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看板娘の裏アカウント 5

「それでね、そのお酒で翔琉さんが言ってたフランベやってみたいんだけど、上手くできるかこわくって」

 夏美の今の話題は、兄から出張土産にもらった日本酒についてだ。

 普段それほど度数の強い酒を飲まないことは知っているはずなのに、変わった瓶の地酒を見つけると送ってくるらしく、苦肉の策で料理酒として消費している、という話をしていた。


「はじめはキャップ一杯分くらいから試すといいですよ。カフェ・リブレで練習します?」

「うーん、店長が許してくれるかどうか。て言うか、よければ翔琉さん何本かもらってよ。消費手伝って」

「そんなに?」


 そんなに、と夏美が鸚鵡返ししかけたところで、背後からなにか声がかかったような気がして、揃って同時に振り返った。

 空耳ではなく、そこには二人を見ている若い男がいた。


「やっぱり夏美ちゃん」

「あっ、木戸さん?」


 木戸と呼ばれた男は、翔琉をちらりと見てから、夏美に目を向けた。わかりやすいことで、と思ったが、こちらだって気を使う筋合いはないので、翔琉は夏美のほうへわずかに身体を傾ける。


「お知り合い?」

「ああっと、友達の紹介で前に飲み会したんです、木戸さん。カフェ・リブレにも時々いらしてますよ」

「あ、そうですね。先日も」


 部屋着にシャツを羽織ったラフな姿に、髪型も違うので、夏美に言われてようやく気が付いた。

 時々カウンター席で夏美と話している客で、確か二日前にも来ていた。カフェ・リブレに来るときはいつも細身のスーツで前髪を後ろに流している。営業職かなにかだろうか。


「あぁ、カフェ・リブレの店員さんの」

「翔琉です。いつもありがとうございます」

「あれ、木戸さん、社宅は隣県でって言ってませんでした?」

「実は一時的に丘野支店担当になって、こっちに部屋借りてるんだ。夏美ちゃんは? 家、この辺りなの?」

「えっと……」


 夏美がわずかに反応に迷ったことに気付く。

 夏美のマンションがもうすぐ近くなのは確かだが、知り合いとはいえこんな時に自宅の場所を知られることに抵抗があるのだろう。今までの防犯意識の低さを考えればいい傾向だし、彼とはその程度の関係、ということだ。


 夏美の躊躇を木戸に悟られないくらいの間で、翔琉が言葉を攫った。


「いえ、常連のおばあさんを送った帰りなんですよ。荷物が多いから運んであげてと、店長に頼まれて」

 なんでお前が答えるんだ、という表情は一瞬で引っ込めて、木戸は「親切なお店だね」と笑顔を浮かべた。


「連絡したのに夏美ちゃんから一つも返事ないから、彼氏に止められてるのかと」

「え!? あ、翔琉さんは彼氏じゃないですよ!」

「誰とは言ってないんだけどな」

「あっ、もうからかわないでください」

「ごめん、はは」

「え、てゆうか連絡? なんにも来てないですよ?」


 え、と笑い顔のまま木戸は、「メールしたんだけど」と言った。夏美も「メール?」と首を傾げ、二人の間にはいつまでも疑問符ばかり飛び交っている。


「ええっと、アドレスは合ってたはずなんだけど」

「待って、今確認……あ」

 慌ててトートバッグの中を覗き込んだ夏美が、「充電切れてた」と気まずそうに顔を上げた。木戸が笑い声を上げる。


「あはは、いや、もういいや、またお店行けばいいし」

「えへへ、ごめんなさい。また来てくださいね」

 へらへらと笑いあったままそれじゃあ、と手を振り合う。木戸と別れたあと、翔琉はぽつりと言った。


「悪いことしました?」

「なにがですか?」

「僕らのこと、勘違いしたままですよ、きっと」

「あぁ、」


 ううん、と夏美は形のいいおでこから低い唸り声を出した。ぽん、と音が出そうなほど表情を変える。


「いいかなぁ。まあ」

「そういう感じです?」

「そういう感じです……てゆうか私、アドレス教えたかなあ」

 ヒナコが教えちゃったかなあ、でもヒナコにもアドレスは教えてないような。夏美がうんうんと首を捻りながら独り言を繰り出す。ヒナコというのが木戸を紹介した、夏美の学生時代の友人らしい。


「お友達なのにアドレス教えてないんですか?」

「だってメッセージアプリあれば済みますし。メールって今、お友達との連絡に使う?」

「確かに。仕事用のフリーメールくらいですね」

「あ、フリーメール、一緒に同窓会の幹事したときにヒナコに教えたかも。でも全然使ってないからパスワード忘れちゃったのよねえ」


 夏美の中ではそれで結論が出たのか、変わったような変わっていないような、微妙な位置に話題を移す。


「紹介ってゆうかねえ、合コンだったんですよ」

「へえ」

「意外って思ったでしょ?」

「正直いうと、少し」

「私も向いてないなって思いましたもん」


 翔琉は、ああ、と同意のような声をあげた。夏美に向いていないことにではなく、合コンを好かないことへのだ。


「なんかノリが合わなくて。その場しのぎの適当さとか流行りものとか、下ネタではしゃいじゃうのとかもねぇ」

「普段の話し相手、落ち着いた大人のお客様が多いですしね」

「そうなの! 翔琉さんも落ち着いてるし」

「そりゃ、僕はもうそんな年じゃないですから」


 またこの子は年齢差忘れて、とばかりに言う。そういえばさっきの木戸も、恐らく翔琉のことを同世代だと思っていたのではないだろうか。そんな話しぶりだった。

 夏美と同じくらいの年だったろうか、と人相や服装を思い返す。回答は、すぐに夏美本人から得られた。


「合コンのメンバーだってみんなもう二十三でしたよ?」

「僕もそのくらいの頃はそんな感じでしたよ。大学の同期がアホな奴ばかりで」

「うそだあ」


 本当ですって、と言おうとしたところで、見慣れたマンションの前に到着した。

 夏美がさっと周囲を見回す。後を尾けられた気配はないし、路上に監視者もいないはずだ、というのは、翔琉も道中それなりに警戒していたので間違いはない。

 ただ周辺の建物の窓の中まで見て回ることはできないので、気配を探るにも限度がある。


 とりあえず夏美の部屋のベランダを見上げて、窓やカーテンに異変のないことを確認してからエントランスに入った。

 ポストを確認して、危険物や不審物が入っていないこと、投函物に開けた形跡がないことを一緒に確認する。

 それから三階へ上がり、ドアや郵便受けも夏美が触る前に調べる。数日前に翔琉が取り付けた決まりだ。


「どんどん手際よくなってますねえ。あ、ドアノブの裏側? そんなところも見るんだ」

「ドアノブを汚すいたずらって意外と多いんですよ。必ず触る部分ですからね」


 確認を終えて大丈夫です、とドアから離れる。

 夏美が取り出した鍵には、この間までついていなかったキーカバーが被せられていた。キーナンバーだけで合鍵が作れるから人目に触れないよう隠しておいて、と言った翔琉のアドバイスを忠実に守ったようだ。


「じゃあ、僕はこれで」

「えー、ムギの顔見ていかないんですか?」

「……夏美さん、あのですね」


 鍵を開けたドアの向こうでは、すでに彼女の愛猫がにゃおにゃおと鳴き声を上げていた。夏美が帰るといつもそうやって出迎えてくれるらしい。

 心配性なんですよねえ、と夏美は笑うが、飼い主がこんなではそうなるのと当たり前だろうと翔琉はこっそり思っている。

 なにしろ男を無警戒に玄関に招き入れてしまうような子だし、そんな誘いをきっぱり断れずに根負けしてしまう、翔琉のような男もいることだし。


 翔琉がドアの前まで見送るようになって数日。はじめは数ヶ月会っていなかった顔を忘れてしまったように警戒していたムギだが、もうこの数分の挨拶を習慣として受け入れはじめたようだ。

 翔琉の差し出した手に鼻を近づけて、においをチェックすることに熱心になっている。


 カフェ・リブレで働きはじめたころ、まだ野良猫だった彼の撫で方がわからなくて、夏美に言われるままに従っていたことを思い出した。今でも力加減に自信がないので、後頭部に触ることは躊躇してしまう。


 散々においを嗅いで、「よし、いいだろう」とでも言うように座り込む瞬間が、翔琉は好きだった。

 許しを受けたような気分になるし、一仕事終えたようなムギのすまし顔がかわいい。


 とはいえいつまでもここで玄関を塞いでいられないので、ふかふかの毛に埋まった首輪のあたりを一撫でしてから、立ち上がった。


「じゃあ夏美さん」

「あっ……はい」

 なにか言いたげな仕草を見せたが、夏美は

「今日もありがとうございました」

 とだけ言った。


 いつもならばここで、上がってお茶でも、と言うところだったのだ。

 三回断って、四回目で窘めたら、ようやく誘いをやめるようになった。


「気をつけて帰ってくださいね。……また明日」


 半身を玄関に入れたまま言う姿に、溜め息をつきたくなるのを堪える。

 ここで翔琉が開きかけのドアに押し入るような男だったら、今頃どうなっているか。そんなことは考えもしないのだろう無防備な上目遣いに、そういうところだよ、と心の中で呟く。


 そしてすぐに、その考えを打ち消した。

 そうではない、この子が悪いことなど一つもないのだ。つけ込むほうが一方的に悪い。

 そう、ほとんど自分に言い聞かせるようにして肝に銘じた。


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