看板娘の裏アカウント 11
そうしてカフェ・リブレには、平穏が戻った。
相変わらずきゃらきゃら賑やかな女子高生はいるし、夏美をじっとりと見つめる意気地のない男性客もいるが。
一時は疑惑をかけられた花田も結局、ただ距離感の調整が下手なだけの男だったようだ。以前のように話しかけられなくなってしまって、カウンター席にも座りづらくなり、遠い席から見つめるしかなくなってしまったのだろう。
学校帰りの女子高生が二人、カウンターの真ん中に陣取っている。混んでいれば端から席を埋めてもらうが、夕飯前の午後四時台は客の入りも穏やかで、明け透けな言い方をすれば暇だった。
彼女たちが真ん中に座ったのは空いていて開放感があるからではなく、そこならばケーキの仕込みをする翔琉とサイフォン式のコーヒーメーカーでコーヒーを淹れる夏美と、二人ともに距離が近いかららしい。
「夏美さんストーカーに遭ってたんでしょ? 大変だったね」
「えっ、なんで知ってるの?」
「学校で噂になってたよ、カフェ・リブレの前でストーカー撃退されてたって。翔琉さんがSNSのなりすましも認めさせて土下座させたんだって?」
「させてないよ! なにその話!?」
うそお、と悲鳴のような声をあげる夏美を横目に、翔琉は口の端だけで小さく笑った。翔琉が講じた策はなかなかうまく動いてくれているようだ。良くも悪くも噂が回るのは速い。
「逮捕されてすぐアカウント消えたみたいだけど、ほんと気持ち悪すぎるよね、なりすましてエロ画像上げるとか好きな人にやること?」
「エミちゃん見たの!? 未成年でしょ?」
「私は閲覧制限かかってたけど、お姉ちゃんが見たって言ってたの。彼氏の部屋にあったエロ本と同じ画像載ってたから、ネカマだと思ったらしいけど」
見たことのないものを見るように「へええ……」と言った夏美は、翔琉のほうを向いて、「やっぱり見る人が見ればわかるものなんですね」と言う。
「なんで僕に言うんですか」
「え? 翔琉さんマジ?」
「翔琉さんもエロ本とか見るんだ? やだー」
「いや待って違う、そういうことじゃないですから」
よほどなにか面白かったのか、少女たちはけらけらと笑う。それが落ち着くと、もう誤解を解きたい翔琉の言葉には興味をなくしたようだった。二人して頬杖を突いて夏美を見上げる。
「アカ消える直前のツイートとかさあ、ブジョク罪? 犯罪でしょ? ひどすぎだよね」
「K君とか言ってたけど完全に翔琉さんってわかるような書き方してたし」
「二人ともあんなことするわけないって思ってたけど、クラスには全部信じ込んじゃってる子いたからさあ」
「心配してくれたの?」
「そうだよお! 夏美さんカフェ・リブレ辞めちゃったらどうしようかと思った」
懐かれてるなあ、と思う。夏美は目尻を下げて本当に嬉しそうに笑っていた。彼女を見る少女たちの視線が眩しくて、親しみや憧れや慈愛といったものがこれでもかというほどに注がれていて、翔琉には少し見ていられないほど優しい空間だった。顔馴染みの客にこんなふうに想われるようになる、夏美の性質も眩しい。
「ありがとね、でももう落ち着いたから大丈夫よ」
そう言って笑いかける。
その時、ソファ席で店長と話し込んでいた中年の男性客が立ち上がった。中身の入ったクリアファイルを掲げる。
「じゃあ夏美ちゃん、これ置いてくね」
「あ、はい! ありがとうございます」
「菱川くん、今度コレね」
店長が会計をしながら麻雀に誘う手振りをしたのを、夏美と女子高生二人は「なに? 手話?」などと言い合っている。
菱川は丘野商店街にある小さな不動産屋の社長だ。あの朝の騒ぎで夏美がストーカー被害に遭っていることが広まってしまい、引越し先の融通をしてくれることになったらしい。彼が置いていったファイルの中身は、新しい物件をいくつかピックアップした資料だ。
「夏美さん引っ越すんだ」
「うん、ストーカー捕まったとはいえね、家バレちゃってるから。急で大変なのよお、ムギもいるし」
「引っ越しの手伝いはいるから、業者頼まなくても大丈夫だよ」
「店長腰悪いじゃないですか?」
「うん、だから、翔琉くんが」
「えっ僕?」
片耳で会話を聞きながら、ずっとイチゴのヘタを取ってカットする作業をしていた翔琉は、不意に話を振られて何の用意もなく顔を上げた。気づけばその場の全員が翔琉を見ている。話は聞いていたものの、翔琉は曖昧な苦笑いを浮かべた。
「そりゃ、男手のいるところは手伝いますが」
「翔琉さんそんなアフターケアまでしてくれるんですか?」
「それは同僚のよしみです。でも、女性の一人暮らしの部屋に上がるのは……ちょっと、問題ないですか?」
夏美のストーカー被害の相談に乗った話は積極的に広めたが、ボディガードの真似事をしたり、部屋に入って一晩泊まったりまでしたことは、店長にも誰にも話していない。だから、どの口がそんなこと、というのは、夏美と翔琉にしかわからないことだ。この微かな後ろめたさは、この先もずっと二人だけで共有していくのだろう。
戸惑いの出すぎていた苦笑を、やんわりとした笑顔に整えていく。遠慮がちで人との距離を詰めすぎない、常連客との会話でよく使う表情だ。店長は「それもそうだな」と頭を掻いた。
「お節介だったね。なんか臨時収入になる仕事頼むことにするよ、仕入れのお使いとか」
「ありがたいです! ……あ、でも」
店長に向かって目を輝かせた夏美は、すぐに翔琉に振り向いて、へにゃりと相好を崩した。
「翔琉さんなら別にいい気もしますけど」
わずかな間には、「今さらだし」という言葉が当て嵌まるのか。翔琉への気遣いをわざと感じさせるような苦笑いを、夏美は下がった眉のあたりに含ませていた。
『私、嫌なことは嫌って言うほう』
夏美の言葉が脳裏に蘇る。店長のお節介でも、嫌だと思えばそう断るはずだ。翔琉の代わりに手伝いを頼める兄もいる。嫌と言わないのは、嫌ではないからなのか。嫌ではないということはいいということで、それはつまり。
ぐるぐると動揺した思考のまま、夏美から目をそらして、作業を再開する。まな板にぶつかった果物ナイフが、かん、と軽い音を立てた。指先に摘んだイチゴの切り口は、大きく斜めに歪んでいる。
不格好なイチゴに眉を潜めたらようやく自分が平静ではないことに気付いて、顔を上げて、こちらを気にも留めていない店長たちのほうを見て、それからカウンターの少女たちの視線に気付いた。相変わらず揃って頬杖をついたまま、口元をニヤつかせている。
「見てしまった……」
「翔琉さん顔に出ないね」
「指気をつけてね」
「……イチゴつまみ食いさせてあげるから、黙ってるんだよ」
夏美には惜しげもなく注がれる彼女たちの優愛心は、他には飛沫程度しか与えられないらしい。口をわざとへの字に歪めて見せると、ふひひと笑う。大きさの揃っていないイチゴを一つ手に取って、黒ずんだところを少しだけ切り落とした。




