十品目 矢崎家のカレー
昼下がり、雲の合間から夏の光がのぞいていた。
矢崎家の玄関先に立つ八百屋の主人が、手ぬぐいで汗をぬぐいながら笑っている。
「畑で掘ったばかりなんだ。形は悪いけど、うまいイモだよ」
渡された籠の中には、土の香りを残した新じゃががいくつも転がっていた。
母ちゃんが受け取りながら嬉しそうに言う。
「いつもありがとうね。ちょうどカレーでも作ろうと思ってたところ」
その声を聞いた良子が、ぱっと顔を輝かせた。
「やったー! カレー!」
母ちゃんが笑う。
「せっかくだから、澪ちゃんも手伝ってくれる?」
澪は一瞬驚いたように目を瞬かせたが、すぐに頷いた。
「……はい、やってみたいです」
⸻
台所は明るく、昼の光が窓から差し込んでいた。
澪はエプロンを借り、少し緊張した面持ちで紐を結ぶ。
鏡の前で軽く結び目を整えていると、背後から気配がした。
昭一は澪の姿を見た瞬間、ふと目が止まる。
袖口を折って、髪を耳にかけた横顔。
思わず立ち止まってしまった。
「昭一、キモいよ」
良子が振り返って言う。
「う、うるせっ!」
昭一はあわててその場を去る。
良子が笑い、澪もつられて小さく笑った。
⸻
「じゃあ、まずはじゃがいもを切ってもらおうか」
母ちゃんがまな板を置き、手本を見せる。
「皮を厚くむきすぎるともったいないからね。こんな感じ」
澪は真剣な表情で頷き、包丁を握る。
刃が少し震える。
「手、気をつけてね」
母ちゃんの穏やかな声に、澪の手が止まる。
包丁の感触、芋の重み、流れる水の音。
ひとつひとつが、丁寧に心に沁みていく。
「澪ちゃん、玉ねぎお願い。涙出るかもよ」
良子が笑いながら声をかける。
澪は頷き、玉ねぎを切り始めた。
案の定、すぐに目が熱くなり、涙がこぼれた。
「ほらね。これがカレーの洗礼!」
母ちゃんがそう言って笑い、良子も声を立てた。
その笑い声が、澪の胸にあたたかく響いた。
自分も“その輪の中”にいる。
それだけのことが、少し嬉しかった。
⸻
鍋の中で油が弾ける音がする。
人参と玉ねぎ、じゃがいもが次々に入って、木べらで軽く炒められる。
やがて、母ちゃんが数種類のカレールーを開けだす。
「このルーは多めに、こっちのルーは少しで、最後にこの甘口のルーを……」
瞬間、空気が変わる。
香ばしくて、どこか懐かしい香りが台所を満たす。
良子が思わず鼻をひくつかせた。
「いつもの匂いだ!」
「そう、うちの味」
母ちゃんが笑い、鍋をかき混ぜる。
澪はその言葉に耳を傾けながら、自分の中にも“いつもの匂い”ができた気がした。
それは、胸の奥の小さな空白を埋めるように広がっていく。
⸻夕方。
ちゃぶ台の上に、湯気の立つカレー皿が並ぶ。
外では、日がゆっくり沈みかけている。
父ちゃんが一口食べて、目を細めた。
「今日の芋、うまいな。味が深い」
良子がすぐに言う。
「澪ちゃんが切ったんだよ!」
「おお、そうか」
父ちゃんが笑い、母ちゃんも頷いた。
「丁寧に作ると、やっぱり味が変わるんだね」
澪はスプーンを持ちながら、小さく笑った。
「……なんか、甘くて美味しいです」
「澪ちゃん、ウチのカレーの作りかた覚えた?」
良子が聞くと、澪は少し考えながら答えた。
「うん……なんとなくだけど、ルーの配分次第かな」
良子はニヤリと笑い、夢中で食べる昭一の背中を小突いた。
「だって!良かったね、昭一!」
「ブホッ!」
咽せる昭一に父ちゃんが水を差し出す。
「おいおい、カレーは逃げんから、ゆっくり食えよ」
「誰かさんは逃げちゃうかもねー」
良子のとどめの一言に、みんなの笑い声が広がった。
カレーの香りと笑い声が部屋中に広がっていく。
その匂いは、澪の胸の奥にそっと残った。
——それは、
矢崎家に受け継がれていく“家族の味”だった。




