看板娘の裏アカウント 6
翌朝、開店準備をはじめた途端にドアから飛び込んできた夏美に、翔琉は目を丸くしたまま「あ」と声を発すると驚いた猫のように二秒固まった。
「夏美さん、どうしたんです」
夏美は危険運転のごとく走り込んでくるなり、カウンターに手をついて、俯いて呼吸を整えはじめた。
時計を確認するが、遅刻しそうになって焦るような時間ではない。いつもの夏美の出勤よりも少し早いくらいだ。
膝に置いた手に、封筒が握られていた。真っ白で、縦長で、何通もある。
肩を上下させる夏美に近寄ると、のろのろと顔を上げた彼女は、今にも泣き出しそうな表情をしていた。
「夏美さん!? なにかあったんですか」
「か、翔琉さん……」
「怖くなったら呼んでって言ったのに」
「でも、さっきこれ、入ってて、私どうしたら」
手にした封筒をぐい、と押し付けられて、受け取る。表にも裏にもなにも書かれていなかった。
取り乱した夏美の言葉を拾って、話すのを手伝う。
「入ってたって、ポストに? ストーカーからですか?」
「そう、そうです、下の集合ポストに」
「昨日の夜はなにもありませんでしたよね。てことは」
「夜中のうちに入れたんです、きっと」
薄い白い封筒に、中の便箋がうっすらと透けている。黒い小さな文字だった。
「中、見ました?」
「あんまり、はっきりとは」
ちらりと覗いただけでもはっきりそれとわかるような内容だったのだろう。
自分が見てもいいのか、視線で尋ねると、夏美が頷く。
封筒は閉じられておらず、中には折られていない一筆便が一枚入っているだけだった。
『あの野郎バイト仲間だよね?
エッチしてんの? 何回した?
いつも夏美の部屋で抱かれてるの?』
そんな調子で夏美と翔琉の仲を勘繰る内容が、罫線と同じ行数だけ書かれている。
翔琉がポストやドアの確認のためにマンションへ一緒に入って行くところを見ていたのだろう。十分かそこらで出て行ったところはなぜか見なかったらしい。
部屋の電気が消えた時間を分単位まで具体的に書いてあるのを見たところで、見るに耐えず一旦目をそらした。
顔を引き攣らせながら視線を上げると、夏美と目が合う。
情けなく唇をへの字に歪ませた彼女は、「ど、どうですか?」と細い声で言った。
「私こっちのしか見てないんですけど」
夏美が指差した封筒を開けると、そちらには乱れた荒い文字が短く書き付けられていた。先に見たものとはずいぶん雰囲気が違う。
『今まで大目に見てたけどもうガマンの限界
誠意はないのか 人をバカにするな
ウソばかりつきやがってビッチ』
一緒に入っていた手紙から考えるに、夏美が翔琉と男女の仲になったと思い込み、嘘を吐かれた、馬鹿にされたと憤慨して手紙を書き殴った、ということだろうか。
それにしても、やたらと上から目線なのが不気味だ。
手紙は全部で三通あった。
最後の封筒を開ける。
翔琉が最初に読んだものと似たような調子で卑猥な煽りが書き綴られたものだが、妄想性が増し、言い回しがねちっこくなり、便箋いっぱいにびっしりと小さい文字が詰め込んである。
まともに読む気にもなれなかったが、ストーカーの中では夏美は翔琉との行為が初体験で、敏感で感じやすく、しかしそれを充分理解しているのはストーカー本人だけらしい。あの男じゃ君を気持ちよくさせられない、自分ならどこにキスしてこんなセックスをして君を何回イカセてあげる、という話で便箋が真っ黒に埋まっていた。
(き、きもちわる)
これまでなんとかそう思わないよう、客観的に事態を見ようとしていたが、そんな努力もここまでだった。
夏美が開けたのがこの一通ではなくて本当に良かったと思う。
「夏美さんは見なくていいですね、全く」
「な、なに書いてあるんですか……?」
「僕への恨み言とかです」
「えっ」
そんな、と眉尻を下げた夏美は、これまでになくしょんぼりと憔悴している。
内容の気色悪さもさることながら、問題はストーカーがマンションのエントランスまで入って来た、ということなのだ。
これまで外からベランダを見つめるだけで満足していたストーカーが、激情のまま書いた手紙を直接ポストに入れに来るまでになっている。
夏美の危機感を高めるために言った翔琉の脅かしが現実になってしまった。それを彼女も不安に思っているのだろう。
しかし、今さらエスカレートした理由がわからない。
翔琉が家まで送っているということならば、昨日始まった話ではないのだ。エレベーターに一緒に乗り込むようになってからも、もう五日も経つ。
不仲を装ったこと、閉店後も小一時間ほどカフェ・リブレで過ごしていたこと、帰りに夏美の知り合いに会ったこと。
昨日起こったこれらの出来事に、ストーカーの逆鱗に触れたなにかがあるはずだ。しかし昨日ストーカーがカフェ・リブレに近付いていないことは、嘘喧嘩の実験で検証できている。
手紙の内容も、二人の仲が険悪なこととは全く無関係、むしろ真逆の疑いをかけているようだ。
店を見張っていて居残っていたことを知っているのなら、帰り道もそのまま尾行したはずだ。しかし夏美と親しげに会話していた木戸についても、手紙では一切触れていない。
翔琉は頭を悩ませた。手に持ったままの便箋を見下ろす。ふと、その中の一文が目に留まった。
「……夏美さん」
名前を呼ぶと、心配そうな顔をした夏美が、近付いて顔を覗き込んでくる。その表情を見ながら、なんと言うべきか、探り探り言葉を発する。
「ええと、こんなことを聞くのは、非常に心苦しいのですが」
「はい?」
「夏美さん、Dカップなんですか?」
言った途端に背後でがっしゃん! と大きな音がして、ば、と二人で振り返った。
開いたドアの前、ブリキ製のじょうろを足元に転がした店長が、青い顔をして二人を見つめていた。
「な、夏美ちゃん……訴えるなら証拠集め手伝うからね……」
考え事に没頭していて気付かなかった二人も二人だが、よりによってなんというタイミングで。しかも状況判断が素早く、不穏かつ適切なことを言い出す。
言われた夏美は、なぜかこの場の誰よりもおろおろしていた。
「う、訴えませんよ! 合意の上です!」
「翔琉くん君ねえ!」
「夏美さん言い方!」
この時の般若のような顔が、翔琉にとっては初めて見た店長の怒りだった。
とりあえず夏美には黙っていてもらって、店長の誤解を解きつつ事情を補完して、夏美のストーカーについてもう少し詳しい話をしておくことにした。ここまでくればさすがに大事にしたくないなどと言っている場合ではない。
「君たちね、そういう重大なことは早く言いなさいよ」
「すみません……とにかく翔琉さんはセクハラしてないですからね」
「わかったわかった」
「や、僕の聞き方も悪かったので……」
気になったのは夏美の胸のサイズではなく、それがストーカーの妄想なのか事実なのか、ということだ。
「すいませんが、さっきの話、本当かどうかだけ」
「うえ、まぁ、そうだけど……それが」
「ストーカーにそんなこと知る機会、あるはずないですよね」
「あれ? そうだよね」
部屋に侵入された形跡がないことは、五日間きちんと調べたはずだ。ベランダは監視されているようだが、遠くから見ているだけではサイズなんてわかるわけもない。
考えられるとすれば犯人が元恋人である場合だが、その可能性ははじめに否定されている。
ストーカーが本来知り得ない情報が、手紙に含まれているのだ。もちろん当てずっぽうかもしれないが。
歯がゆい思いで翔琉は手紙を眺めた。
その日、カフェ・リブレに疑惑の男が現れた。例の、突然夏美を一泊旅行に誘ってきた常連客、花田だ。夏美に言われて顔を確認して、すぐに気付く。この間も奥のソファ席に長居して夏美をじっと見ていた男だ。視線だけでは推理もできず、夏美と会話するところでも見られればと思ったが、彼はそうする気はないようだった。
ちらちらと向けられる花田の熱視線には気付いていないのか、夏美はカウンター席に座った木戸と話をしている。また行きます、お待ちしてます、と笑いあったのは昨夜のことだが、社交辞令ではないと示すためにも早速行動に移したのだろう。
盛り上がっているというほどでもないが途切れることも少ない会話に、翔琉は控えめに割って入った。
「お話中すいません、夏美さん、ミックスサンドふたつです」
「あっ、はーい」
木戸に向かってひょこ、と会釈をして調理台へ向かう。残された木戸はばつの悪そうなはにかみを浮かべた。花田もこのぐらい素直な反応ならわかりやすいのだが。
「あ、翔琉さん、蒸し器取ってくだ」
ぱたぱたと食材を用意していた夏美が、くるりと翔琉へ振り返った。そしてその勢いを全く殺さないまま回転する。のが、視界の端に映った。足を滑らせたのだ。
「すあっ!?」
「夏美さんっ!」
妙な声を出して転びそうになった夏美へ、咄嗟に手を伸ばした。間一髪、腰を捕まえて体を支えることに成功する。
「……大丈夫です?」
「あ、ありがとうございます……」
「なにも持ってなくてよかったですね」
仰け反ったような格好のまま夏美が手をぱたつかせるので、体重のかけられた腕に力を込めて、体勢を立て直すのを手伝う。
「へへ、面目ない」
と照れ笑いを浮かべて、夏美は作業に戻った。翔琉も皿やグラスの用意をはじめるが、視線を感じて顔を上げると、木戸が目を丸くしてこちらを見ていた。
「お騒がせしました」
「反射神経すごいね……」
「そうですか? はは……」
夏美を間に挟んだ顔見知り、という程度の、微妙な距離感の二人。その会話は、夏美が「蒸し器取りに来たんだった」と再び駆け寄ってきたことによって途切れ、その後再開することはなかった。
そしてその日の夜、夏美のなりすましアカウントには、店内で足を滑らせて翔琉に抱きかかえられたことが、ずいぶん脚色して投稿されていた。