胸の奥に残っている。
「ただいま」って、言いたくなる場所。
誰もスマホなんて見てなくて、目を見て笑ってくれる場所。
教室には、ないものばかりだった。
「澪ちゃんってさ、最近ちょっと変わったよね?」
「前より表情柔らかくなった気がする~」
そんな声がちらほら聞こえる。
澪は驚いたように目を伏せるが、どこか悪くない気分だった。
帰り支度をしながら、澪がふと昭一の方を見て話しかける。
「……今日、忙しい?」
「ん? いや別に」
「……よかったら、また……行ってもいい?」
昭一は一瞬きょとんとして、でもすぐに笑う。
「もちろん。カレーの次はシチューだって母ちゃん張り切ってたし」
澪はちょっと笑って、「うん」と小さくうなずいた。
放課後、並んで歩くふたりの足音が、アスファルトの坂道に響いていた。
「……昨日のカレー、本当に美味しかった」
「だろ? でも今日の母ちゃん、気合い入ってるっぽいからもっとヤバいぞ。多分“シチュー祭り”とか言ってる」
昭一の言葉に澪がクスッと笑った、そのときだった。
「おーい昭一ィ!」
声の主は、商店街の角にある古びた八百屋の店主。
割烹着にタオル鉢巻き、昭和のマンガに出てきそうな顔のオヤジが、手を振っていた。
「こないだのイモ、うまかったか?」
「うん!あれ、超当たりだったよ」
すると澪が、少し緊張しながらも笑顔で言った。
「お芋、美味しかったです。ありがとうございました~」
店主は一瞬、きょとんとした。
「……は? 誰?」
「あ、あの……」
「この子、うちに遊びに来た友達だよ。昨日のカレーの客人!」
「お、おう……そ、そうか。……ま、また来な!」
店主は照れ隠しのように背中を向け、青果の箱をガサゴソいじり出した。
昭一が小声で笑いながら言う。
「今の、“は?”が最大級の照れ隠しだから。ほんとはうれしいくせにさ」
「……うん。そんな感じがした」
ふたりの笑顔が、夕暮れの道にやわらかく浮かんでいた。
矢崎家の近くまで来たとき、前から誰かが走ってくる。
「うっわ、遭遇~!」
良子だった。
制服のままスマホ片手に全力ダッシュで近づいてくる。
「澪ちゃん!ちょっと待って、その並びサイコーすぎ!TikTok撮らせて!」
「えっ、ちょ、ムリムリムリ!」
澪が慌てて身を引くと、良子はスマホを構えながら食い下がる。
「じゃあ写真だけでも!いいじゃん、記念だし!昭一、笑って!」
「お、おう?」
バシャッ。
一瞬のポーズ、照れた笑顔、そしてピース。
澪はカメラのレンズが向けられるなんて久しぶりで、少しだけ頬を赤らめていた。
「やばっ、いい写真撮れた!保存保存~。昭一の初・女子ツーショじゃん?」
「うるせっ」
そうこうしているうちに、家の前にたどり着いた。
3人で並んで、玄関の戸をガラッと開ける。
「ただいま~!」
今日の“ちゃぶ台”が、また少し近づいていた。
「いただきまーす!」
ちゃぶ台のまわりで一斉に手が合わさる。
今日は母ちゃん特製の“シチュー祭り”。大皿に盛られた山盛りごはんと、湯気を立てるシチューの匂いが食欲をそそる。
「このにんじん、星の形じゃん!」
「和夫用。母ちゃんの愛情ね」
「子ども扱いすんなー!」
和夫が口をとがらせて言うと、良子がすかさずスマホを取り出した。
「そういえばさ、さっきいいの撮れたんだよね~」
「あー!やめろよ、見せんな!」
昭一が焦って手を伸ばすが、遅い。
良子がスマホを母ちゃんに向けて見せた。
「ほらこれ。昭一と澪ちゃんのツーショ。なかなか良くない?」
「まぁ~~!あんたたち、なんだかお似合いじゃないの~」
母ちゃんがニヤニヤしながら言い、父ちゃんがごはんを口に運びながらポツリ。
「……結婚式の写真かと思ったぞ」
「ちょっ……!」
昭一がスプーンを落としそうになる。
澪は顔を真っ赤にして、何も言えずうつむいた。
でも、頬が少しだけほころんでいた。
その瞬間、澪はふと気づいた。
このちゃぶ台には、誰かをからかったり、笑ったり、怒ったりしながらも、
ちゃんと「澪」って名前で呼んでくれる人たちがいる。
いつもは自分の存在なんて、家の中で薄くなっていくばかりだったのに。
ここでは、名前も、笑い声も、自分の居場所も——すべてが、自然にあった。
澪はそっと顔を上げて、
「……美味しいです」
と言って、シチューを口に運んだ。
その味は、やっぱりあたたかかった。
——夜。
家に帰ると、いつものようにリビングには誰もいなかった。
スマホの通知を見ても、母からの連絡はない。
けれど今日は、どこか心の奥が空っぽじゃなかった。
部屋に入り、ベッドの上に座る。
制服のポケットから、スマホを取り出す。
画面をスライドすると、良子が撮ったツーショット写真がそこにあった。
「……あ」
思わず声が漏れる。
画面の中の自分は、少しだけ頬を赤らめながら笑っていた。
誰かと並んで笑っている――
それだけのことなのに、今までの自分には無かった表情だった。
ふと、ちゃぶ台を囲んだ夕食の光景がよみがえる。
にんじんの形、湯気、笑い声、
そして、自分の名前を呼んでくれた声。
あのちゃぶ台に座っていたときの自分は、
“客”ではなく、“誰かの輪の中にいる人”だった。
澪はそっとスマホを胸に当てた。
目を閉じると、思い出の中のちゃぶ台が浮かんでくる。
「私は、笑ってもいいんだ」
静かな部屋の中で、
小さな気づきが、じわりと胸に染み込んでいった。




