第十五話 最期の朝
早朝五時、ホロラーデ邸の庭園にサライエル・ホロラーデの姿があった。
いつものように長髪を後ろで纏め、ぼんやりと空を見上げている。
どこか哀愁を纏う彼女の背に、ラクルスは声をかけた。
「サラ嬢、今日は随分早いな。いつもは寝坊助なのに」
慣れた軽口。彼女の纏う異質な雰囲気を払拭したくて、ラクルスは努めていつも通り声をかけた。
そんな心ばかりの行いは、全くの無駄に終わるのだが。
「ごめんなさい、ラクルス」
「それは……いつもの寝坊癖のことか? 慣れたもんだ。今更謝られるようなことじゃない」
「そうじゃなくて、貴方に……二度もアレと戦わせてしまうこと」
息を呑んだ。
サラの言うアレが何か理解できぬほど、ラクルスも鈍感ではない。
二十年前に一度戦った怪物。禁忌に触れたホロラーデに降りかかる厄災。塩の怪魚。
二度目になる悲劇を、ラクルスは一秒間たっぷり深呼吸して、どうにか受け止めた。
「相手はソラ嬢か。女同士なら……って話でもないらしいな」
「父さんじゃないって、どうして分かるんですか」
「あと数日でくたばるってやつが、今更ハッスルできるかよ。……それに、レンリテンはそういうやつじゃない」
ホロラーデの禁忌に触れることはない。その一点において、ラクルスはレンリテン・ホロラーデという男に絶対の信頼を寄せていた。
二十年前のあの悲劇を経験した自分達が、それを繰り返すなどあるはずがないと。
「兵を集める。サラ嬢、あんたも戦ってくれるな? 経験者のあたしに言わせれば、ヤツ相手に前衛はいくらいても足りない。贖罪だなんて言うつもりはないが、サラ嬢の腕は当てにしてんだ。頼んだぜ」
サライエルの心情を慮ってか、ラクルスは前向きな言葉をかけた。
戦ってくれと、自分達を助けてくれと、彼女を戦力として頼るように。彼女が前を向いて戦えるように――――生きていけるように。
「ごめんなさい、ラクルス」
その言葉が何を示すか、理解したくはなかった。
理解したくなかったのに、長年ホロラーデに仕えてきたラクルスの勘は、皮肉にも正解を導き出してしまう。
「サラ嬢、もしかして……あんた自身が――――」
見つめるサライエルの瞳は、その通りだと無言で肯定している。
ホロラーデの歴史上でも初めての、同性愛かつ近親間での恋という禁忌。かつて無い形で触れた禁忌は、極めてイレギュラーな状態で呪いの引き金を引く。
本来、生まれた赤子が変じるはずだった塩の怪魚。しかし、今回のパターンでは、赤子そのものが存在しない。
存在しない。けれど、存在するはずの赤子。
禁忌に触れたのだから、そこには赤子がいないとおかしい。
それは魔物の誕生構造にも似た逆説。
本来、塩の怪魚とはホロラーデの近親間で生まれた赤子が呪いによって変成した怪物。怪物といえど、人間という生物の延長線上でしかない。
存在しないのに存在するはずだという逆説が、本来生物の延長線上にいたはずのそれを、もう一段階上の規格へと押し上げる。
母親の腹の中に宿り、その腹を食い破って顕現するは、ホロラーデの歴史上最悪の怪魚。
サライエルを内側から破裂させて現れたのは、竜の如き形をした青灰色の怪魚。
「Ruuaaaaaaaaaaaa――――――――ッ!」
怪魚の咆哮と共に、内側から爆ぜたサライエルの血肉が降り注ぐ。
赤く塗れた肉塊の雨を浴びて、ラクルスは苦々しく呟いた。
「……クソったれ」
呪われた家系の運命に唾を吐くかのように。
***
目覚めた時、隣にサラはいなかった。
「サ、ラ……」
のそのそとベッドの上で上体を起こす。はだけた寝巻を着直して、ふらついた足取りで部屋を出る。
サラ。サラはどこに行ったのだろうか。早く探しに行かないと。少しでも側にいたいから。あと少しだけ、彼女に縋っていたいから。
「Ruuaaaaaaaaaaaa――――――――ッ!」
遠雷のように響く咆哮は、聞こえないフリをした。
本当は何となく分かっていた。もう、サラはこの世のどこにもいないこと。
一緒に終わりを迎えるつもりが、ボクだけが取り残されたこと。
分かっていたはずの現実に蓋をして、幽霊のように屋敷を彷徨う。その末に辿り着いたのは、父上の自室だった。
貴族にしては手狭な部屋。ポツンと置かれたベッドの上に横たわる父上は、ボクと同じように取り残されたみたいだった。
「父上……サラを、サラを見ていないか……?」
ボクは眠る父上に声をかける。
答えを期待したわけではない。それでも、訊かずにはいられなかった。
父上はひどく痩せていて、今にも命尽きそうな様相だ。
「……分からぬお前ではないだろう」
掠れた父上の声が、残酷な現実を告げていた。
なんだ、それ。分かるわけないだろう。分かったもんじゃない。分かってたまるものか。
逆説が導く怪物の誕生なんて、あってたまるものか。それじゃあ、サラは塩の怪魚に腹を食い破られて死んでるってことじゃないか。
「お前も姉上と同じか……はは、こればかりは血だな。私達はどうにも、この家の呪いから抜け出せないらしい」
父上は笑っていた。
それがどんな感情から来る笑いか、ボクには少しも理解ができなくて、血が出るくらい強く歯を食い縛った。
「父上、ボクはサラを――――」
「良い。分かっている。……分かっていたさ、ずっと前から」
ボクは驚きに目を見開いた。
ボクとサラの関係が父上には見抜かれていたというのか。
いや、見抜かれていたのなら、何故――――
「分かっていながら、止められなかった。……全く、これでは二十年前と同じだ。お前達は災いを呼ぶと分かっているのに、私は最後まで止められない。数え切れないほど死なせてから、死体の山を眺めてやっと後悔する。……もう二度と、アレは呼び覚ますまいと誓ったのだがな」
此度の塩の怪魚顕現。父上にとっては二度目の邂逅だ。
二十年前、ボクの叔母にあたる人物――――父上の姉が塩の怪魚を産んで以来、二度目の悲劇。
一度あの怪物の恐ろしさを目の当たりにしながら、父上は禁忌に触れたボク達を見過ごしたというのか。
何故、一体何故。
ボク達の恋が最悪の結果に繋がると、父上は誰よりも痛感していたはずなのに。
「どうしても恨めないんだ。お前や姉上のせいで、多くの友を失った。その悲しみは今も強く残っているのに、お前達への怒りや憎しみは少しも湧いてこない。不思議なものだな」
何を、何を言っているんだ。
そんなのおかしいじゃないか。恨めないだなんて、そんなの、絶対おかしい。
ボクのせいだ。これから塩の怪魚は多くの人を殺す。サラも、ラクルスも、父上も、みんな塩の柱に変えてしまう。ラーヴァイスそのものを崩壊させるかもしれない。
それもこれも全部ボクのせいなのに、どうして恨んでくれないのか。
「すまないな。父の血筋が悪いばかりに」
ダメだ。やっぱり父上はボクに甘すぎる。
どうして罰してくれないんだ。お前のせいだと罵って、お前が悪いと責めてくれたら、ボクも少しは気持ちの整理がつくのに。
「お前達がどんな化け物を産み、どれだけの被害を出そうとも、私はお前達を愛している。私も、ナタフィアも、それだけは揺るがない。何一つ突き通せなかった私の人生で、たった一つ不変のものだ」
父上の声は次第に小さくなっていく。
その言葉を聞き取ろうと必死に耳を傾けるのだけれど、自分の嗚咽がうるさくて、上手く聞こえない。
「だから泣くな。最後に見る娘の顔は、やはり笑顔が良い」
何とかその部分だけを聞き取って、ボクは父上に笑って見せた。
涙で顔はぐしゃぐしゃで、上手く笑えていたかは分からない。
それでも、ボクは精一杯笑って、ありがとうと言ったのだ。
「はは。ああ、私は、なんて幸せな――――」
穏やかに笑って目を閉じる。
ホロラーデの呪いに振り回されて生きた、父上の最期だった。
穏やかな眠りへと




