看板娘の裏アカウント 9
その少し後、夏美もいつもの早番の出勤時刻通りに家を出た。翔琉が帰った方向とは反対へ歩いて行く。カフェ・リブレへ向かう道、昨夜も翔琉と二人で帰ってきた道だ。
マンションの前の公園を過ぎ、腰を抱かれて迫られた街灯の下も通り過ぎて、朝靄の晴れてきた道を歩く。その背後を少し離れて尾けていく、一つの人影があった。
夏美が角を曲がると足早に近づき、直線では距離を開け、電柱や交通標識の影に隠れるように身を縮める。人気のない公園とブロック塀に挟まれた道に差し掛かると、尾行者は足音を立てずに距離を詰めた。手を伸ばす。この角を曲がれば少し大きな通りに出てしまう。腕を引くなら今かもしれない。
しかしその手は空を掴み、素早く引っ込めることになった。夏美に電話がかかってきたのだ。スマートフォンを取り出して、明るい声で二言三言会話する。電話はすぐに終わったようだが、その間に通りに出て、交差点で立ち止まってしまった。そう広くもない車道、ちょうど車の往来もないが、夏美は律儀に信号待ちをしている。他に人通りもない。尾行者はまた一歩踏み出した。
夏美が悲鳴をあげれば、どこまで届いてしまうだろうか。まず口を塞いで、同時に腹部に腕を回して、さっきの角に引きずり込むのがいいだろう。あの公園は人の背ほどもある生け垣に囲まれているし、中に入れば遊歩道からも外の歩道からも死角になった場所なんていくらでもある。適当な物陰に引き倒してしまえばいい。
夏美もはじめは驚くだろうが、落ち着いて自分の顔を見れば、すぐに助けに来たとわかるだろう。手紙にもきちんと書いた。散々裏切ったのに全て許して救い出してあげるんだから、絶対に感謝されるはずだ。あの男と引き離すためには、それしか方法がない。職場は同じだし、夏美の自宅の場所も知られている。軽薄な優男だが体格には恵まれているようだし、力づくで迫られて抵抗もできないのに違いなかった。
尾行者は夏美のすぐ背後まで近寄った。大股で四歩も歩けば、後ろから羽交い締めにできる。
だが、少しだけ判断が遅かった。通りの向こうに制服姿の女子学生が二人来てしまったのだ。車も一台、夏美のいる横断歩道の前で止まる。信号が変わって、学生たちも夏美も道路を渡りはじめた。
この道を右にまっすぐ行けば、もう彼女の勤務先の喫茶店がある。最近は店長もほとんど出勤せずに夏美に任せ切りのようだし、あの男も夜が明けきってようやく夏美の部屋を出たということは、早番ではないはずだ。
あの部屋で、カーテンを閉め切って電気も消して、彼女がなにをされていたのかを考えるだけで、腸が煮えくり返りそうだった。趣味ではない下着を脱がされて、一晩中犯されていたのに違いない。あんな無責任そうな男だ、きっと避妊もしていないし、夏美の体には夜の余韻がたっぷり残っているだろう。同情はしているが、そう思うと興奮もした。だいたい夏美にも非はあるのだ。あのとき自分の誘いを素直に受けていれば、二人の関係は順調に進展して、余計な邪魔の入る余地もなかったのだから。
けれどそんな地獄も今日で終わりだ。喫茶店の鍵を開ける夏美の背中を見ながら考える。この通りに一時でも人通りがなくなったら、その時だ。すぐに店に入って、一人で開店準備をしているところを連れ出せばいい。そして二人で逃げるのだ。
まずは夏美のマンションの向かいに借りた部屋に戻り、あの男に触られた体中すべて、隅々まで洗って掻き出して、上書きして消毒をしなければ。
夏美が入っていくのを確認してから、店に近付いていった。ガラスドアから、彼女が忙しく動き回るのが見える。素早く左右を見回すと、人通りはちょうど途切れている。運が味方してくれているみたいだ。
ドアノブに手をかけた。