看板娘の裏アカウント 3
グラスを下げに近寄ったテーブルの上を見て、翔琉は溜め息をついた。落書きされたペーパーナプキンをくしゃりと握り丸めて、エプロンのポケットに突っ込む。
数回見た覚えのある四人連れの女子高生たちが帰ったあとだ。
おもむろにペンケースを出して高い笑い声を上げながら盛り上がっていたかと思えば、残されていたのは夏美への書き置きだった。
『裏アカ見たよ♡拡散してあげるね』
というカラーペンの字のあとは、ばらばらの色と筆跡で
『欲求不満ビッチ』
『消えろ淫乱』
『カケル様がお前なんか相手にするわけねーだろ』
と続いている。
“裏アカウントでエロ自撮りを投稿している喫茶店の女店員”という存在が、学生を中心に口コミで広まりはじめているのだ。
夏美を見てこそこそと囁き合うだけの遠回しなものからこういった直接的なものまで、嫌がらせが増えはじめている。
アカウントの削除依頼を出すことはできるが、消したところでまた次を作るだけだろうし、逆上される可能性もあると考えて野放しにしたのが、仇になってしまっていた。
なりすましストーカー本人のほうも、野放しにしたからといって大人しく現状維持しているわけもなく、こちらがなにもせずともストーカー行為はエスカレートする一方だ。
夏美がストーカーの存在に気付き、投稿に反応してしまったことが、ストーカーを喜ばせてしまった。
写真はますます過激になり、性的な妄想を連想どころか直結させるようなものばかりになっている。
下着を脱いでいたりベッドの上だったり、昨晩遅くの投稿には、全裸にパーカーだけ羽織ってアダルトグッズを手にした写真が添付されていた。
欲求不満、と落書きを残した女子高生も、そういう投稿を見たのだろう。
文面も
『朝は六時に起きてベランダで歯磨き』
『部屋着はグレーのパーカー』
『今日は遅刻しそうでお店まで走った』
など、本人にしかわからないプライベートな内容が増えている。全て事実だと夏美にも確認が取れた。
やはり部屋を監視できる場所にいて、投稿するたびに怯える夏美の反応をどこからか見て楽しんでいるのだ。
夏美は昨日からフロアに出ず、キッチン業務だけをこなしている。
キッチンに近いカウンター席には信頼できる顔馴染みや一人で来店した客だけを案内することで今は凌いでいるが、それもいつまでもつかどうか。
先ほどの女子高生四人組のような嫌がらせが、いつ夏美の目に入るかもわからない。
ソファ席で食事を終えてから二十分以上居座っている男性客が、ずっと妙な視線を夏美へ向けているのも気にかかる。
ポケットの中で小さくなるまで紙くずを握りしめた。
夏美は知人らしい男性客に挨拶されて笑顔を見せているが、いつもと比べてずいぶん表情が堅い。
太陽を浴びて上を向いた向日葵のような彼女の笑顔を、きっと常連客皆が恋しく思っているに違いなかった。
客との会話が終わるのを待って「先に休憩どうぞ」と声をかけると、夏美は露骨にほっとした顔をした。
大きな皿を一度カウンターの端に置いた。“STUFF ONLY”とプレートのかかったドアを、靴で押さえる。
片手に皿、片手にハンドル付きのグラスを二つ持ってドアの隙間に体を滑り込ませ、「よ」とそのまま足でドアを閉めた。
一部始終を見ていた夏美が、足癖の悪さを見てけらけらと笑う。
「翔琉さんお行儀悪いですよ。いけないなあ」
「夏美さんこそいけませんよ、お昼食べてないでしょ?」
笑い返した翔琉がテーブルの上にセッティングしたのは、サンドイッチの乗った皿と、レモン水に冷凍グレープフルーツの浮いた細いドリンクジャーだ。
「バレてたか、ありがとうございます。レタス増量?」
「レタス増量。食べられます?」
「見たらお腹空いてきました。表は?」
「店長帰ってきたので休憩もぎ取りました」
「もぎ取りましたかぁ」
翔琉もいただきます、と手を合わせてからレタスのはみ出そうなハムサンドにかぶりつく。一気に半分ほどになったサンドイッチを見て、夏美が「翔琉さん一口でっか」と笑った。
「夏美さん、今後の調査のことなんですが」
三切れめを平らげた夏美がふう、と息をついたのを確認して、翔琉は切り出した。
グラスの水滴を指でなぞりはじめたら、彼女の満腹の合図だ。
夏美は顔を上げると、わざわざ佇まいを直した。
「ストーカーもエスカレートしてますが、なりすましを見て来る客も増えてきてます。ストーカー行為に加担している自覚がないので、そっちも厄介ですね」
「ああ……お昼に来た四人組のお客さんにレジで変なこと言われたけど、やっぱりそういうことだったんですね」
「えっ」
「ちょっとセクハラっぽかったからびっくりしちゃって」
翔琉は眉を寄せた。テーブル席に案内した一見の男性四人連れは確かに記憶にある。翔琉が常連のOLたちの対応に当たっている間に夏美がレジを担当していたのだが、そんなことがあったとは。
「すいません、僕の見通しが甘かった。警護をちょっと見直しましょうか」
「と言いますと」
「接客は常連客だけにして、一見さんは必ず僕か店長を呼んでください。買い出しも一人で行かなくて済むように店長にもある程度打ち明けたほうがいいかもしれません。帰りはドアの前まで送ります、僕が郵便受けや鍵穴を調べますから。早朝と夜の外出は避けて、外で一人にならないようにしてください。不安なら朝も迎えに行きますから、電話して」
「え、でも」
夏美が表情を曇らせた。
「朝から来てもらうのはさすがに悪いですよ」
「いいんですよ、依頼主なんだから。どんどん使ってください」
「依頼主って、翔琉さんただ働きなのに。私、兄もいるし」
「車で一時間以上かかるんじゃありませんでした?」
「う、まあ……でも、朝だと学生の登校時間だし……なりすましのせいで今も炎上中なのに一緒に出勤なんて」
「それはこの際仕方ないと思って。いつか落ち着きますから」
そう言っても、夏美はもごもごと言い訳を募らせている。翔琉は彼女の肩に手を置いて、顔を覗き込んだ。
黒目がちな瞳に、真剣な表情が写りこむ。
「夏美さん、本当に炎上なんて言ってる場合じゃないんです。ネット上でだって身を守らなきゃいけないのはわかりますけど、現実の、物理的な危険がすぐそこまで迫ってるんですよ」
「き、危険って」
「わかるでしょ、さっきも客になにか言われたんですよね? なんて言われたんですか」
「……た、溜まってんの、とか……俺が相手してやろうかとか」
「ぽいじゃなくれっきとしたセクハラですよそれは。あのなりすましの投稿を見ただけでそんなふうに思う人がこれからもきっと出てきます。中には、声をかけるだけでは我慢できない奴も必ずいる」
夏美が息を飲んだ。今の言い方は、わざと怖がらせようとしてのものだ。けれど紛れもなく事実でもある。
次はもっと直接的な言葉をかけられるかもしれないし、腕を掴まれるかもしれないし、隙をついて人気のない場所へ引きずり込まれるかもしれない。
「ストーカー本人だって、いつまでも貴女の部屋を外から見るだけで満足してるとは限りません。そういう奴らが朝だから、明るいからって我慢すると思いますか?」
肩に置いた翔琉の手を、夏美がぎゅうと握った。ほとんど泣きそうな顔をして目を泳がせている。なにか言おうとして口を開いて、閉じて、翔琉の目をじっと見上げた。とろりと潤んだ瞳。肩を掴んだ手を思わず引き寄せそうになる。
夏美は再び口を開いた。
「怖くなったら……電話していいんですか?」
「ええ」
「来てくれるんですか?」
「行きます、もちろん」
「朝でも?」
「朝でも夜中でも」
「じゃあ……」
その時はおねがいします、とぽそり呟いて、夏美は俯いた。すっかり怯えた表情を見て心苦しくなるが、同時に少し安心もする。
「できるだけ長引かせませんから。僕が、解決してみせます」
夏美が不安な時に電話をかける相手を、たとえどんな理由であろうと他の男に譲る気はさらさらない。