第十話 哀悼
夜が明けた。
「おはよう。今日は随分遅かったね。朝ごはん、もう冷めちゃったけど食べるかい?」
時計の針が十時を回ってから居間に現れたボクに、アルツィマは声をかけた。
白い青年は何も知らないような顔をして、朝食の皿を勧めてくる。
「そういうのは良い。……聞こえてただろう、声。この屋敷はよく響くんだ」
サラは声が大きい。
そうでなくとも、この屋敷は音がよく響く。
そういう風に造られているんだろう。
「ああ、昨日のことかい。それはもうお楽しみだったようで……」
「……っ! 笑いごとじゃないのは分かっているだろう!? 茶化して良い話じゃない!」
「いいや、茶化して良い話だよ。シリアスに構えなくたって良い。こんなのは、どこにでもありふれた思い出の一ページさ」
アルツィマはふんわりとした笑みを崩さず。薄灰色の目を優しく細める。
毒にも薬にもならないような善性を吐いて、アルツィマは優雅に佇んでいる。
その余裕とも安寧ともつかぬ態度がひどく無責任に見えて、ボクは声を荒げて反論した。
「良いわけないだろう……!? ボクは禁忌に触れたんだ! 一度ならず二度までも! 一年前、ラーヴァイスが塩の雪原と化した原因だって――――」
「まあまあ、詳しい話は後にしよう。今までの反省も、これからの対策も、遅めのランチを取りながらで良い。僕の見立てが正しければ、君が心配しているような呪いは発動しないからね。そんなことよりも先に――――」
背後で、扉が開く音がした。
振り向かなくたって、そこに立っているのが誰かは分かっていた。
「決着を付けるべき相手がいる。そうだろう? サラ」
扉の前に立っているサラは、腰に長剣を提げていた。
彼女の背丈に迫るほどに長い剣。腰からぶら下がるその鞘を撫でて、若草色の瞳を細めている。
「はい、庭に向かいましょう。アルツィマ」
アルツィマは立ち尽くすボクの横を通り過ぎて、サラの下へと歩いていく。
呆然として、何も言えない。
二人は何を言っているんだ?
決着を付ける? 確かにそうだ。庭のアレはボクが背負うべきモノだ。
だが、サラはともかく、アルツィマには何の関係も無いはず――――
「ソラニエル。君は一つ勘違いをしてるよ」
ボクの方を振り返って言うアルツィマは、不敵な笑みを浮かべている。
子供が大人を悪戯に引っかけて笑うような、してやったりと言わんばかりの笑み。
「君は自分の行いに全部責任を持つつもりみたいだけど、そんなことは不可能だし、する必要も無いんだ。まあ、後ろの方で見てなよ。僕とサラが君をサラッとを助ける所をね」
サラだけに、なんて死ぬほど下らないことを言ってアルツィマは笑う。
急に思いも寄らないことを言われて、ボクは目をパチクリさせるばかり。泳いだ視線は自然と隣のサラへと向かっていた。
「手出し無用です、ソラニエル。私を見ていて下さい」
サラは強い意思を滲ませてそう言った。
まるで、御伽噺の主人公のよう。
昨日は子供のように泣いていたサラが、どうして今こんなにも強い決意を漲らせて立っているのか。
昨夜、ボクは激情のままに喚き散らして、結局一年前と同じ過ちを繰り返しただけなのに。
一体何がサラを変えたのか。
アルツィマにはその正体が分かっているのか。
「それじゃあ、行ってくるよ」
そうして、二人は部屋を出た。
ボクが追いかけるように部屋を出たのは、たっぷり三十秒の間をおいてからだった。
***
「そういえば、なんでこの庭はこんな綺麗なんですか? 庭師もいないですよね?」
どこをどう切り取ってもシンメトリーになるように設計された庭を、アルツィマとサラは並んで歩く。
左右対称で線対称で点対称。かっちりと決められた規則のように並ぶ草木を横目に、二人は何となしに歩を進めていた。
「この屋敷、というか地域一帯に働く塩魔術の副作用だろうね。塩魔術の真髄は保存。その影響でこの庭も庭師がいた頃の状態に保存されてる」
何の気無しにサラが投げた問いだったが、良い機会だと思ったのか、アルツィマはさらに言葉を続ける。
「塩魔術は元々、永遠の命を目的として開発された魔術なんだ。魂を塩漬けにして保存できれば、永遠の命が手に入るってね。まあ、そんな簡単に事は運ばなかったわけだけど、魂を保存するって側面は今も強く残ってる。だから、ここには保存されてる。一年前の塩化現象で死んだ人達の魂。死後すぐに離散するはずだった魂の数々が、塩漬けにされて眠ってるんだ」
アルツィマの言葉をサラは聞き流す。
話が難しくて何を言っているか分からないということもあったが、今の自分に小難しい理屈は要らないと思っている部分が大きかった。
「その魂が魔物と混じったんだろうね。人の魂を取り込みつつ、魔力の後付けとして生まれた魔物は、原初の段階にして知性を兼ね備える魔族だった。まさに亡霊だよ。この場所でしか生まれ得ない特殊な魔族の一種。混血とは違った方法で生まれた半魔族。いや、割合的には半分以上魔族なんだろうけどね」
いよいよ話に付いていけなくなったサラは完全に理解を諦める。
けれど、亡霊という単語の意味だけは心で理解できた。
アレは過去。過去ここにあったものの残滓。記憶を失う前のサライエルの近くにいた何者かが、この地に焼き付けた何かの名残。
「出て来ませんね、亡霊」
それの名称を亡霊と決めたサラは、中々姿を現さない目標について言及する。
昨日は勝手に出て来たのだから今日も出るだろうと高を括っていたサラだったが、存外にも亡霊は姿を現さない。
「それじゃあ、呼び出そうか」
「そんなことできるんですか? ていうか、それができるなら早くやってください」
少し怒り気味に文句を言うサラに、アルツィマはやれやれといった顔を見せる。
その表情にサラはさらにムッとするが、アルツィマは気にせず語り出した。
「この庭はホロラーデの性質をよく示してる。決して触れてはいけない禁忌を守るために、きちんとした戒律で行動を縛る。順序正しく、ルールからはみ出ないように、綺麗に丁寧にオブジェクトを並べてある。お化けがここに棲みついたのも、この均一に整えられた戒律が心地良かったからだ。禁忌に触れる心配が無いからね」
なるほど、とサラは納得した。
この庭にいるのがどことなく息苦しいわけだ。
ここは禁忌に触れないように戒律で縛るための庭。どこまでも禁忌に触れる側の私にとっては、居心地が悪いなんてものじゃない。
「だから、彼らが嫌がることをすれば良い。ちゃんとシンメトリーになるように配置した物を勝手に壊されれば、きっと怒って出て来るはずさ」
今度はアルツィマの言葉がサラにも理解できた。
この庭にある草木でも花でも何でも良い。何か一つでも配置を変えたり、壊したりすれば、怒った亡霊は顔を出すだろうという話だ。
「今更だけど、覚悟は良いかい?」
「本当に今更ですね……」
サラは勢いよく長剣を抜刀。
鞘から剣を抜くモーションでそのまま、すぐ近くにあった草木を両断した。
美しく剪定されていた草木は、真っ二つに割れ、投げ捨てられた玩具のように地面に転がった。
「大丈夫ですよ。欲しいものは、全部手に入りましたから」
サラは流し目に、少し離れた位置にいるソラニエルを見る。庭への勝手口のあたりで立っている彼女は、ひどく心配そうな顔をしている。
そんなソラニエルを安心させるように、サラは優しく微笑んで見せた。
サラの晴れやかな顔を見て、アルツィマは満足そうに笑う。
それは子の成長を見守る親のようで、旧友と久しぶりに再会したようでもある。
緩やかに渦巻く幾つもの感情の中に、いつか夢見た理想の果てを見届けたような、暖かい色を見た。
「ユ、ユユユ、ユユ……」
二人の前に膨れ上がる白い肉塊。
死体の肉を大量に捏ねて固めたような白い塊は、太い柱のようにぶくぶくと膨れ上がる。
死人の肌を思わせる白い皮膚には、大量の眼球やら口やらがあちこちに付いていて、見る者にグロテスクな印象を与える。
少なくとも、アルツィマはグロテスクな印象を受けていた。
「こんな感じだったの?」
「昨日のは人型だったんですけど……」
予想外の化け物じみた見た目に、アルツィマだけでなくサラも困惑する。
だが、皮膚のあちこちに生えている目や口が明らかに人間のそれであることから、目の前のこれに人間の魂が組み込まれていることは見て取れる。
明らかな異形に変じているのは、あまりに多くの魂を取り込みすぎたため。
塩魔術の影響で保存されていた魂のほとんどを吸収して生まれたそれは、皮肉にも人の形を失っていた。
「ユルサナイ」
そして、発された言葉も人のそれ。
「ニゲルナ」
「ムキアエ」
「ツグナエ」
「フザケルナ」
「シニタクナイ」
「アガナエ」
「ドウシテ」
「オモイダセ」
「ワスレルナ」
無数の口から次々と発される言葉の数々。
声音もトーンも様々で、数多の怨嗟が降り注ぐ雨のように吐き出される。
「オマエノセイダ」
「オマエタチガコロシタ」
「ナンデコンナコト」
それは恨み言。
ラーヴァイスで死んだ者達が魂に抱えていた怒りと悲しみ。
塩の柱と化して死んでいった亡者の怨嗟。
「分かってますよ。私は私が誰なのか知らなきゃいけない。多分、あなた達を塩に変えたのは、私とソラニエルだから。……多分、私がずっと感じていた疎外感は、罪悪感なんでしょうね」
サラは対話するように呟き、ゆっくりと長剣を構える。
「でも、それをあなた達から聞くつもりは無い。犯した禁忌も、私の過去も、全部ソラニエルに教えてもらいます。……ソラニエルは、私が大好きみたいですから」
一閃。
落涙に満ちた一夜の末に出した答えと共に、サラは長剣を薙ぎ払う。
振り抜かれた一閃は閃光を思わせるほど疾く、そして剛力の如く力強く。
一刀にて亡霊を両断した。
「さようなら。……ごめんなさいは、いつかあの世で」
少女の長剣が切り裂く肉塊。
白い肉は魔力の粒子となって消えていく。
散りゆく亡霊の前でサラは長剣を鞘に収め、静かに目を閉じる。
それは、きっと自分が殺した誰かに捧ぐ、せめてもの哀悼だった。
振り抜く一閃は、呪われた過去を斬り捨てて