第五話 スローライフ
「なるほど。つまり、君がサラの実の姉ってことかい?」
カーテンを開けて大分明るくなった居間。
長机に接する椅子の一つに座って、アルツィマは正面に座る少女に訊いた。
「そうとも。ボクはソラニエル・ホロラーデ。サラとは世界でたった一組の双子の姉妹さ」
ソラニエルはひどく上機嫌に言った。
その隣に座るサラは戸惑い気味にはにかんでいる。
けれど、その表情はどこか嬉しそうだ。塩の雪原を旅していた頃の険しい色が抜けて、その顔には柔らかく暖かい色を宿している。
「じゃあ、サラもホロラーデの家系ってこと?」
「ああ、本名はサライエル・ホロラーデ。ボク含め家の人間はみんなサラと呼んでいたけれどね」
ソラニエルの説明を受けて、アルツィマは考え込むような顔を見せる。
ソラニエルの話を聞いても、解せない部分がいくつかあった。
アルツィマははそれを訊こうと思い口を開いた。
「ソラニエル。君に一つ訊きたいことがあるんだけど――――」
「まあまあ! 難しい話は後にしようじゃないか。君達、この塩だらけの大地を渡って来たんだろう? まともに湯を浴びる機会は無かったはずだ。どうだろう。この屋敷には先代の趣味で作られた大浴場があるんだが……興味は無いかい?」
アルツィマの言葉はソラニエルの提案に遮られた。
無理にでも話を続けたかったアルツィマだが、今度は口を開くよりも先に、サラの大声が響いた。
「入ります! 今すぐにでも入りましょう! どこですか!? その大浴場はどこなんですか!?」
「妹の食いつきが良くて嬉しいねぇ。それじゃあ、すぐにでも案内しよう。久しぶりにお姉ちゃんが背中を流してあげようじゃないか」
ねっとりとした口調で言ったソラニエルは我先へと席を立ち、部屋の扉の方へと歩いていく。
サラも尻尾を振る大型犬のように、彼女について行った。
扉の前まで来たソラニエルはふと立ち止まり、アルツィマの方を振り返り言う。
「アルツィマ・ノート君と言ったかな。君も湯を浴びたいなら男湯の方も沸かすが……君、男だよな?」
アルツィマの性別は判断しにくい。
細身で顔立ちが中性的なことに加え、やはりその純白の美貌は性別という規格に収まらない空気感を纏っている。
「僕は遠慮しておくよ。旅の間は洗浄用の民間魔術を使っていたからね。元々、汚れを溜め込む体でも無い。ちなみに僕はメンズだよ」
「ちょっと待って下さい。なんでその魔術を教えてくれなかったんですか? 私が日に日にしょっぱくなる髪に悩まされてる間に、アルツィマは優雅に魔術で――――」
「まあ、良いじゃないか。そんなことより今はお風呂だ。早く行かないと湯が冷めてしまう」
サラがアルツィマに対する抗議を挟んだが、ソラニエルがそのまま部屋の外に彼女を引きずって行った。
騒がしい姉妹は大浴場へと向かい、居間にはアルツィマ一人が残された。
「そりゃあ教えないさ。あの民間魔術、普通の人間にはほとんど効かないからね」
一人残されたアルツィマは、小さく呟いた。
***
時は流れ、昼食時。
折角設備の充実した屋敷にいるのだから、久しぶりに保存食以外の物を食べてみたい。
そう思い立ったアルツィマは、ホロラーデ邸の厨房を訪れていた。
台所で料理器具を物色しながら、アルツィマは豪邸のくせに狭い厨房を歩き回る。
「よそ様のキッチンを勝手に使おうなんて、随分ぶしつけな客じゃないか。そんなタイプには見えなかったが。……ボクだって昼食くらいは出すつもりだったんだがねぇ」
背後からかかる声にアルツィマは振り向く。
そこにはソラニエルが立っていた。
風呂から上がったばかりなのか、髪は濡れ、肩にはタオルをかけている。
「ああ、そうか。……うん、確かにその通りだ。勝手な真似をして悪かったよ」
「? ああ、いや良いんだ。別に責めてるわけじゃない。ちょっとしたジョークというやつさ」
少し揶揄ってやろうという気持ちで声をかけたソラニエルだったが、アルツィマの奇妙な反応に肩透かしを食らう。
今の反応は、勝手に厨房を使っていたというより、ここが他人の家だったと今になって気付いたような感じだった。
紅茶の茶葉を切らしていると知っていながら、ついアフタヌーンティーの時間にティーカップを取ってしまったような、抜け切らない習慣に引っ張られたような、そんな雰囲気だった。
「早かったね。もっとゆっくりしてくるものだと思っていたよ」
アルツィマの反応にソラニエルは違和感を覚えつつも、気にせず会話を続けることにした。
「ボクもそのつもりだったんだが、サラに叩き出されてしまってね。まだ平手で打たれた痛みが頬に残っているよ」
「へぇ~、それは不憫な。何かサラの気に障ることでも言ったのかい?」
アルツィマは料理の支度をしながら、ソラニエルとの会話に興じる。
「いや、どさくさに紛れて胸を触っただけなんだが……」
「思ったより自業自得だね!」
アルツィマは思わず叫ぶ。
怒りっぽいサラがソラニエルに反発したのだろう、というアルツィマの予想は見事外れた。
九十九パーセントくらいの割合でソラニエルに非がある案件だった。
「ええ~!? やっぱりダメかい!? 姉妹なんだから、これくらいのスキンシップは許されても良いと思うんだけどね、ボクは! 誓って健全な下心ゼロのスキンシップだったんだけどね!」
アルツィマの言葉にソラニエルは興奮して反論する。
「それ、記憶が戻る前は普通にしてたってことかい?」
アルツィマは妙に真剣な面持ちで訊いた。
「いや、まあ、それは……今ならワンチャン無いかな~と……」
「無かったんだね、ワンチャン」
あまりに阿呆なソラニエルにアルツィマは溜息を吐く。
だが、その吐息に含まれる感情は、呆れというより愉快であった。
馬鹿なことをするソラニエルに呆れつつも、アルツィマはどこか楽しそうに息を吐いた。
「あーあ、サラは怒ると怖いぞう」
「よく知っているよ。……よし、こういう時は食べ物だ。サラはたくさん食べると機嫌が直る。アルツィマ君、手伝いたまえ。今からサラの好物を作る」
「あはは、これは大変なランチになりそうだ」
屋敷の厨房で二人、サラの機嫌を直すための料理制作に取り掛かった。
***
時刻は午後一時過ぎ、居間に集まったアルツィマ達は長机で食卓を囲んでいた。
メインディッシュはこんがり焼いた牛肉。正式な料理名は誰も知らなかったが、三人は気にせずご馳走にありついていた。
「信じられません! 仮にも実の妹にセクハラしてくるなんて! もう二度とソラニエルとは湯に浸からないと決めました!」
「ごめんよぉ~、サラぁ~。機嫌直してくれよぉ~。ほら、ボクの分のお肉も上げるから、これでどうにか……」
烈火の如く怒るサラに対して、ソラニエルは必死のご機嫌取りに徹する。
サラはソラニエルが献上した肉をフォークで奪い取り、目にも留まらぬ早業で口に運ぶ。
「ふぉんふぉにさいへいへす! ふひやっはらふふしまへんはら!」
「サラ、飲み込んでから喋った方が良いよ」
肉を頬張りながら叫ぶサラに、アルツィマは冷静なツッコミを入れる。
それを聞いてか聞かずか、サラは口に詰め込んだ肉をごっくんと飲み込むと、改めて言い放った。
「ホントに最低です! 次やったら許しませんから!」
「うぅ、ごめんよぉー……」
しなびた野菜のように首を垂れるソラニエル。
九割以上ソラニエルが悪いと理解しているアルツィマだったが、流石にソラニエルが不憫に思えてきた。
二人で料理を作ったことで芽生えた絆もある。
アルツィマはソラニエルに助け舟を出すことにした。
「まあまあ、ソラニエルも謝ってるわけだしさ。ほら、女の子同士のスキンシップなら、これくらい無いことも無いんじゃ――――」
「アルツィマは知ったような口利かないで下さい! ぶっ飛ばしますよ!」
「うん、そうだね。女の子同士とはいえ、流石にやり過ぎだ。ソラニエルが百パーセント悪い。謝った方が良いよ」
料理で芽生えた絆は、怒れるサラの前で容易く崩れ去った。
ソラニエルは裏切られたような表情でアルツィマを見上げるが、当のアルツィマは知らん顔をする。
ソラニエルへの憐憫より、ぶっ飛ばされたくないという保身が上回った。
圧倒的な力の前で、弱者の絆など塵に等しい。
唯一の味方からも裏切られたソラニエルは、捨てられた子犬のような表情で俯いた。
そのシュンとした顔を見て、サラはどことなくバツが悪そうに目を逸らす。
「……私も、叩くのはやり過ぎました」
ボソリと告げられた謝罪。
その微かな声を聞き取ったソラニエルの耳がぴくんと跳ねる。
そうしてから、縋るような目つきのソラニエルが、サラの顔を下から覗き込むように顔を上げた。
「サラ……?」
蜘蛛の糸を掴むようなソラニエルの声。
「私も少し……ほんの少しくらいは悪かったので! 今回はお肉に免じて許してあげます!」
顔を真っ赤に染めながら、半ば叫ぶようにして言ったサラ。
「サラぁ~~っ!」
許してもらえたソラニエルは号泣してしまった。
滝のように涙を流して泣きじゃくるソラニエルは、嗚咽交じりの声で叫び出した。
「ごめんよぉ~! 再会早々嫌われたかと思ったよぉー! サラに嫌われたらボクはどうやって生きてば良いんだよぉ~! また一緒にお風呂入ってくれよぉ~!」
「な、なんなんですか、急に。お風呂は……まあ、気が向いたら…………」
大号泣するソラニエルにサラは引き気味だが、なんだかんだで悪い気はしていないように見える。
色々あったが、サラとソラニエルも仲直りしたということで、アルツィマはほっと胸を撫で下ろした。
(そろそろ本題に入りたいけど……いくつか懸念がある)
ソラニエルとサラの話が一段落して、アルツィマは話を切り出す機会を伺う。
しかし、とある懸念がアルツィマの頭の片隅には蹲っていた。
――――ソラニエル。君に一つ訊きたいことがあるんだけど……
――――まあまあ! 難しい話は後にしようじゃないか
アルツィマが想起するのは、ホロラーデ邸に到着してすぐの会話。
ソラニエルと邂逅して間も無く交わした言葉だった。
(あの時、明らかに話を逸らされた。……ソラニエルはこの家の核心に触れられるのを避けたがってる。それに――――)
ソラニエルに一度話をはぐらかされたこと。
さらにもう一つ、アルツィマが違和感を感じている部分があった。
(サラがソラニエルに何も訊こうとしない。ここがサラの故郷で、ソラニエルがサラの姉なら、訊きたいことは山ほどあるはずだ。不器用で愚直なサラが、ストレートに質問をぶつけてない)
サラの動向についてもアルツィマは気にかけていた。
サラの行いが意識的にしても無意識的にしても、何か特別な心情が働いているのは間違い無かった。
(ここはジャブにしとこう。まだ踏み込む時期じゃない)
そう判断したアルツィマは、一つ軽い質問を投げる。
「そういえばこの牛肉、どうやって保管してたんだい? ソラニエルは食糧庫から持って来たと言っていたけど、そんなに長保ちするものじゃないだろう? これ」
牛肉は氷室に保管していたとしても、二、三か月もすれば腐る。
比較的冷涼とはいえ、この辺りは氷室が作れるほど気温の低い地域ではない。
塩の雪原を渡ることが至難であることを思えば、この牛肉は一年に渡って保存されていたにも関わらず、今も美味しく食べられるほど新鮮であるということになる。
「ああ、ボクの魔術だよ。塩魔術。保存することに特化した魔術なんだ。ほら、塩漬けって聞いたことあるだろう。あれの魔術版みたいなものさ」
ソラニエルはさらっと答える。
しかし、その内容はかなり衝撃的なものだ。
よりにもよって塩魔術。この塩の雪原で、全てが塩と化したこの土地で、ソラニエルは塩魔術と口にしたのだ。
(ここでも塩……サラは――――)
アルツィマは静かに視線をサラに移す。
「へえ~、便利ですね。アルツィマの食料もそれやってもらいましょうよ」
何食わぬ顔で、毒にも薬にもならない言葉を口にしている。
直情的で直球しか投げられないような性格をした彼女が、目前に吊るされた真実に食いつかずにいる。
(……停滞か。君達がそれを望むというなら、僕は――――)
平穏な会話。安穏な日常。
ゆっくりと流れていく時間の中で、アルツィマは彼女らの意思を尊重した。
足を止めた者の背を押す無粋はしない。
たとえ、いずれ歩き出さなければならないとしても。
無為に時間を食い潰している、などと非難はするものか。
彼女らはまだ、若く幼く未熟な子供。一時の停滞を享受することを赦さずしてどうするというのか。
この世には、永遠すらも求めた大人がいたというのに。
「どうしたんですか? アルツィマ。なんだか難しい顔して」
サラが気の抜けた顔で問いかける。
「ちょっとした考え事をね。でも、やめた。今は休もう。これからのことは……うん、気が向いた時に考えれば良い」
楽観的に言い放つと、アルツィマは体重を思い切り椅子の背もたれに預けた。
やっぱり、ここの椅子は座り心地が良い。
立ち上がるのが億劫になるくらいだ。
ゆっくりと、全部忘れたままで