九品目 冷やし中華
朝の蝉の声が、真っ青な空に響いていた。
小さなキャリーケースを引いて、澪は矢崎家の前に立っていた。
インターホンを押す前に、すでに玄関がガラリと開く。
「澪ちゃん!」
良子が飛び出してきて、笑顔で手を振った。
「いらっしゃい!」
母ちゃんも顔を出し、両手を腰に当てて朗らかに言った。
「今日からうちの一員よ!よろしくね!」
「……お世話になります」
玄関にはすでに、和夫の姿まであった。
「ほんとに来たんだ!うちで夏休み、サイコーだよ!」
荷物を和室の隅に置くと、昭一が顔を出す。
「よっ!……来たんだな」
「うん。お世話になります」
照れくさそうに目をそらした昭一の横で、良子が澪の肩をつつく。
「こいつ、朝からずっとソワソワしてたんだから」
「や、やめろって……!」
「じゃあさ、あとで“うちの昭和アイテム”紹介してやるよ」
昼。
ちゃぶ台には冷やし中華と、フルーツポンチが並んだ。
扇風機が唸り、風鈴がカランと鳴っている。
「……やっぱ昭和って、いいなぁ」
澪がぽつりと呟いた。
「だろ~!こっちの部屋にすごいのあるんだ!」
和夫が大きな箱を抱えて戻ってくる。
「ウルトラマンのソフビ!あと、仮面ライダーのベルトもある!」
「それ俺が小さい時に使ってたやつじゃん……」
昭一が苦笑い。
「それとね、柱に身長刻んであるとこ!私らの成長記録ってやつ」
良子が誇らしげに言った。
「あと、黒電話に、テレビはチャンネルがガチャって回すやつ!」
昭一が得意げに続ける。
澪はちゃぶ台の上に並ぶ食事と、賑やかな家族を見回した。
(ここは、ちゃんと“家族”があるんだな)
夕食後、ちゃぶ台の片付けをしていると――
「澪ちゃん!早くお風呂入っちゃいな!」
母ちゃんの声が飛ぶ。
「良子、教えてあげて!……うちのお風呂、ちょっと特殊だから!」
「うん!一緒に入ろ~」
「えっ!? あ、うん……!」
浴室の中は、どこか懐かしい匂いがした。
「これ……ほんとに五右衛門風呂?」
「そう!下から薪で焚いてるの。入るときは板の上に乗るんだよ」
澪が恐る恐る湯船に足を入れる。
「……あ、あったかい」
「でしょ?なんかさ、バカみたいに不便なんだけど、落ち着くのよ」
「うん。……そうかも」
2人はお湯に浸かりながら、ぽつりぽつりと話し出した。
「澪ちゃんって、男子にモテるでしょ?」
「えっ!? ……そ、そんなことないよ」
「うそだー。昭一なんて、完全に“気になってます”って顔だよ?」
「えっ……ほんとに?」
澪の頬がほのかに赤くなる。
「ねぇ、好きな人とか……いないの?」
「……わかんない。最近、少しだけ誰かのことを考える時間が増えたかなって」
良子はその言葉にニヤリと笑って、髪を洗い始めた。
風呂上がり。
2人で浴衣に着替えながら、布団を敷いていく。
扇風機の前で、澪がタオルで髪を拭いていると、良子が言った。
「なんかさ、こうやって2人で寝るの、合宿みたいで楽しいね」
「うん。……すごく静かで、落ち着く」
「うち、昭和だからね~。全部レトロでさ、不便も多いけど……」
「でも、ちゃんとあったかいよ」
良子がその言葉に驚いたように目を丸くして、でもすぐに微笑んだ。
夜も更けて、澪が縁側に出ると、そこには昭一がいた。
「お風呂……良子と入ったのか?」
「うん。いろいろ話した」
並んで腰を下ろし、夜風を浴びる。
昭一は自慢げに手に取ったブタ型の蚊取り線香を見せながら言った。
「これ、知ってるか?昔からうちでずっと使ってるんだ。ブタの形しててかわいいだろ?」
澪は煙の香りを鼻に近づけて目を細めた。
「この匂い、なんだか懐かしい気がする……」
「夏の夜はこれがないと始まらねぇんだよ」
昭一は笑いながら、蚊取り線香に火をつけた。
和夫も嬉しそうに覗き込んで、
「これがあると、夏の虫も逃げていくってじいちゃん言ってた!」
澪は心地よい煙と夏の空気に包まれて、小さく微笑んだ。
「なんか、夏休みっぽいよな」
「うん。ラジオ体操に、冷やし中華。
ソフビに五右衛門風呂……あと、ちゃぶ台」
「……悪くないだろ?」
「うん。……ぜんぜん、悪くない」
そっと微笑んだ澪の横顔に、昭一が少しだけ照れたような顔で目をそらした。




