第一話 塩の雪原
どうせ踏み外してしまうなら、死んでおけば良かったんだ
高い空には雲一つ無く、眩い晴天が頭上を覆う。
街の中でも一番標高の高い位置に作られた広場、といっても丘程度の高さしかない広場には、一人の青年が立っていた。
手すりを両手で掴み、体重を乗せている。錆びた手すりは意外にも頑丈で、青年の細身には軋みの一つも上げない。
白い青年だった。透き通った髪は透明と見紛うほどの純白、真っ白な肌はまるで雪化粧。澄み渡る瞳だけが、雪原に一滴墨を垂らしたような薄灰色をしていた。
身に纏っているのは旅人然とした軽装。かなり古びた物だが、彼の圧倒的な白を隠し切れてはいない。
そんな彼が小高い広場から見渡す景色は、彼自身さえ凌駕する白。
どこまでも広がる真っ白な大地。晴天に照らされた雪原は、無限の白を湛えていた。
「うわー、真っ白だなぁ」
青年の口からそんな言葉が零れた。
白く白く、全てを塗り潰すような純白の領域。
ウィゼルトン公国、旧ホロラーデ領。気候は比較的寒冷な地ではあったが、雪原が出来るほどの極寒ではない。
白く広がる雪原――――否、雪原のように見えるものは、視界いっぱいに積もった塩。
一年前まで豊かな都市だったこの場所は、ある日突然白い砂漠へと姿を変えた。
この白風景を人はこう呼ぶ。
「これが塩の雪原かー」
目の前の光景を確かめるように、青年は呟いた。
***
ウィゼルトン公国、旧ホロラーデ領東部、ダンケット街。
小さな街の商店街を純白の青年が歩く。髪は白、肌も白、瞳も限りなく白に近い薄灰色。両耳は少し尖り気味だが、あまりに透き通った色彩に比べれば常識の範疇だ。
その儚くも美しい容貌は自然と視線を集めるが、青年は素知らぬ様子で露店を見て回る。
「あ、店主。ここの干し肉ってどれくらい保つ?」
「あー、これかい。二週間は保つだろーが……まあ、一週間で食った方が安全だな。腐らねえ食料が欲しいんなら、こっちの缶詰めはどうだい? 短く見積もっても二月は保つぜ」
「う~ん、そんなこと言ってー、結構お高いんじゃない?」
「今ならたったの銅貨二枚だ。干し肉の方もオマケするぜ?」
「よし! 買った!」
青年は露店で食料を購入し、リュックへと詰めていく。
大量の食料品を詰め込まれたリュックはパンパンに膨れ上がった。
その重みをしっかりと感じながら、青年は食べ物も詰まったリュックを背負う。
「にしても、こんな食料ばっか買ってどうすんだい? 冒険者ってなりには見えねーが、どっかの秘境に潜るったって、こんな量はいらねーだろ。食うもんに困ったら、川で魚でも釣るなり、山で獣でも獲るなりすりゃあ良い」
大量に食品を買っていく青年を店主は訝しむ。
これだけの食料、しかも保存品が必要な局面というのは中々思い当たらない。
「それがそういうわけにもいかないんだよねぇ。ほら、乾いた塩ばかりの土地じゃ、魚も獣も棲みつかないだろう? 魔物は出るって噂だけどね」
「おいおい、アンタまさか……塩の雪原に行こうってのか? イカれてるぜ。一面塩ばっかで何も無ぇ。おまけに竜種が出るって噂だ。何だって、あんな殺風景な所に行こうってんだい?」
青年の言葉に、店主はさらに疑念を深める。
塩の雪原は、明らかに異常な土地ではある。
しかし、向かうメリットのある場所ではない。
一面塩の風景は方向感覚を惑わせ、乾いた白い大地には生き物も棲みつかない。水も食べ物も無く、塩を口に運ぼうものなら塩分過多で肉体に異常をきたす。
これだけ過酷な環境でありながら、得るものは何一つ無い。
塩の雪原が発生した当初こそは、興味や好奇心で足を踏み入れる者もいたが、今はその類の話さえとんと聞かない。
「それに水はどうすんだい? 人間食わずで七日、飲まずで三日。どれだけ食料があっても、水が無きゃ人は生きて行けねーぜ」
「大丈夫だよ。水は魔術で出せるからね。カップ一つあれば十分さ」
こう見えて魔術師だからね、と青年は自信ありげに胸を張る。
青年は自慢げに自分は大丈夫だとアピールするが、店主の疑念は深まるばかり。訝しげに疑いの目を青年に向けていた。
「まあ、行かなきゃいけないんだ。何があっても」
そんな店主に対して青年は、聞き分けの悪い子供に言い聞かせる親のような、優しくも哀しい表情を向けた。
「……ワケありってやつか。ま、無理しねぇようにな。客に死なれちゃ夢見が悪ぃ」
「はは、努力するよ」
諦めたような、或いは呆れたような表情で禿頭を掻く店主に、青年は吹っ切れたような笑顔で返す。
店主がその笑みの中に感じた、一抹の空虚。どこか空っぽな危うい空気は、青年の放つ真っ白な色彩のせいにした。
きっと、彼が並外れた容貌だから、その奥に何かを幻視してしまうのだろう、と。
「それじゃあ、そろそろ行くよ。あまり待たせても悪いから」
「――――待って下さい」
歩き出そうとした青年に待ったをかけたのは、一人の少女。
露店の裏から顔を出した少女は、険しい顔つきで青年の方を見ていた。
「お前っ、客がいる時は大人しくしてろって――――」
店主が止めるのにも構わず、少女はずんずんと青年の方に歩いていく。
やがて青年の目の前まで来た少女は、堂々たる口ぶりで話し始めた。
「話は聞かせてもらいました。私も塩の雪原に連れて行って下さい。私は剣士です。自分で言うのも何ですが腕はたちます。塩の雪原には魔物も出るという噂ですから、護衛は一人でもいた方が――――あいたっ!」
青年に向かって演説する少女の頭に、店主のチョップが炸裂した。
「痛い! 痛いです! 何するんですか!? 暴力反対! 私は塩の雪原に行くんです! 黙って見てて下さい!」
「お、ま、え、は! まーだそんなことを言ってるのか! あそこがどれだけ危険か分かってんのか!? お前みたいなチンチクリンはなぁ……一口で魔物の口の中だ!」
「なっ……! 馬鹿にしないで下さい! 魔物なんて私の剣で一刀両断です!」
「んなわけあるかバカモン! あ、兄ちゃんもこっちは気にせず行ってくんな。こいつは言い出すと聞かねーんだ」
突如現れた少女は店主と言い争いを繰り広げる。
客の前で散々なやり取りだが、青年は穏やかな笑みを浮かべて見守っていた。
「それじゃあ、ありがとう。店主」
「おう! 元気でな!」
「待って下さい! まだ話は終わっていません! 私も塩の雪原に――――」
少女は言いたいことがあるようだったが、青年もいつまでも付き合っているわけにはいかない。
父子のような言い合いをする二人には別れを告げて、青年は小さな商店街を歩いて行った。
***
青年は歩く。果ての見えない塩の雪原をただひたすらに歩いていく。
白い大地の上を歩く白い青年。彼の纏う衣服と背負うリュックサックだけが、一面の白の中浮いているようだった。
塩の大地は砂漠のように歩きにくく、吹きつける風は強い上にしょっぱい。
振り返れば、まだ遠くに街が見える。自身が少し前に出立した街を遠目に見て、青年はほうと息を吐いた。
それは溜息か、或いは覚悟を決めるための深呼吸。
彼には白い大地を走って来る彼女の姿が見えてしまったのだから。
「待って下さーい! さっきの人ー! 私の声聞こえてますかー!」
青年は足を止め、塩の雪原を走る少女を見る。
彼女の呼びかけに答えるように、青年は大きく手を振った。
青年が振った手にぱあっと顔を明るくした少女は、駆け足で青年に寄って来る。
やがて合流した少女に向かって、青年は優しく声をかけた。
「まさか追って来るなんて思わなかったよ。良いのかい? お父さんには止められてただろう?」
「アベンは父じゃありません! だから私のすることに口出しする権利も無いんです!」
丸っきり反抗期の娘のようなことを言いながら、少女はドンと胸を張る。
「でも、店主は君のことを心配してたよ? そうでなくても、僕について来るのは危険なことだ。少しでも引き返す意思があるなら、ここで引き返した方が良い」
勢いづく少女に、青年は優しく諭す。
その言葉は彼の外見年齢に似合わず老獪で、長い年月を生きた老人のような雰囲気を感じさせた。
「危険なのは分かってます。でも、私は行かなきゃいけない」
そう言って、少女は腰に提げた剣の柄に触れる。
その表情と仕草だけで、彼女の意思の固さが知れようというものだった。
「一応、理由を訊いても良いかな?」
青年は穏やかに尋ねた。
温厚で安寧な問いかけ。問い詰めるような口調は一切感じさせない質問に、しかし彼女は言葉を詰まらせた。
痛い所を突かれた、というような顔で答えに窮している。
「……私、記憶が無いんです」
そして捻りだした回答は、あまりに荒唐無稽なものだった。
荒唐無稽な告白を青年が荒唐無稽と笑うことは無い。静かなたたずまいのまま、少女が紡ぐ言葉を待った。
「ここ一年から前の記憶が、すっぽり抜け落ちたみたいに無くて、何も……何も思い出せないんです」
青年は改めて少女の全身を見る。
後ろで結んだ長い髪。背丈も平凡な少女のそれ。歳は十代後半に見える。種族も純粋な人間。剣を修めていることも、別段不思議なことではない。
外見から得られる情報では、少女はどこにでもいる普通の人間だった。
青年のように特殊で目を惹く特徴があるわけではない。
「なのに、塩の雪原を見ていると、何となく思うんです。この先に何かがあるって。私から抜け落ちてしまったものがこの先にあるって、何となくなんですけど、疑いようが無いくらい、鮮明に……」
支離滅裂な少女の論理。
しかし、嘘と思わせないだけの現実味が、その声と表情には乗っていた。
「オーケー、事情は分かったよ。それじゃあ行こうか。こうしている間にも、日が暮れていってしまうからね」
「え……あ、はい」
少女の申し出をあっさりと了承した青年は、再び塩の雪原を歩き出す。
踏みしめる靴がザッザッと音を立て、真っ白な絨毯に足跡を残していく。
その背中を呆然と眺める少女は、戸惑いがちに声をかけた。
「あの、自分で言い出しておいてアレなんですけど……本当に良いんですか? 私、そんなに説得力のあること言ってないですよね?」
「感覚っていうのは案外大切なものだよ。納得できる理論は無くても、それ自体が正解だったりする。それに、旅の仲間はいた方が良い。だって、ほら、一人ぼっちは寂しいだろう?」
そんな少女に青年は飄々と返した。
危険な旅路だと語ったのは彼自身であるはずだが、その態度はひどくゆったりしている。
まるで、気心の知れた友人と観光旅行に行くような雰囲気だ。
「あ、そういえば名前を聞いてなかった。僕はアルツィマ・ノート。君は……覚えていないかな?」
「サラ。ここ一年はそう名乗っていました」
お互いに自己紹介を終え、二人は塩の雪原を歩いていく。
目的は不明瞭なままに、行き先すらも曖昧にして、無限の白に足跡を刻んでいく。
旅は道連れ、景色は白く