第三十話 再・覚醒
覚醒した瞬間、サライエルの肉体は反射的に駆動した。
頭痛は嘘のように消え去り、思考は雲一つ無い青空のように澄んでいる。
一瞬で振り抜いた長剣は、アルツィマの胸に刺さる少年の腕へと迫り、蒼炎を纏う細腕を斬り落とさんと唸りを上げた。
「……っ!」
咄嗟にアルツィマの右胸から腕を引き抜き、そのまま跳び退いた少年。
その目には浮かぶは警戒の色。明らかに常軌を逸した速度で斬撃を放ってきたサライエルに、警戒の視線を向けている。
「なんですか、貴方……さっきまでは蹲っていたはず」
赤毛の少年が疑問を漏らす。
その右腕には薄皮一枚切れた傷。ツー、と赤い血が垂れていた。
「ソラニエル、アルツィマの傷を止めといて下さい。あれ、あったじゃないですか。傷の悪化を止めるやつ」
サラが言わんとしていることはソラニエルにも理解できる。
ソラニエルが扱える塩魔術の一つ。
傷の状態を保存し、それ以上悪化することを防ぐ魔術。
「いや、どうして君がその魔術を……?」
だが、ソラニエルの記憶する限り、サラの前でその魔術を使ったことも、その魔術に関する話をしたこともない。
彼女がアルツィマと共に屋敷を訪れてから、ソラニエルがその魔術を見せたことは一度も無い。
「子供の頃、よく使ってくれたじゃないですか。私はいつも、怪我してばかりだったから」
優しげに微笑んで、サライエルが言う。
「サラ、もしかして、記憶が……!」
「えへへ。やっと、思い出せました」
無邪気にはにかむその顔は、ソラニエルが恋した少女そのもの。
それは本来の意味での再会と言えるかもしれない。
記憶を取り戻し、完全にサライエル・ホロラーデとして覚醒した彼女は、長剣を携えて一歩前に出る。
「アルツィマはお願い。――――こいつは、私が倒します」
赤毛の少年と向き合い、長剣を構えるサライエル。
その構えには一切の隙は無く、鋭く光る若草色の眼光は、力強く少年を見据えている。
(先程までとは空気が違う。この剣士、一体何をした?)
少年に武術の心得は無い。サライエルの構えが格段に洗練されたことなど、理解しようがない。
それでも、サライエルが纏う雰囲気一つで、目の前の剣士は数秒前の少女とは別物だと悟った。
少年は緊張を迸らせる。警戒は怠らず、油断は微塵も無い。格上と相対するような緊張感で、サライエルの追撃に備える。
その備えを、サライエルは正面から上回った。
「ず、ゥ――――ッ!」
大地が爆ぜるような力強い踏み込み。
たった一歩で少年への距離を詰め切ったサライエルは、長剣を一息に振り抜く。
その一撃を左腕で受けた少年は、激しく吹き飛ばされ、白い大地を幾度もバウンドする。
(なんだ!? 斬られた? この身体で吹っ飛ばされた? 塩の怪魚を素材に構成した肉体だぞ? どれだけ馬鹿げたパワーをしている!?)
少年の肉体は塩の怪魚の一部を素材として構成した仮初の依り代。
肉体の機能としては怪魚に限りなく近く、少年の皮膚は怪魚の鱗と同等の防御力を誇る。
それにも関わらず、サライエルの一撃により、少年の左腕には亀裂が入っている。あと少しの衝撃で割れかねないレベルの損傷だ。
「まさか、魔術師の家系にこれほどの剣士がいたとは。驚きました」
「あんまり実感無いんですけどね。魔術師の家系って。私は魔術教わりませんでしたし」
少年の言葉に、サライエルはそう返した。
「あれだけ魔術の才に恵まれた姉がいれば、貴方に構う理由も無いでしょう。全て、彼女一人で事足りるのですから」
「そうですね。ソラニエル一人で事足りる。……だから、ソラニエルが一人にならないように、私は剣を握ったんです」
ホロラーデの歴史上最高峰とも称されるソラニエルの魔術。
誰よりも強いソラニエルは、誰よりも運命を背負いたがる。全部、一人でどうにかしたがる。
だから、ソラニエルが孤独な最強と成り果てないように、サライエルは剣を極めると誓ったのだ。
「私はソラニエルより強いですよ」
故に、少女の剣は姉の魔術さえ凌駕する。
「それは素晴らしい動機だ。地獄で自慢すると良い」
サライエルの言葉を斬って捨て、少年は魔術を起動する。
放つは蒼炎。回避も防御も許さない灼熱の津波。赤毛の少年は、爆炎の嵐を解き放つ――――より早く、サライエルの長剣が少年の左腕を斬り飛ばした。
「――――は?」
一瞬にして少年への距離を詰め、長剣の一薙ぎで左腕を斬り落としたサライエル。
その速度と威力たるや、怪魚と同等の硬さを誇る少年の皮膚を完全に貫くほど。
「いつまで魔術師と戦ってるつもりですか?」
サライエルはさらに一歩、少年の方へと踏み込み、一度振り抜いた長剣をさらに翻す。
追撃の一閃が赤毛の少年に迫った。
少年は咄嗟に飛び退き、間一髪でこれを回避。サライエルが長剣を振り抜いた余波として生じた風圧に、少年の赤毛が激しく揺れる。
空振りした長剣はそのままの勢いで地面を裂き、塩の大地に一条の斬撃痕を残した。
「大技を撃たせる暇なんて、あなたにはもう二度と与えません」
無詠唱魔術。それは魔術における詠唱省略の究極形。
従来の魔術に比べれば段違いの速さで魔術を撃てるが、隙を完全に消せるわけではない。
魔力を練り上げ、術式に流し込み、魔術としての形にする。詠唱を省けても、この工程を行う以上、僅かながらもタイムラグは存在する。
「馬鹿力が……!」
さらに少年を襲う三連撃。
三方からほとんど同時に襲い来る斬撃は、人外の身体能力を手にした少年でも避け切れず、耳、脇腹、肩口の三か所から血が流れた。
(素早い連撃……なおかつ一撃一撃の威力が尋常ではない。一度でも直撃を食らえば即死する。魔力を練り上げる暇が無い。ならば、術式はシンプルなもので、魔力はよりコンパクトに――――)
少年が起動したのは、発生速度に重きを置いた小さな魔術。
掌に握った小さな火花。少年の手に灯る青い星は、線香花火のようにパチパチと弾ける。
「……っ!」
青い火花がサライエルの顔面を襲う。
威力は大したものではない。魔力で強化されたサライエルの肉体には、小さな火傷すら残らない。
しかし、鼻っ面に叩き込まれた青い火花は、サライエルをほんの数瞬怯ませた。
その隙に少年は大きく跳び退く、サライエルの長剣のリーチ、強烈な踏み込みでも届ないほど遠く、後方への跳躍。
(距離は稼げた。ここでなら……!)
体勢を立て直した少年は、全身に青い炎を纏わせる。
それは、かつてまだ人間だった彼がパーティ会場襲撃の際に使った魔術と同じもの。
自分自身に炎を纏わせることで、近接戦闘にも対応しつつ、いつでも炎を放てる体勢を整える。
いつかは、ブレイズ・オン・セルフという詠唱を必要としたそれも、今や無詠唱で顕現する。
「燃え尽きろ! サライエル・ホロラーデ!」
解き放つは蒼炎の津波。
かつて、パーティ会場の屋敷一つを全焼させた魔術は、当時よりも火力を上げて、サライエルに襲いかかる。
目前に広がる炎の海。轟々と燃え盛る青い嵐は、サライエルには対処しようがないもの。
サライエルの戦闘スタイルは、歪なまでの攻撃偏重。圧倒的な膂力と長剣のリーチから放たれる斬撃は、ほとんどの相手にとって不可避かつ一撃必殺。
そこにサライエルの常軌を逸した踏み込み速度が加われば、広い攻撃範囲と高い突破力を兼ね備えた、理不尽極まりない剣となる。
しかし、取り回しの難しい長剣は小回りが利かず、サライエル自身も器用な性質ではない。
故に、相手の攻撃に合わせるというのが、非常に難しく、受けに回れば意外なまでに脆い。
距離を取られた上で放たれた、広範囲の火属性魔術。サライエルにとっては、絶体絶命の状況だった。
「全く」
青い炎を遮るように、地面からせり出した塩の壁。
純白の障壁は堂々と立ち塞がり、襲い来る蒼炎の津波を受け止める。
「誰がボクより強いって?」
塩魔術でサライエルの危機を救ったソラニエルは、彼女の隣に並び立ち、不敵に笑う。
その横顔を見て、サライエルは嬉しそうに口角を上げた。
「ソラニエル!」
「アルツィマ君は寝かせてきた。……あとは、あいつを倒すだけで良い」
ふと、青い炎が晴れる。炎の掃射を少年が中断したことによって、二人の視界をいっぱいに覆う蒼炎は掻き消えた。
それと同時に、ソラニエルも塩の障壁を自壊させる。視界を確保するための対応だったが、期せずして、敵の姿形を直視する効果ももたらした。
「どこまでも、しぶとい方達だ」
真っ白な塩の地平に、炎上する少年が立っている。
全身から立ち昇る蒼炎は、彼自身の怨念が具現化したよう。
「あなたほどじゃないですよ。魂だけになってまで追って来るとか、ストーカーなんですか?」
「ふ、貴方も似たようなものでしょう。サライエル・ホロラーデ」
「私は正妻だから良いんです」
軽口とも言えぬ、奇妙な言葉の応酬。
真面目な顔で馬鹿なことを言い放つサライエルに、赤毛の少年は薄く笑った。
それは嘲笑か、或いは哄笑か。嘲ったのか、愛でたのか。
恋。
ただそれだけの感情で、最悪の怪物を産み落とし、何かもを失ってなお、未来を求める姉妹に対して、少年は――――
「殺す。私はそう在ると決めた。そう在らねばならないと信じた。それが、舞台の外で不条理に奪われた、私の標石」
少年は全身に纏う炎を揺らし、儚げな眼で姉妹を見据える。
青い炎に包まれて、浮かび上がるは幽鬼の如きシルエット。
蒼炎の怪人は、遺言とばかりに言の葉を綴る。
「求めるならば、踏み越えて征け。最期まで貴方達を否定した、私という人間の屍を」
白い地平に、青い炎が立ち昇る。
最終戦が幕を開けた。
立ちはだかるは、無名の少年