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看板娘の裏アカウント 7

 ストーカーからの手紙は全て手書きだし、カフェ・リブレの客の中に犯人がいることはわかっている。いざとなったらカフェ・リブレでアンケートでも偽装して筆跡鑑定をしようか、とまで翔琉は考えていた。多少不審がられはするだろうが、手っ取り早く解決できる。


 資料ならば山のようにある。翌日、翌々日と日が経つほどに、嫌がらせの手紙は増え続けているのだ。一度に少なくて三通、多いときはその倍。

 内容も一層過激になり、卑猥で不快な言葉をわざわざ選んでいるように思える。


 夏美には手紙は見ずに持ってくるように言っていたが、ついに我慢できなくなって中を見てしまったらしく、今日は朝からずっと真っ青な顔をしていた。


『なにされても文句言えないからな淫乱女

 わかってるんだろうな』

『あんな男より俺のほうが気持ちよくできるのに』

『俺はもうちょっと大きいおっぱいが好きだから

 モミモミして大きくしてあげるね

 下着も赤とかもっとエロい方がいいよ』


 こんなものが彼女の視界に入ったかと思うと、手紙を握る手にこめられる力を緩められなかった。

「ほんっと気持ち悪いですね」

 と言いながら、しわの寄ってしまった紙をぱん、と手の平で挟んで、封筒に戻す。つい苛立ちをあらわにしてしまったが、これも大事な証拠品だ。これ以上損なうわけにはいかない。

 正直なところ、翔琉は忙しいのだ。カフェ・リブレだけで活動しているわけではない。夏美のストーカーなどにそう長い時間はかけられない。それでもなぜか、この役目を他に任せたくはなかった。


 ストーカーが、夏美が翔琉と接触することに特に敏感に反応していることは、これまでの嫌がらせからわかっていた。

 店内で体が触れただけでも脚色してポストし、帰り道を一緒に歩くようになればストーカー行為を激化させ、なんの弾みか直接手紙を投函するまでになっている。


 物的証拠が手に入ったことだし、夏美と話し合って警察に届け出に行くことに決めた。しかし二人が揃えるのはカフェ・リブレのシフトが被る日、翔琉が休みの時は夏美がシフトに入り、逆もまたしかり。なかなか時間が合わず、週末まで先延ばしにすることになってしまった。ただ、それまでの数日の間に、さらにストーカー行為がエスカレートしてしまいそうなのが懸念事項だ。それまでなんとか持ち堪えなくてはいけない。

 そう思うと同時に、今ならこちらから行動を起こせば、簡単におびき出されてくれるのではないか、という気がしていた。


 ストーカー対策としてやってはいけない事柄の中には、取りつく島もなく接触を断つこと、被害者が一人で接触してしまうこと、そしてストーカーの怒りを煽ることなどがある。

 翔琉の策は明らかにストーカーを激昂させるものだ。危険だということはわかっている。

 しかしわかった上で、それでも、夏美を守りきれる自信は充分にある。

 要は解決すればいいのだ。趣味ではないが、賭け事は得意なほうだという自負もあった。



「あの、翔琉さん」

「なんですか?」

「なんで今日に限ってそんなべたべたしてくるの?」

「あはは、べたべたって」


 繋いだ手を振りほどこうと、夏美が手を動かす。全く攻撃力のないそれは、ただ二人の間でじゃれたように手を揺らすだけに終わった。


 カフェ・リブレを出て少ししてから翔琉が流れるように絡めた指先に、夏美はさっきからずっと抵抗しているし、翔琉は離す気どころかろくに説明もしていない。そればかりか、より一層ぎゅうと握り込んで、手を引いて、夏美を引き寄せた。耳元でぎゃあと叫ばれて、思わず顔だけ背ける。


「人に見られたらどうするんですか!」

「これまでだってずっと一緒に帰ってたんだから、今さらじゃないですか?」

「ただ並んで歩くのと手繋いで歩くのとじゃ全然違うでしょ! SNSも炎上しっぱなしなんですよ、なりすましさんがどんどん爆弾落としてくれるうえにこれだものっ」

「迷惑ですか?」

「そっ」


 伏し目がちに顔を覗き込むと、肩をぐいぐいと押し退けていた夏美も勢いを落として、へな、と眉を下げた。


「そんな聞き方はずるい」

「いや?」

「嫌とか、別に……ちょっと安心します、けど」

「けど、人には見られたくないってこと?」

「うん」

 目を合わせて尋ねる口調に、夏美の言葉遣いも緩んでいく。ここだな、と思った。


 繋いだ手を二人の間で持ち上げると、それにつられて、夏美の体がこちらを向いた。もう片方の手を肩に置く。反射的に肩を竦めてはじめて彼女は、いつの間にか街灯の下で立ち止まっていることと、不自然なほどの距離の近さに気付いたようだった。


「翔琉さ……」

「夏美さん、その言い方だと」

「や、どうしたんですか」

「人目につかなければ触れていいと言っているように聞こえますよ」


 かっと赤くなった頬に、指を沿わせる。俯いた顔に影が落ちる。額を合わせて、ぐり、と甘えるように押し付けて、鼻先を上げさせる。少し動くだけで触れてしまう距離だ。

 “そういう行為”を想起させるには、この近さだけで充分だろう。


「え、え、私そんな」

「ねえ、夏美さん」

「待って、だめです」

「こっち見て」


 おねがいです、と囁くと、こわごわ瞼が上がって、視線が交わる。両手を彼女の腰の後ろに回して、指を組んだ。自由になった夏美の手は翔琉の体を押し返してはいるが、こんなゆるい拘束にも、逃げようという意志は見られない。

 本気で拒絶したいなら黙って困った顔をしていないで、爪を立てるなり頭突きをかますなりすればいいのだ。


「嫌ですか?」

「も、ちょっと、ほんとに待って」

「いつまで?」


 呟くような声で問う。きょときょとと泳ぐ目をじっと見ていると、じわじわと潤みはじめる。夏美が肩を跳ねさせるたびに、ささやかに抵抗していた手もぴくりと動く。それが可愛くて、そんなことに擽られる嗜虐心が自分にあったことに驚いた。


 腰が細くて、手が小さくて、どこを触っても柔らかくて、とろりと甘そうな瞳から目が離せない。もう、このくらいにしておかなければ、と考える。なのに離れがたくて戸惑う。

 小さい背中に手の平を這わせた。翔琉の大きな手ではすぐに肩に辿り着いてしまうのが勿体なくて、ゆっくり、ゆっくりと撫で上げる。耳元で、吹き込むように低く名前を呟く。


 かけ、と呼び返す声に、霧雨のような湿り気があった。鼻が擦れ合うほどの距離で、目を覗き込む。一度ぎゅっと瞬きをして開いた彼女の目から、涙がこぼれ落ちた。

 さあ、と熱が引く。浮かされていたのだ。


「あ、夏美さん」

 我に返って、抱いていた手で肩を掴んだ。夏美は指で目頭を拭う。


「すいません、その」

「私、ほんとに、そんなつもりは」

「わかってる。わかってます、すいません、意地悪して」

「な、なんなんですか急に、びっくりするでしょ」


 泣きながら抗議する夏美に、翔琉は心底動揺していた。彼女が泣いたことにもだが、泣くまで加減ができなかった自分にも戸惑っていた。


「ごめん、やりすぎました。ちょっとした策だったんです」

「なんで先に言ってくれないのっ」

「どうせ夏美さん笑っちゃって、ちゃんとできないと思って」

「なにそれえ……」

 頬に伝った涙を掬った。もう、口を開くたびに謝っている。


「翔琉さん、目が本気っぽくて、こわかった」

 夏美がすん、と鼻を鳴らして言う。「え」と声を出したきり、それには答えられなかった。


 まさか、本気で触れたいなんて思ってはいない。いないはずだ。人間関係は円滑にこしたことはないが、入れ込みすぎることのないよう、線引きはしっかり決めている。

 こんなふうにトラブルシューターまでほいほい請け負うのは、少し踏み越えているかも、という自覚は、あるにはあったが。


「こんなことしてストーカーの人に見られたらどうするんですか……? 大変なことになっちゃう」


 夏美の声に平静が戻ってきたことで、翔琉の意識もすっかり引き戻された。

「あぁ……実は、それが目的で」

「へ……いちゃついてるとこ見せるのが?」

「いちゃ……まぁ、そうです。最近の感じだと、夏美さんと僕との身体的接触に過剰反応しているようだったので」


 小声でそう言いながら、「帰りましょうか」と夏美を促す。

 手がぶつかっても、今度は握らずに指先を触るだけに留めて、彼女の耳元に口を寄せる。


「少し早足でおねがいします」

「え?」

「すいませんが、今日は部屋、上がらせてもらってもいいですか」

「えっ」


 一瞬立ち止まった夏美に目を合わせる。努めていつもどおりに、含みのないように表情を作って、小さな声で続けた。


「さっきのあれです。僕らの仲が進展したと思ったストーカーは、またなにか新しい行動に出るはずです。今もきっと見ているだろうから、今夜が一番冷静さを失ってるはず」


「ええと……」

 夏美も背伸びをして、翔琉の耳元に顔を寄せた。

「つまり、今夜はなにしてくるかわからないってこと?」

「その通りです。多分、一気にエスカレートするんじゃないかと」

「だから翔琉さんが守ってくれるの?」


 言っていることは間違っていないが、明け透けな物言いに、口元がゆるみそうになる。なんとか堪えて、真摯すぎない笑顔を作った。

「ええ、寝ずの番はおまかせください」



 そうしてあえて背後を気にしないように、ついでに言葉少なに性急に、帰り道を急いだ。

 夏美への行動の指示は全て小声で、肩や腰に触れながら耳元へ囁く。傍から見れば、情欲の高まりをなんとか押し殺して、一刻も早く二人きりになりたい男女、というふうに見えただろう。


 エレベーターホールに入ったところで、駄目押しでもう一度手を握った。

 ストーカーが見ていたとしてもさすがにオートロックの中までついてくることはできないはずなので、エレベーターが上昇すると同時に平然と手を離して、夏美の笑いを誘った。面白がらないの、と言いながら、いつものようにドア周辺を調べる。


「お兄ちゃんのお土産のご当地インスタントラーメンセット開けましょ! あ、ビール飲みます? 例の日本酒もありますけど」


 彼女の認識ではもうすっかりお泊り会の気分のようで、部屋に入るなり楽しそうに言うので、溜め息を禁じえなかった。さっきしおらしくぽろぽろと泣いていた女の子はどこへ行ったのだ。

「お酒は飲みません。寝ずの番だからね」


 わかってるんですか、という意味を込めてわずかに語尾を強調するが、きっと一切なにも伝わってはいないだろう。

 その後、インスタントラーメンと冷凍の肉まんという、遅い時間にするには少々背徳的な食事を済ませ、翔琉に合わせて起きていると頑なだった夏美を説き伏せて、部屋の灯りを消した。

 シャワーは明日の朝にする、と言った夏美の言葉に、どれだけ安心したことか。大した躊躇もなく男を部屋に入れた時点で、すでに警戒心もなにもあったものではないことは置いておく。


 目的はストーカーの妄想を掻き立てることであるため、部屋は暗くしておいたほうがいい。こちらの様子もバレては困る。


 翔琉がそう説明すると、じゃあ映画でも流しておきましょうとDVDを四本も五本も出してきた夏美だったが、二本目に突入したところで早々に舟を漕ぎはじめた。うとうとしてははっと顔を上げて、映画についてコメントしたり、今日のカフェ・リブレでの出来事を話したり。

 寝たくないから口を動かすらしいが、そう言った声がもう、半分くらい寝ている。

「このお部屋に人入れたの久しぶりなんですよお。っていっても、お兄ちゃんと、高校のときの友達と、深山さんたちぐらい」

「へえ、深山さんたちが」

「うん。家具動かすのを手伝ってくれたの」


「ほんとは今日、他に誰か呼べたら安心でしたね。近所にご友人でもいればよかったんですが」 

「遠いんですよねえ。彼氏もいないしねえ。って、彼氏いたら翔琉さんにこんな迷惑かけてないか」

「迷惑なんて思ってませんよ、僕は」


 ベッドの横に二人並んで座って、ふにゃふにゃの夏美と話をしている。テレビ画面には、翔琉が幼いころの映画。主人公はかわいい子豚だ。夏美の膝には、体半分ずり落ちたトラ猫。迷惑どころか、と言いかけたがやめた。


「この間合気道大会で優勝した朋恵ちゃんいたらストーカーが襲ってきても安心だったね。強くて頼もしいですよね」

「女子高生に危険なことはさせられませんよ」

「それもそか」

「僕は頼もしくないんですか?」


 画面から視線を外して、夏美の顔を見る。とろんと垂れた眦。自分も同じような目をしている気がした。眠いのだ、と考える。眠いから、今、言葉を間違えたのだ。「えへへ」と夏美が笑うと、瞳がとろけて消えた。


「翔琉さんも。頼りにしてますよ」

 まともに返されてしまって目をそらす。


 夏美の膝から上半身をぐんにゃりとはみ出させたムギが、喉をさらけ出して眠っている。ペットの無防備さも飼い主に似るのだろうか。


 その背中をずっと撫でていた夏美の手が、ふと止まったことに気付いた。顔を見ると、首をくたりと俯けて目を閉じている。すう、と小さな寝息が聞こえた。寝るならベッドで、と先に言っておいたのに。


 なんとなしに髪を触ると、思っていたよりつるつるでさらさらで、なんだこれ、と手触りを確かめてしまう。翔琉の色素の薄い髪は軽やかではあるが、艶やコシというものはあまりないのだ。

 ムギの顎を擽ると、頭を抱えて窮屈そうな伸びをする。彼が起きたら夏美をベッドへ運ぼう、と思った。


 そっと立ち上がり、リモコンを手に取ってDVDの音量を下げる。

 窓に近寄って、カーテンの隙間から外を窺った。外から夏美の生活を覗き見できるのは、この大きなベランダ側の窓だけだ。ストーカーが見ているならここからのはず。


 慎重に通りを確認すると、斜向かいのアパートの一室から灯りが漏れていた。時刻は午前二時。電気が点いているのが不自然、というほどの時間でもない。試しにカーテンを大きく揺らしながら少し開けてみる。


 例の部屋の灯りは、そう間を開けずに消えた。


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