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第九話 初夜

 客室のベッドに蹲り、私は長剣を抱きしめる。

 鞘に包まれた長い得物は、強く抱きしめても軋まない。いつも通りの頼れる相棒。

 だというのに、少しも心は満たされない。冷たい金属の塊から伝わるのは、安心感とは程遠い、淡白な何か。

 今まではそれでも良かった。

 記憶も家族も無く、一人見知らぬ土地に放り出され、頼れるのは己の体一つ。アベンは良くしてくれたが、どこまでも他人であることには違いなかった。

 戦闘能力という分かりやすい強さを最大限に引き出してくれる剣は、独りの私にとってこれ以上無いほど信頼できた。


 ――――大丈夫。大丈夫だ、サラ。ボクがいる。ボクが守るから


 けれど、あの言葉にはほど遠い。

 どんなに強力な武器よりも、ソラニエルに包まれている方が安心できた。

 ソラニエルが私より圧倒的に強いというわけでもない。それなりに腕の立つ魔術師ではあるようだが、戦う術で競うのなら負ける気は無い。

 私が彼女の声と体温に魅せられたのは、彼女が安全を与えてくれるからではなく、もっと暖かい何かをくれるから。


「……ずっと、味方でいてくれるから」


 答えは呆気ないほど容易く口から零れ出た。

 そうだ。ソラニエルは私にとって初めての味方。無条件で私を愛し守ってくれる存在。

 善意で私に良くしてくれたアベンとも、未だ腹の底を見せないアルツィマとも違う。

 ただ、私がサラであるというだけで、私の側で私を見て私を慈しんでくれる。


(――――本当に?)


 私の中の黒い影が問いかける。

 庭の亡霊と接触してから、考えないようにしていたことが、幾度も脳裏を横切っていく。


(本当に私はサライエル・ホロラーデなの?)


 この一週間、深く考えないようにしていた。

 その真実に触れてしまったら、もう二度とこの日常には戻れない気がしたから。

 ゆっくりと、けれど幸せに流れていくソラニエルとの時間が、失われてしまうのが怖かった。

 ソラニエルが私と一緒にいてくれるのは、私がサライエル・ホロラーデだから。私が彼女の妹だから。

 ただそれだけの無条件が、今の私にとっては条件にもなり得る。

 記憶の無い私は、私がサライエル・ホロラーデであると証明する手段を持たない。

 サラとしての人格はあっても、サライエル・ホロラーデとしてのアイデンティティは、ソラニエルが言うのだからそうなんだろう、という状況証拠しか無い。

 それだけなら良かった。ソラニエルの言葉を信じて、自分はサライエルだと言い張ることもできた。

 けれど、この家とソラニエルには不可解な点が多すぎる。

 何故、塩の雪原でホロラーデ邸だけが塩化されていないのか。

 何故、ホロラーデ邸にはソラニエル以外の人間が住んでいないのか。

 何故、ソラニエルは塩魔術なんて如何にもこの土地の根幹に関わる魔術を使えるのか。

 何故、庭師もいないのに庭の状態が今も美しく保存されているのか。

 何故、塩の雪原はホロラーデ邸を中心に塩化の効果が減衰していたのか。

 何故、ソラニエルは私達の家族の話を一度も口に出さないのか。

 何故、双子であるはずの私とソラニエルの容姿は少しも似ていないのか。

 何故、ホロラーデ邸という塩の雪原中心部に暮らしていたはずの私が、ダンケットまで逃れていたのか。

 その何故を一つ一つ紐解いていった先に出る結論は、私がサライエルではないという答えではないのか。


 ――――感覚っていうのは案外大切なものだよ。納得できる理論は無くても、それ自体が正解だったりする


 そして何より、私の感覚が告げている。

 何の根拠も無く、何の理論にも基づかない。

 けれど、どうしようもなく鮮明に、私の直感が訴える真実。


(私は……どうしても、ソラニエルを姉だと思えない)


 一週間過ごしても、姉妹という感覚がどうにも得られないのだ。

 血の繋がっているという感じがしない。どれだけそうだと自分に言い聞かせても、私はソラニエルを近しい家族だと思えない。アベンの方がよっぽど父親という感じがした。

 私がソラニエルに向ける感情は、姉妹のような優しい愛情ではなく、もっと独占欲とか依存とか征服欲とか、そういうどろどろと蕩けるような甘い――――


「ソラニエル……」


 部屋で一人、その名前を呼ぶだけで心臓が跳ねる。

 体の芯がぼうっと熱くなって、茹で上がったように体温が上がる。

 満たされるような多幸感と溺れるような欲望がないまぜになって、彼女のこと以外考えられなくなってしまう。

 その手が私の肌に触れるだけで、頭の中が桃色に沸騰して、何も考えられなくなってしまうのだ。


「私、もう、どうしたら……」


 ソラニエルが好きだ。ずっと彼女と一緒にいたいし、今の所それは叶っている。

 でも、それは私がソラニエルの妹だから。少なくとも、今は妹だと認識されているから。

 私は本当にサライエル・ホロラーデなのか。その問いに答えを出した時、私はソラニエルの隣にいられなくなってしまう。

 だから、蓋をして見ないようにした。

 この屋敷とソラニエルが抱える不可解も、私は誰かなんて問いも、全て忘れたフリをして、ソラニエルと時間を甘受していた。


 ――――オモイダシテ


 だというのに、あの亡霊は私の心に土足で踏み入って、押し留めていたものを滅茶苦茶に引っくり返していった。

 私は私が誰かなんて思い出したくない。

 答えなんて出したくない。全部、曖昧なままで良い。


「どうしたら、良いの……?」


 突如、ギィーと音を立てて開いた扉。

 廊下の窓から差し込む光が、開いた扉の奥から差し込んでくる。

 薄暗い居間の床に、光の線が伸びる。

 扉の先に立っていたのは、青灰色の髪をした少女。


「サラ、起きてるかい? 少し、話したいことが――――」


 気付けば、抱きしめていた長剣を投げ出して、走り出していた。

 蹴り上げた床が軋む。私は何も考えず、胸の奥から湧き上がる衝動に任せて、彼女の胸に飛び込んだ。


「サラ!? 急にどうしたんだい!? いや、抱きついてもらえるなんて姉冥利に尽きるけど、こんなに近いとドキドキする――――」

「ソラニエル……っ」


 私自身にも制御できなくなった感情と体は、強くソラニエルの痩躯を抱きしめる。

 強く強く抱きしめて、もう二度と離さないように力を込める。


「ごめんなさい、ソラニエル」


 亡霊は言った。

 思い出して、忘れないで。

 あれが何者なのか、私にはちっとも分からない。

 でも、私の魂が理解している。

 あの言葉には意味があった。私は何かを思い出さなきゃいけないし、それを忘れてはいられない。

 私には向き合うべき過去がある。


「私……本当は、ソラニエルの妹じゃない」


 口にすれば、呆気なく。

 まるで、開いた掌から零れていく砂粒のよう。

 どんなに強く握りしめていても、いつかは指の隙間から溢れてしまうはずなのに。


「ソラニエルと一緒にいられるのが嬉しくて……本当に、今までのどんな時間より幸せだったから、それを失うのが怖くて……私は、ソラニエルを――――」


 たった一週間。二十四時間が七回だけ。

 私の脳に残る一年間に比べれば、刹那にも等しい短い時間。

 どうして、こんなに幸せだったんだろう。

 多分、ソラニエルが私を求めてくれたからだ。

 長く面倒を見てくれたアベン。旅に同行させてくれたアルツィマ。二人共優しかったけれど、私を必要とはしていなかった。

 ソラニエルだけが、私を求めてくれた。私を必要としてくれた。私と一緒にいたいと願ってくれた。


「サラ……」


 一年間、ダンケットでの生活は苦じゃなかった。

 治安も良いし、ご飯は美味しい。アベンは口うるさいけど、身寄りの無い私の面倒を見てくれた恩人だ。

 でも、どこか、心のどこかで疑っていた。

 私はここにいて良いのか?

 何となく自分だけが浮いている感覚。私だけが異物だという感じ。私という存在自体があの土地のルールに反しているような浮遊感。

 ずっと、私は居場所が欲しかったんだ。

 だから私は故郷を求めて、塩の雪原に旅立った。私が生まれ育った場所なら、私は地に足をつけて生きられる気がしたのだ。

 あの纏わりつくような浮遊感から解放されて、安心できると思ったのだ。


「ごめんなさいっ……ごめんなさい、ソラニエル……っ、私は、あなたをっ、騙して……」


 ソラニエルは私が欲しい言葉を全部くれた。

 ここにいて良いと、ここにいて欲しいと、君はここでは異物じゃないと。

 私はそれが心地良くて、ずっと彼女に縋っていた。妹だなんて嘯いて、彼女の隣に居座った。

 私はサライエル・ホロラーデという赤の他人が座るべきだった椅子に、我が物顔で腰掛けている簒奪者だ。

 私が彼女の妹だなんて、生き物としてあり得ない話なのだ。

 だって、私はソラニエル・ホロラーデという人間に、どうしようもなく惹かれているのだから。

 姉妹愛なんて言葉では取り繕えないほど強烈に、私は彼女に恋してしまっているのだから。


「ごめんなさいっ、ソラニエル……っ」


 私は彼女に縋るように抱きついて、赤子のように泣いていた。

 騙してごめんなさい、嘘を言ってごめんなさい。

 私がサライエルじゃなくてごめんなさい。

 そんな風に、ひどく無益で滑稽な、縋るような謝罪を吐き出していた。


「サラ。……サラはボクの妹だよ。それが嘘だなんて、そんなことあるはずないだろう?」


 ソラニエルは縋りつく私を見下ろして、そんなことを言った。


「嘘なんです。だって、私は――――」

「嘘じゃない。サラはサラだ。……もしも万が一、サラがサラじゃなくても、それでもサラはサラなんだ。……だから、サラはサラのままで良いんだよ」


 支離滅裂なことを言って、ソラニエルは自嘲気味に笑う。

 ひどい顔だ。これでいつもみたいに笑えているつもりなのだろうか。

 言ってることも意味不明だし、もう、何が何だか分からない。


「でも、私は、ソラニエルの隣にいて良い人間じゃ……」

「うるさいっ!」


 私の肩を掴んだソラニエルの絶叫。

 いつもの彼女に似つかわしくない金切声に、私は鼓膜が裂ける気がした。


「さっきから言ってるだろう……! サラはボクの妹だ! この家で生まれて、この家で育った! ここにいて良いんだ! 誰にも文句は言わせない! この世界の誰にも! サラ自身にも!」


 慟哭じみた叫びは、至近距離で私の耳を震わせた。


「ずっと側にいてくれよ。……大好きなんだ。サラがいないと生きていけない。もう、ボクを、一人にしないでくれ……!」


 ああ、なんて理不尽で罪深いのだろう。

 よりにもよって、私にそれを言うのか。

 こっちの気も知らずに、大好きだなんて。

 私だって、ソラニエルの側にいたいに決まっているのに。もう二度と、一人になんてなりたくないのに。

 だから、全部ソラニエルが悪いのだ。決壊した私の理性がどこへ行こうと、全部ソラニエルのせいだ。

 私は彼女の名前を読んで、彼女に抱きついた。

 勢い余って、そのまま二人して床に倒れる。

 すぐそこに見える銀色の瞳。二人の視線が絡み合って、蕩けて、幸せな夢に堕ちていく。

 触れ合った肌から、確かに感じられる彼女の体温。吐息すらもかかる距離で、心臓の音さえも曝け出して。

 夜は長く、一瞬で過ぎていった。

 私は暖かい彼女の胸の中で、一晩中泣いていた。

 ひどく、鳴いていた。

溢れた感情は、一夜の過ちへと

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