第二十話 魂の容れ者
空は高く、塩の街を覆う色彩は残酷なまでに透き通った純白。
何色にも染まらない白の上に立ち、ボクは空を見上げていた。
「一人にしてくれと」
後ろを振り向かないまま言う。
「言ったはずなんだが」
背後で動く気配は一つ。
気配だけで誰か分かる、なんて口にするのは傲慢だ。
ボクは彼女の容姿すら見分けられなかったのだから。
「嫌です」
「聞き分けが悪いな」
ボクは彼女に背を向けたまま、ひどく冷たい言葉を投げかける。
今は彼女のことを見たくなかった。その姿を直視してしまえば、いよいよボクはボクでなくなってしまう気さえした。
「私が姉の言うことを素直に聞くようなタイプじゃないのは、ソラニエルが一番知ってるじゃないですか」
「ボクは君の姉じゃない」
棘のある言葉を選んでしまう自分に嫌気が差す。
自分だけじゃない。もう何もかもが嫌だった。この世界の全てが偽物だと知らされていたような気分だ。
それも当然だ。ボクにとって、世界の全てはサラだったのだから。
「勝手に決めつけないで下さい。なんか魔術がどうこうしてるかもしれないじゃないですか。ほら、魂がなんとかかんとかって」
そんなことは分かっている。ボクだって真っ先に考えたさ。
塩魔術による魂の保存。それがサラに対して作用した可能性は真っ先に思い付いた。
保存されたサラの魂が他者の肉体に宿ったのではないかと、そう思いもした。
でも、それには意味が無い。中身と器という二元論を考えないといけない時点で、この話は解釈の段階に入っている。
「魂と肉体、人格の主体になるのはどっちだと思う?」
その難易度からは考えられないほど早い段階で、人類は魂を観測する術を確立している。
人には物質としての肉体と肉体を操る精神体である魂が存在しているという事実を、人類は遥か昔から知っていた。
近代では多くの国で禁術指定されている魂の研究だが、歴史的に見れば、魂とは数多くの魔術師が挑んだテーマの一つだ。
だが、未だ魂の識別は為されていない。その不可能性から逆説的に考えて、人間の魂に差異など無いのではないかという説もあるほどだ。
「未だ明らかになっていない問題だが、魔術大国ウィゼルトンでは、個々の人格に関わるのは肉体であるという説が有力視されている」
人格形成において大きな役割を占める記憶。その記憶の保管を担うのが、脳という肉体の一部であることから、人格の主たるは魂ではなく肉体であるという説だ。
魂が無ければ肉体の記憶保管も停止するという反論もあるため、魔術界でも意見が分かれるテーマではある。
ただ一つ言えるのは、魂がその人であれば肉体など関係無いという主張は、鼻で笑われる愚論だということだ。
「君の中身がサラだからといって、君をサラだと断言はできない。……いや、もうこの先は考えたって意味が無い。この時代には、君が誰なのか知る術は存在しないんだ」
昔読んだ魔術書で、こんな一文を読んだことがある。
魂とは神が人間に与えた名札である。
曰く、魂は神が人間の肉体を識別するために与えた名札に過ぎず、そこには神にしか識別できないコードが刻まれているのだと。
今、ボクの背後に立っているのは、サライエル・ホロラーデという名札を提げた別人かもしれないのだ。
「全部、ボクの都合の良い妄想だったんだ。……ボクは、あの日をやり直したかった。サラだけを死なせて、ボクだけが生き残ったあの日をもう一度やり直して、今度は……ちゃんと終わりたかった。死にたかった。あの日、サラと一緒に死にたかったんだよ。だから、記憶の無い君を、二人目のサラに仕立て上げた。初めからボクは、君を心中に付き合わせる道具としか見てなかったんだ」
ボクには未来が無い。
サラが死んだ一年前から、いや、ボクとサラが姉妹に生まれた時から、ボクの未来は閉ざされていた。
何をどうやっても、サラと共に生きることは許されない。そういう呪いにボク達の人生は縛られていた。
「君はサライエルじゃない。サライエルではない他の誰かとしても生きていける。サラがいないと生きていけなかったボクとは違うんだよ。普通に誰かと恋をして、結ばれて、幸せに生きていく。君には、そういう未来がある」
彼女がサライエルとして生きるのか、他の誰かとして生きるのか。
そんな二択は存在しない。他の誰かとして生きるか、サライエルとして死ぬかだ。
だったら、生きるべきだ。姉に恋した異常者なんかじゃなく、どこにでもいる普通の女の子として、未来を生きてほしい。
「だから生きてくれ、サラ」
最後に、ボクは彼女の名を呼んだ。
塩の怪魚討伐なんて心中めいた作戦に、彼女を狩り出すようなことはしない。
あれとの決着はボク一人でつける。トドメはアルツィマかラクルスがどうにかしてくれるだろう。
死んでいくのは、ボク一人で構わない。
サラが、サラではない誰かとして、幸福な人生を送れるように。
「私、家族が欲しかったんです」
ふと、サラが言った。
「ダンケットでは面倒見てくれる人もいて、みんな優しくて、今にして思えば結構幸せだったと思います」
その幸せを奪ったのはボクだ。
普通に生きていたはずの彼女に、ボクがサライエル・ホロラーデという名札をかけた。
彼女が記憶喪失であるのを良いことに、都合の良い役を被せたのだ。
「でも、やっぱり寂しいんですよ。親子とか姉妹とか、そういうのが、私には無かったから」
そんなもの、これから作れば良かっただろう。
誰かと結婚して子供を作ったり、父親代わりの人間の養子に入ったり、いくらでもやりようはある。
「だから、ソラニエルと会えて嬉しかった。私にも血の繋がった家族がいたんだって、初めて思えたんです」
家族。嫌いな言葉だ。血の繋がりなんて、どうでも良いじゃないか。
そんなもので縛るな。そんなもので区切るな。そんなもので、ボクとサラの想いを否定しないでくれ。
何千回も夢想した。もしも、サラと血が繋がっていなかったなら。
たったそれだけで、ボクはサラとの未来を望めるというのに。
「私は……私がサライエルだって知れて、嬉しかった」
だから、血の繋がりなんて嫌いだ。
そんなものは要らない。無くて良い。最初から存在しなければ良い。
その繋がりが無ければ、ボクとサラは出会ってさえいなかったのだろう。
出会わなければ良かった。そうすれば、サラはボク以外の素敵な人と出会って、幸せな毎日を送れるのだ。
サラは記憶も肉体も捨て去って、新しく幸せな日常に戻るべきだ。
それが一番良いに決まっているのに。
「ソラニエルに会った時から、私はとっくにサライエルなんです。今更やっぱりナシなんて言わせません。最後まで責任取って下さい」
ふと、サラに手を握られた。
いつの間にか背を向けたままのボクに接近していたらしい。
勢いよく手を引かれ、思わず身が翻る。無理矢理引き寄せられた体を追いかけるように、足が前に出ていた。
サラに力強く手を引かれて、ボクは塩の街を歩き出す。サラが強く手を引くものだから、歩くというより小走りくらいのペースになるが、サラはお構いなしにどんどん先へと進む。
手を握られたボクも彼女に釣られて、隣を進んで行かざるを得ない。
「ほら、早く行きますよ! ソラニエル!」
隣で直視するその笑顔は、まるで太陽のようだった。
ああ、なんだ。やっぱりそうだ。
ボクが見間違えるはずないじゃないか。
サラはよく笑う子だった。この太陽みたいな笑顔に、ボクは心を奪われたのだ。
他でも無いこのボクが、彼女の笑顔を見違えるわけが無かったのに。
「もう、仕方無いなぁ。サラは」
二人手を繋いで、塩の街を駆けていく。
真っ白な世界を無邪気に走っていくのは、思っていたより気持ちが良い。
走り抜けた先に未来が無くても、それで構わないと思えるような、綺麗に晴れ渡った現在だった。
その名札にこそ、救われていたのかもしれない




