看板娘の裏アカウント 4
ある日のカフェ・リブレは険悪だった。店内の雰囲気はいつも通りだし、店員の態度が悪いなんてことももちろんない。客に不快な思いはさせていない。一人気まずい空気におろおろしていたのは、店の主だった。
店員二人の仲が妙なのだ。いつも呼吸ぴったりで仕事をこなし、言葉を交してはにこにこと笑い合ったり、客にまで仲が良いねと言われるほどの、夏美と翔琉の二人が。
今日は会話も最低限、冗談を言い合ってお揃いみたいによく似た笑顔を浮かべることもなければ、客がいなくなった今も近寄ることすらしない。普段ならばなにを話すでもないのにカウンターの中で二人並んでいるところだ。
ついに我慢ができないというように、店長は二人の間に立った。
「夏美ちゃんと翔琉くん、今日どうしたの? 喧嘩でもしたかい?」
二人は同時に店長を見ると、顔を見合わせた。夏美が言う。
「喧嘩したように見えました?」
「え? そりゃあ」
「やった翔琉さん、成功です」
「ですね。店長にそう見えるなら充分でしょう」
「な、なんて? 成功?」
テーブルの間にモップをかけていた夏美が、カウンターへ戻ってくる。ディナーメニュー用のシチューの仕込みをはじめていた翔琉の隣へすすっと近寄った。いつもの距離感だ。
「ちょっと実験をしてたんです」
「実験?」
「夏美さんがストーカーされてるみたいだって話、したじゃないですか」
翔琉は調理の手を止めて言った。店長には今回のことはさわり程度しか話していない。
夏美にストーカーがいるみたいなので接客は最低限で済むよう融通してほしい、心配はいらないから大事にもしてほしくない、とだけ言ってある。
実際にはストーカーに自宅が割れていて監視されているうえ、その情報を元にSNSでなりすまし裏アカウントを作られ、すでにネット上では充分大事になっているのだが。
「そのストーカーが僕のことを夏美さんの彼氏だと勘違いしてるようなので、仲が良くなさそうに振る舞うにはどうしたらいいかと」
「それであんな距離置いてたの? とりあえず喧嘩ではないんだね」
念を押すように言う店長の反応を見るに、相当ぎすぎすして見えたのだろう。
「違いますよお、フリですフリ。仲良しですよ」
「まったく、心配したよ……」
「それはすいません。でもなかなか演技派でしょ」
翔琉の説明には嘘と本当があった。
本当なのは『ストーカーが翔琉を夏美の恋人だと思っている』というただひとつのみ。残りはだいたい嘘だ。この実験の真の目的は、ストーカーに“二人は別れた”と信じ込ませること。そしてそれをSNSに投稿するかどうかを検証することだった。
ストーカーは間違いなくカフェ・リブレの常連客である。だが絞り込むには材料が足りない。
これまでの投稿内容から推理できたのは、平日の日中には店に来ていないこと、土日は時間を限定せずに来ていることだけだ。
しかしその条件に当てはまる常連客はたくさんいる。
そこで、日替わりでなにか印象に残るようなことを一日実践してみて、どれが投稿に反映されるかを検証しようとした。
夏美の髪型を変えてみたりコーヒーのおまけにチョコレートを配ったりしてみたが、いい加減ネタも尽きて、今日は不仲を装ってみることにしたのだった。
これで喧嘩だとか失恋だとか投稿されれば、今日来た客の中にストーカーがいる、ということになる。
しかし閉店作業を終えて二人で確認したなりすましアカウントは、喧嘩とは全く無関係のツイートしか更新していなかった。ハズレかあ、と夏美が呟く。
「今のところ、アタリは一昨日だけですね。チョコの日」
「あの日来たお客さんの中に、心当たりいないですか?」
「そう言われても……」
「こう、存在のアピールやアプローチが印象的な人とか」
そう聞いても夏美は、あぷろーち、と言いながら首を傾げるばかりだ。自分のなりすましに二週間も気付かなかった鈍感さは、やはりそんなところにも発揮されるらしい。ええと例えば、と翔琉は例をあげる。
「聞いてもいないのに自分の好みのタイプを言ってくるとか」
「ああ!」
「君はこのほうがいいと見当違いのアドバイスをしてくるとか」
「なるほど!」
「デートするほど仲良くもないのに、いつ空いてるか聞いてくるとか」
「は〜!」
「心当たりめちゃくちゃあるじゃないですか!」
「ええ!? いや、だって!」
夏美があまりにもうんうんと頷いてばかりなので、柄にもなくツッコミなんてものを入れてしまった。
今挙げたのは、翔琉がストーカーの傾向から推理した、だいたいの性格をもとにした例えだ。それに周囲の女性が愚痴っていたいわゆる“外してる勘違い男”の特徴を総括したもの。
周囲の女性、の中にはカフェ・リブレの常連の女子高生や居酒屋店員もいれば、ご近所のマダム、翔琉の親戚付き合いやテレビやラジオのトーク番組から収集した情報もある。
「それアプローチだと思わなくないですか?」
「相手はそのつもりだったと思いますよ。察してあげる必要はありませんが」
「あっ、待って、デート?」
夏美がぱ、と手の平を見せた。「待って」のポーズはそのままに、顎に手を当てて考え込む。顔の前に広げられた手に自分の手を重ねて、「ちっさ」と呟いてみる。
「翔琉さんの手がおっきいんでしょ……じゃなくて、先月それ、みたいな? のに誘ってくれた人がいたんですよ、お客さんで。花田さんっていうんだけど」
「みたいな?」
「レジャー雑誌みながらちょっとお話してたんだけど、私が兼六園いつか行ってみたいんですよねえって行ったら、来月一緒に行こうかって」
はあ、と翔琉はなんとも言えない相槌を打った。なにがとは言わないが典型的だ。
「でも泊まりなんてさすがに無理だし、断ったんです」
「そういうのもっと早く言ってくださいよ……」
「会話の流れで冗談ぽく言われたから忘れてたの。その後もよく来てくれるし、これまで通りお喋りもするし」
「断られたときの保険に、本気で言ったわけじゃない、て逃げ道を用意しておく人はよくいますよ。見栄っ張りなんです」
そしてそういう人間ほど、些細なことでも相手に傷付けられた、という被害意識を持ちやすい。
夏美はくるりと巡らせるようにして、翔琉へ視線を向けた。
「翔琉さんはそういう見栄、張らなそう」
にっこり、と擬音のつきそうな笑みを浮かべて、翔琉は答える。
「僕なら断らせませんので」
「ははあ。丸め込むもんね」
帰り道もそんな調子で世間話をしたり四方山話をしたり、時々少しこれからの調査や防犯の話をしたりしながら、特に急ぎもせずに歩くのが、ここのところの習慣だ。
夏美の身辺警護という名目ではあるが、すっかり慣れきった距離感の相手と、一日一緒に働いてそのまま一緒に帰っているのである。
緊張もなにもなくなって、事件などなくてもそれが当然であるかのような勘違いを起こしそうだった。
もしもこのストーカー案件が無事に解決したとして、カフェ・リブレの前でお疲れさまでしたと別れる一人の帰り道に、また慣れるにはどれくらい時間がいるのだろうか。
そもそも翔琉はこの町に長居する予定はない。居付いてもせいぜい一、二年のはずだ。町を離れることになればカフェ・リブレを辞め丘野町からも離れ、今慣れている生活の全てを捨てる手筈だ。半年だか一年だか先の自分が少し心配になった。