第十七話 約束
翌日、早起きをしたソラニエルが訪れたのは、屋敷の一室。
書斎じみた内装をしているその部屋は、代々ホロラーデ家の当主が使う部屋。かつてレンリテン・ホロラーデの自室だった。
最期まで父が横たわっていたベッドには、集めれば人一人分になろうかという量の塩が積もっている。
一年間、ソラニエルがこの部屋に立ち入ることはなかった。
ベッドの上に積もった父親と向き合う勇気が無かったから。
「まさか、先客がいたとはね」
一年ぶりに足を踏み入れた部屋には、意外にもアルツィマの姿があった。
「おはよう、ソラニエル。今日は随分と早起きだね。この部屋に何か用かい?」
アルツィマは穏やかに微笑む。
不思議と部外者であるアルツィマの姿は、運命的なまでにこの部屋に馴染んでいた。
いや、この部屋自体がアルツィマに調和しているようだった。白を基調とした内装も、純白でありながら質素な作りも、アルツィマのイメージに合っている。
まるで、この部屋自体がアルツィマのために作られているみたいだ。
「ああ、たまには掃除でもしてやらなければと思ったんだが……あまり埃は積もっていないね。塩魔術の影響というやつか」
「怪魚の使う塩魔術はハイスケールだからね。与える影響ももちろん強い。恣意的に手を加えなければ、屋敷の状態は半永久的に保存されると見て良いんじゃないかな?」
あの日のまま保存された部屋で、ソラニエルは静かに息を吸う。
吸い込んだ息は少ししょっぱい。鼻腔をくすぐる塩の匂いは、なんだか涼しげな感じがした。
ソラニエルはベッドの側に立ち、シーツの上に横たわる塩に触れた。
一掴みの塩を手に取るが、真っ白な砂粒は指の隙間をすり抜けて落ちていく。
「禁じられたものだとしても、誰かを想うことは罪じゃない」
ふと、ソラニエルはかつてアルツィマから聞いた言葉を零した。
ソラニエルはそれなりの覚悟を以て口にした言葉だったが、当のアルツィマは「そんなことも言ったっけね」と笑っている。
「ボクは……自分達に罪が無いとは思えないよ。塩の怪魚がたくさん殺したんだ。ボク達は世紀の大悪党に違いない」
塩の怪魚が引き起こした被害は尋常ではない。
その責を負うべきは誰かと言われれば、その答えは明白だろう。
「でも、それだけじゃないだろう?」
きっと罪はあるのだろう。禁忌に触れた彼女らが、大罪人であることには違いない。
けれど、その人生の全てが悪辣な罪悪に塗れたものだなんて言わせない。
結果がどれだけ悲惨なものだろうと、彼女達が抱いた想いは間違いじゃない。
好きな人に好きだと伝えること。共に生きたいと望むこと。恋をすること。
そんなささやかな幸福を禁じることこそ、人間にとって最大の禁忌だ。
「ああ、ボクはサラが好きだ。この気持ちは……多分、間違ってないと、今は思うよ」
その言葉を聞いて、アルツィマは満足そうに笑った。
ずっとその言葉が聞きたかったとでも言わんばかりの嬉しそうな笑みだった。
ホロラーデの二人が自分の想いを肯定してくれたこと。それがアルツィマにとってはたまらなく嬉しかった。
だからこそ、これからの話をするのはひどく哀しい。
ホロラーデにかかった呪いは強力だ。その上、ソラニエルとサラの場合はイレギュラーが過ぎる。
子供を作るという明確なトリガーが定まっていた以前とは異なり、どこまでの接触が塩の怪魚を呼び起こすか分からない。
それこそ、彼女らは大分危ない所まで踏み込んでいる。一昨日の夜を思えば、二体目の塩の怪魚が現れても不思議ではない。
結局の所、現実は一年前と変わらない。彼女達が結ばれる未来は、ホロラーデの呪いが固く禁じている。
彼女らは、果たしてどんな未来を望むのか。
「アルツィマ、ボク達は塩の怪魚を倒すよ。昨日、サラと話して決めたんだ。できれば、君にも手伝ってほしい」
期せずして訪れた答えに、アルツィマは目を見開いた。
確かに、ソラニエルの行動は自然に思える。一年前に生まれた怪魚は、今も塩の雪原を彷徨っているし、その姿はアルツィマも確認済みだ。
あれは全てを塩に変える化け物だ。生み出した当事者たちが責任を持って討伐するというのは、ある意味当然のことかもしれない。
「それは……あまりオススメしないな。一年前から塩の雪原は広がってないし、塩化現象も観測されてない。塩の雪原も危険地帯として認知されて、立ち入るような人間はほとんどいない。塩の怪魚が出す被害はもうほとんど無いんだ。だからこそ、公国も今は静観してる。こんなことを言うのはアレだけど、今更討伐してもあんまり意味は無い。それに……勝てる相手じゃないのは分かってるだろう?」
「分かっているよ。でも……ボク達には、これくらいしかすることが無いから」
告げるソラニエルの声音は、半透明に翳っていた。
彼女達には未来が無い。最も望む未来は禁忌によって閉ざされているのだから、あとはもう終わるしかない。
「死ぬつもりかい?」
アルツィマの問いに、ソラニエルは曖昧な微苦笑で答えた。
その諦めたような、吹っ切れたような顔が、全てを物語っている。
そう、彼女達は終わるしかないのだ。生きていれば、いつかまた、塩の怪魚を産み出してしまう。
離別して残りの人生を過ごすくらいなら、愛する人と一緒に終わりたい。
その決断はとても悲しくて、同時に皮肉なまでの最善策だった。ソラニエル・ホロラーデとサライエル・ホロラーデ。この二人が死ねば、ホロラーデの血は絶える。二度と塩の怪魚は生まれない。
「そんな顔をしないでくれよ。これでも、ボクは満足してるんだ。最期にサラと一緒に過ごせた。これ以上無いくらい幸せさ。……未来が欲しくないと言えば嘘になるが、そこにはサラがいないと意味が無い。なに、君の未来まで奪うつもりは無いさ。ボク達がアレを削った後、最後のトドメだけ頼みたいんだ」
僅かな沈黙。
数秒にも満たないその間にアルツィマは彼女らの覚悟を受け止めて、自らもまた覚悟を決めた。
「はぁ~、しょうがないなぁ、君達は。分かった、僕も手伝うよ。でも、トドメだけってのはナシだ。僕も戦闘に参加する。オーケー?」
「……オーケー。全く、君も頑固だな。無関係な君まで危険な目に遭わせたくはなかったんだが」
お互いに呆れつつも、共闘の約束を取り付けた。
ソラニエルとサラにとっては自殺に近い戦いだが、アルツィマに協力を頼むあたりに、塩の怪魚はきちんと片付けたいという清算の念も感じる。
「それともう一つだけ約束だ。誰が死んでも恨みっこナシ! 良いね?」
そう言って拳を突き出したアルツィマ。
誰が死んでも恨みっこ無し。それはこれから死にに行くソラニエルへの優しさだと分からぬほど、彼女も鈍くはなかった。
「ははっ、全く君は。……ああ、約束だ」
アルツィマの優しさを素直に受け取り、ソラニエルは彼の拳に自らの拳を打ちつけた。
交わす約束、少しでも笑顔で終われるように