二品目 肉じゃが
放課後。
校門を出たところで、昭一はふと少女の後ろ姿に気づいた。
校庭の隅で、ひとりベンチに座っている。
「……? 何してるんだ、そんなところで」
呼びかけると、少女は驚いたように振り返る。
そして、ほんの少し迷ってから、ぽつりとつぶやいた。
「……帰りたくないの」
「え?」
「別に、深い意味はないけど……なんか、しんどくて」
その表情は、どこか無理に笑っているように見えた。
昭一はしばらく考えてから、背中をぽんと軽く叩いた。
「じゃあさ――うち、寄ってく?」
「……え?」
「ウチ、変な家だけどさ。ちゃぶ台あるし、ブラウン管テレビもあるし。
……たぶん、タイムスリップしたみたいで、ちょっと笑えると思うよ」
目をぱちくりさせた後――
ふっと、吹き出した。
「……ほんとに?」
「ほんと。色々と昭和アイテム見せてやる!」
「……じゃあ、ちょっとだけ」
昭一は自転車の後ろに少女を乗せて、夕暮れの路地を走り出す。
「このチャリで2人乗りはキツい…」
「……珍しい自転車だね」
少女を乗せた昭一の自転車が、路地を曲がる。
そこには、テレビや映画で観たような、どこか懐かしい風景が広がっていた。
自転車を漕ぎ続ける昭一、
やがて、ちゃぶ台が待つ家へ。
誰かの心を、そっと包む場所へ。
「ただいまー」
「おかえりー、って……あら?」
玄関に顔を出した母ちゃんが、少女の姿に目を丸くする。
そしてすぐ、ニッと笑った。
「まあまあまあ、昭一に女の子!? 初めてじゃない!」
「ち、違うって!」
昭一が焦って否定すると、少女はぺこりと小さく頭を下げた。
「間宮澪です……ちょっと、帰るタイミングを逃してて……」
「そっかそっか、いいのよ! ようこそ! ごはん、食べてくでしょ?」
「あ、あの……」
「うちはね、来る者拒まず、腹は減らせず! 昭一、案内してあげな!」
「うん、じゃあ……こっち」
昭一は、居間の隣にある応接間のような部屋へ澪を案内した。
そこには――
「え、これ……黒電話?」
澪が目を止めたのは、分厚い受話器とダイヤルのついた電話。
「そう。まだ現役。ダイヤル回すの時間かかるけど、慣れると逆に落ち着くよ」
「?、ダイヤル?……回す?…うそ……」
「あと、これがラジカセ。こっちはレコードプレーヤー。父ちゃんがまだ使ってる」
澪は少しずつ笑みを浮かべながら、室内を見てまわった。
「なんか……昭和って、映画とかドラマで見るだけだったけど……本当にあるんだ、こういう家」
「まあ、うちは変わってるってよく言われるけど……俺にとっては普通かな」
そんなやりとりをしていると、玄関の戸がガラッと開いた。
「ただいまー!」
妹の良子と弟の和夫が帰ってきた。
居間をのぞいて、ちゃぶ台の前に座る見知らぬ少女に、ふたりとも一瞬固まる。
「……え、誰?」
「お兄ちゃん、ついに彼女できたの!? マジ?」
和夫が目を輝かせ、良子が澪をまじまじと見つめる。
「ちょ、ちがっ……!」
「ねぇ、美人すぎない? 黒髪でロング、しかも無口系ってさ……少女マンガのヒロインじゃん……」
良子は憧れを隠さず、思わずスマホを構えかけた。
「おい、やめろやめろ!TikTokに上げるなよ!」
「わかってるって!ただ、リアルでこういう子がいるなんて……ギャップすご……」
澪は少し恥ずかしそうに笑い、ぺこっと会釈する。
「間宮澪です……よろしく」
「わー……かわいい声」
良子がボソッとつぶやく。
その時――
「ただいまー!」
玄関に重たい足音が響き、鉄男が帰ってきた。
作業着のまま、ゴツい手で頭をかきながら居間に入る。
「……ほう。今日は珍客が来とるな。昭一の、知り合いか」
「はい……間宮澪っていいます」
「澪ちゃんか。……よう来たな」
不器用ながらも、どこかあたたかい声。
「今日は……なんだか楽しそうだな。なあ、母ちゃん! 酒出してくれや! 澪ちゃんも一杯!」
「出しません!!」
和代の突っ込みが即座に飛ぶ。
「まったくもう、子どもに酒すすめるとか……」
「ははっ、すまんすまん」
澪が小さく笑う。
その笑みは、学校では一度も見たことがないような――あたたかいものだった。
和夫がふと、
「父ちゃんと母ちゃん、いつも楽しそうだよね!」
澪はその言葉にドキリとした。
家族の何気ない会話、笑い声、
“私には、もうそういう空間や笑顔は――ない”
ちゃぶ台に並ぶ肉じゃがと冷や奴。
それを囲む家族の空気。
澪の中の何かを、静かに溶かしていく。
夕食を終え、ちゃぶ台の上には湯呑みと小皿だけが残った。
母ちゃんがお茶を注ぎながら笑い、昭一も思わず口元をゆるめた。
澪はというと――
ほんの少し、背筋を伸ばして、微笑んでいた。
肩の力が抜けて、空気になじみはじめていた。
――それは、本当にわずかな“ぬくもり”だった。
だがその時。
弟の和夫が、ふとテレビのリモコンを手にした。
「野球やってるかな~?」
カチャッ。
画面には、昼ドラのような不倫劇が映し出された。
ソファーの男女が、泣きながら罵り合っている。
『あなた、浮気してたんでしょ!?』
『だからってお前まで他の男に……!』
そのセリフを聞いた瞬間、澪の表情がふっと曇った。
箸を置いた手が、ちゃぶ台の端を握る。
目を伏せ、口をつぐむ。
空気が、わずかに変わった。
昭一は気づいた。
でも、何がどうしたのかまでは、わからなかった。
「……なんだなんだ、野球やってねえのか」
低い声がちゃぶ台の向こうから飛ぶ。
鉄男だった。
「こんなくだらんもん、消せ。飯のあとに見るもんじゃねえ」
カチッ。
昭一が慌ててテレビを消した。
「……すみません」
そう言った澪の声は、少しだけ震えていた。
母ちゃんが、そっと湯呑みを差し出す。
「澪ちゃん、お茶のおかわり、飲む?」
「……はい」
俯いたまま、澪は頷いた。
誰も何も言わない。
でも、それがよかった。
誰も知らないけれど、ちゃんと“守られた”気がした。
ちゃぶ台の向こう側には――
テレビのセリフよりも、ずっと静かな優しさがあった。
⸻帰り道。
「……ありがとう、今日は」
「え、なにが?」
「なんでもない。……けど、なんか、落ち着いた。……久しぶりに、普通のごはん食べた気がする」
昭一は照れくさそうに頭をかいた。
「また来なよ。ちゃぶ台、毎日空いてるし」
「……ふふっ、うん」
その笑顔は、ほんの少しだけ――心を開いた証だった。
⸻
澪が帰宅すると、家の中はひんやりと静まりかえっていた。
リビングにはスマホをいじる母がひとり、テレビもつけずに座っている。
「ただいま、お母さん」
「……あぁ、おかえり」
「友達の家でご飯ご馳走になっちゃった」
「あぁ、そう……」
うわの空で短く返事をするだけだった。
澪は上着を脱ぎながら、ふと話しかける。
「今日ね、友達の家で昭和家電を初めて見たの。黒い電話で、丸の中に数字が入ってて……どうやって押すのかなぁ、あれ」
「ふーん、そう……」
母は画面をスクロールし続け、澪の声に耳を傾ける様子はなかった。
言葉を続けるのが、少しだけ恥ずかしくなった。
「……あの、お父さんは?」
「さぁ……また女のところでしょ」
その瞬間、チャイムの代わりに“音”が鳴った。
家の前に停まった車のライトが、閉め忘れたカーテン越しに部屋を照らしていた。
「あ、キタ……。ちょっと出かけてくる」
そう言い残すと、母はそそくさと上着を羽織り玄関を出た。カーテン越しに見る母は、楽しげに見知らぬ男の車へと乗り込んでいった。
シャッ!!
澪はカーテンを勢いよく閉めると、そのまま自分の部屋へ走り込んだ。
ベッドに潜り込み、毛布をぎゅっと抱きしめる。
目を閉じると、ちゃぶ台を囲んだ矢崎家のあたたかい空気が浮かぶ。
涙が頬を伝いながら、心の中でぽつりとつぶやいた。
「……昭和へ行きたい。矢崎くん……私のちゃぶ台は、どこ?」




