十三品目 オムライス
夕方の台所。フライパンの上で、バターの香りがふわりと広がった。
「ケチャップ、もう少しね」
と、母ちゃんが木べらを動かす。
ちゃぶ台の上には、湯気を立てる卵と、ハート型に絞られたケチャップ。
今日のメニューは、家族全員が大好きな“オムライス”だった。
「おっ、今日オムライスか!」
昭一が鼻を鳴らして座る。
和夫は「ハートだー!」とはしゃぐ。
澪はその様子を見て、ふっと笑った。
ただひとり、良子だけがスプーンを手にしたまま、ぼんやりしている。
「どうした?」と昭一。
「え? 別に。……ダイエット中」
いつもの調子で返すが、スプーンは動かない。
「成長期に何言ってんの!」
母ちゃんのツッコミで、家族の笑い声がちゃぶ台を包んだ。
けれど、澪だけは気づいていた。
良子の笑顔の奥に、ほんの小さな影があることを。
⸻その夜
縁側には、夏の名残を運ぶ風が吹いていた。
スマホの画面を見つめたまま、良子が小さくため息をつく。
そこには、好きだった男子が彼女と並ぶ写真。
「#彼女とデート」
ただの文字なのに、胸がきゅっと痛んだ。
「……好きな人、いたんだね」
背後から澪の声。
麦茶を二つ持って、静かに腰を下ろす。
良子は目を丸くし、苦笑した。
「ばれた? わたし、演技下手だな」
「ううん。ちゃんと頑張ってた。でも、少し寂しそうだった」
少しの沈黙。
虫の声が、遠くで鳴いている。
「……告白もしてないの。でもさ、勝手に期待して、勝手に落ち込んで。SNSって、ほんと残酷だよね」
笑おうとした声が、かすかに震える。
澪はゆっくりと麦茶を差し出した。
「勝手に期待するのって、悪いことじゃないと思うの。誰かを信じてみたいって気持ちは、きっと優しいことだから」
良子はしばらく黙っていたが、やがてぽつりとつぶやく。
「……澪ちゃん、変わったね」
「え?」
「前は、誰かの気持ちなんて分かんないって顔してたのに。今の澪ちゃん、ちゃんと“人を包む”顔してる」
澪は照れくさそうに笑った。
「ちゃぶ台の魔法、もらったから」
ふたりの間に、静かな風が吹いた。
家の中から、昭一と和夫の笑い声が聞こえる。
その音が、まるで心の傷をやさしく包み込むように響いていた。
良子は、膝の上のスマホを見つめる。
画面の中の彼は、もう遠い存在になってしまった。
けれど、胸の奥には、澪の言葉が温かく残っていた。
「……ありがと」
「うん」
短い返事。だけど、そこに全部が詰まっていた。
⸻翌朝
良子は鏡の前で髪をまとめ、いつものようにスマホを開いた。
“#失恋”の下に、小さく“#ありがとう”とタグをつける。
そこへ澪が顔を出して、微笑んだ。
「いいね、それ」
「でしょ? あたし、結構ポジティブだから」
ちゃぶ台のある居間から、母ちゃんの声が響く。
「朝ごはんできたよー!」
良子は笑顔で返事をして、スマホをポケットにしまった。
昨日より少しだけ、胸の奥が軽かった。
ちゃぶ台の向こう側には、今日もぬくもりの光が差していた。




