第七話 接触
ソラニエルと一緒に庭へ出た私は、気の向くままに庭を歩き回っていた。
特に何があるというわけでもないが、外の空気を吸うだけで少し心地良かった。
「綺麗な庭ですね」
広くも狭くもない箱庭を見渡して、私はポツリと零した。
庭の植物は綺麗に剪定されていて、花々の色も白に統一されている。
草木や花々は庭を見渡した時、左右対称かつ線対称になるように設計されていて、整ったシンメトリーが美しい。
何故、庭師もいないのに庭の状態がここまで綺麗に保たれているのか。
そんな疑問も浮かんだけれど、口には出さなかった。それを口にすることで何かが壊れてしまうのが怖かった。
「ああ、綺麗だ」
ソラニエルもそう言った。
この庭は整っていて、均整が取れていて、調和していて、完全な理想郷を思わせる。
何一つはみ出さない戒律の庭。全体のバランスを乱すものは無く、庭と世界が綺麗に循環しているよう。
何か一つでも異物を加えれば、途端に不完全へと成り下がってしまうのだろうか。
「…………」
「…………」
何故だろう、ソラニエルとの会話が続かなくなっていた。
この一週間、本物の姉妹だったと疑わぬほど、私達は自然に話せていたのに。
この庭はひどく綺麗で完全で、何だか息が詰まってしまう。
そう、この完成された世界は、私達という異物を拒んでいるみたい。
「ここが、私の家……」
言いたくもない言葉が、口から零れた。
意識しないようにしていたこと。脳味噌の中で蓋をしたこと。
そうやって溜め込んだ澱を、この庭は無理矢理引きずり出してくる。
ソラニエルが足を止めた。
「ここは、私の故郷……?」
私は歩く。
前に歩く。
「私は誰……?」
思考が混濁する。意識が酩酊する。魂が反響する。
自分が何を言っているか分からない。――――嫌というほど理解させられる。
頭の中に靄がかかったみたいに不鮮明。――――死にたいくらい透き通っている。
何もかもがぐにゃぐにゃと歪曲している。――――皮肉なまでにブレない直線が浮かぶ。
私という輪郭が溶けて、消えて、無くなって、熱湯に落ちた氷塊みたいに――――
「サラ!」
ソラニエルの叫びで正気に戻った。
ぼやけた暗闇から浮上した視界。初めに見えたのは、私の肩を掴む手。
細長い指と鋭い爪先。病的なまでに青白い手が、私の肩を背後から強く掴んでいる。指先が肉に食い込むほどに強く。
突如として陥った危機的状況。
焦りもしたし慌てもしたと思う。
けれど、そういった焦燥よりも早く、私の身体はほとんど自動的に戦闘に移行していた。
腰の鞘から長剣を抜き、振り向きざまに一刀を浴びせる。
ただそれだけで、私は普段通りの私に戻れたはずだ。
「え……?」
腰に伸ばした右手が空を掴む。
そうして、私はやっと思い出した。
今の自分は長剣を持っていないことに。
「無い……? 私の、剣……」
途端、世界が暗転する。
考えがまとまらず、行動が覚束ず。
私にできたことといえば、後ろを振り向いて、私の肩を掴む者の正体を見ることくらい。
「――――魔物?」
人の形をしたそれを私の脳は魔物と認識した。
病的な青白い肌。灰色の髪はやつれていて、身に纏うボロ布は風も無いのに揺らめいている。
女の顔をしたそれは、私の顔を至近距離から覗き込んでいた。
「オモイ、ダシテ」
鼓膜が凍結する錯覚を覚えた。
肩にかかる力が増す。痛みが増す。
肩口に食い込む爪は、キリキリと私の肉を抉る。
痛みで揺らいだ脳に、魔物の声がダイレクトに入って来る。
オモイダシテ、思い出して、想い堕して。
「……嫌」
その言葉を全身が拒絶する。
思い出したくなんてない。知らなくて良い。知らないままでいたい。
一度閉じられたパンドラの箱をもう一度開けるなんて、私には耐えられない。
このまま、ソラニエルとの時間が静かに過ぎて行けば良い。
「オモイダシテ」
それなのに、女は囁いてくる。
思い出せと、記憶の蓋をこじ開けろと。
私の奥底に眠った何かへと無遠慮に手を伸ばし、無理矢理引きずり出すように――――
「サラから離れろ!」
瞬間、空を裂いた白。
飛来した塩の塊が女に激突した。
固形化した塩は女を宙高く跳ね飛ばすが、跳ね飛ばされた女は悠々と空を泳いでいるようにも見える。
一秒ほど遅れて、ソラニエルが私を庇うように前に躍り出た。
ソラニエルは私を守るように抱き寄せている。彼女の腕の中は暖かくて、先刻までの冷たい恐怖が緩和していく気がした。
ソラニエルは私より少し背が高いんだなと、場違いなことを思う私を他所に、ソラニエルは空中を泳ぐ女を睨んでいた。
「ワスレナイデ」
そう言い残すと、女は魔力の粒子と化して消えていった。
女が完全に光の粒となって消えた頃、私はようやく現状を理解した。
どこからか現れた魔物が私に接触。
しかし、ソラニエルの使った塩魔術の一撃で絶命。
思えば、なんてことはない危機だった。ソラニエルの魔術一撃で倒れる相手なら、素手で戦っても一方的にやられるということはない。
分かっている。
大した脅威ではないと分かっているのに、足が竦んで動けない。
「ソラニエル、私……っ、私はっ…………」
両の足で立つことすら危うい私は、ソラニエルにしがみつく。
彼女の服の襟をくしゃくしゃに握りしめて、目尻から零れそうな雫を押し留める。
そんな私をソラニエルは優しい瞳で見下ろして、そっと背中をさすってくれた。
「大丈夫。大丈夫だ、サラ。ボクがいる。ボクが守るから」
完成された庭の中、私達という欠陥はしばらく立ち尽くしていた。
心臓の音がうるさかった。
暖かな日々に、爪を立てる